なぜ、「SES」は脱法的労働の象徴として扱われるのか?
はじめに
日本のIT業界において「SES(システムエンジニアリングサービス)」という言葉は、単なる契約形態を超えて、しばしば「ブラック」「脱法的労働」といった負のイメージと結び付けられて語られます。なぜSESはそのような象徴になってしまったのでしょうか。本稿では、労働法制の変遷、IT業界特有の構造、2000年代から2010年代にかけての社会的事件や制度改革の影響を踏まえながら、その背景を整理します。
SESの基本構造
SESとは「準委任契約」に基づく人材提供サービスを指します。準委任契約は「成果物の完成責任」を負う請負契約とは異なり、委託された業務を「善管注意義務を尽くして遂行する」ことが契約上の義務となります。SESでは、作業時間に応じて報酬が発生し、いわゆる「人月商売」と呼ばれる形態を取ります。成果物の瑕疵担保責任もなく、毎月の労働時間に応じて入金が発生するため、零細企業にとってはキャッシュフローが安定しやすいのが特徴です。
しかし、実際の現場では「客先常駐」「発注側からの直接の指揮命令」という形で運用されることが多く、契約形態と実態が乖離する状況が頻発しました。ここに、SESが「脱法的」と批判される原因が潜んでいます。
派遣法改正とSESの爆発的増加
1999年の労働者派遣法改正により、派遣可能業務が原則自由化されました。さらに2003年の改正で製造業派遣も解禁され、企業にとって「外部人材を常駐させる」ことが日常的な選択肢となりました。この流れを受け、IT業界でも外注構造が大きく変化しました。
従来、外注といえば請負が中心で、モジュール完成やシステム納品を目的とするのが基本でした。しかし、法改正以降は「外部人材が常駐して作業する」こと自体に社会的な違和感が薄れ、SESのような準委任契約が大量に用いられるようになりました。派遣には許可が必要でしたが、準委任であれば免許不要のため、技術や資金が乏しい零細企業でも容易に市場に参入でき、SES専業の会社が雨後の筍のように乱立しました。
零細企業の参入容易性と構造的問題
SESは「成果責任なし」「瑕疵担保責任なし」「月ごとの時間精算」という特徴から、スタートアップ的な零細企業にとって参入障壁が非常に低いビジネスモデルでした。名刺と携帯電話さえあれば始められると揶揄されたほどです。
しかし、これにより以下のような構造的な問題が発生しました。
- 技術力のない企業でも人材をかき集めて送り込むだけで商売が成立。
- 資金力のない企業でも、月末締め翌月払いのキャッシュフローで回せる。
- 多重下請けの一角に入り込みやすく、業界全体が人材仲介的な色合いを強めた。
結果として、現場のエンジニアは不安定な身分で酷使され、零細企業は労務リスクを適切に処理できないまま現場に人を送り込むという「ブラックボックス構造」が固定化しました。
法的フィクションと偽装請負
SESの最大の問題は、契約上は「準委任」なのに、実態が「派遣」になりやすい点です。
- 準委任:発注側は直接の指揮命令を行えないはず。
- 実態:客先リーダーの指示に従って日々のタスクを実行。勤怠管理も発注元のシステムで行われる。
このように契約名目と実態が食い違う状態は「偽装請負」と呼ばれ、労働者派遣法違反とされます。2000年代半ばには厚労省が偽装請負への指導を強化し、大手メーカーやSIer案件で是正勧告が相次ぎました。
SESは「善管注意義務しかないのに、実態は客先の指揮命令下で働かされる」という法的フィクションに支えられていたため、脱法的と見なされやすかったのです。
「事前面接」問題と顔合わせのグレーゾーン
SESが「脱法的」と言われるもう一つの理由が、事前面接の慣行です。
労働者派遣法では、派遣先企業が派遣労働者を「面接で選別」することは禁止されています。採否を決めるのは派遣元であり、派遣先が人を選ぶのは「実質的な採用行為」とされ違法です。SESも本来は「人」ではなく「業務の遂行」を委託する契約ですから、発注元が個人を面接して選ぶことは筋が通りません。
しかし実務では、発注元が「顔合わせ」「挨拶」と称して候補者に会い、その印象で発注を決めるのが当たり前のように行われています。形式上は「業務説明」「スキル確認」という名目です。しかし実態として「この人は合わないからNG」と判断するなら、それは派遣やSESの契約原理に反しており、偽装請負や違法派遣の温床です。
準委任だからこそ「顔を見て選ぶ」のは自然ではある
ここで留意すべきは、「準委任契約において顔を見て選ぶこと自体は、必ずしも不自然ではない」 という点です。
たとえば弁護士や医師、税理士などの専門家に依頼する場合も、依頼人は必ず本人と会い、信頼できるかどうかを判断します。これは委任/準委任契約の本質が「成果完成」ではなく「専門的な裁量を前提とした役務提供」であるため、依頼者と受任者の相性や信頼関係が不可欠だからです。
したがって「一度会ってから契約を決めたい」という発注側の心理は、むしろ準委任契約に自然な行為だと言えます。
IT業界で問題化する理由
ではなぜSESでは、この「顔合わせ」が脱法的に扱われやすいのでしょうか。理由は、契約後の運用にあります。
- 弁護士や医師の場合:契約後は依頼人が直接指揮命令するのではなく、専門家の裁量に委ねられる。
- SESの場合:契約後も発注者が日々のタスクを直接指示するケースが多く、契約の建前と実態が乖離する。
つまり、問題は「会うこと」そのものではなく、会った後に発注者がどのように関わるかです。
「顔合わせ」が実態として「採用面接」になり、そのまま日々の指揮命令につながると、SESは派遣と見なされ、偽装請負の典型とされてしまうのです。
SIer文化と長時間労働の波及
2000年代のSIerは、CMMIやISO9001に基づく厳格なプロセス管理を掲げ、ウォーターフォール開発を標準としていました。そこでは、納期遵守のために長時間労働やサービス残業が常態化していました。
SESで常駐する零細の技術者も、この環境にそのまま巻き込まれました。元請の社員と同じ時間を拘束されながら、零細企業は資金的体力がなく、残業代を支払えない場合も多くありました。結果として「二重の搾取構造」がSES現場に根付いたのです。この構造的なブラックさも、「SES=脱法的労働」のイメージを強める要因でした。
働き方改革とSESへの圧力
2010年代半ば以降、政府主導で「働き方改革」が推進されました。ここで初めて三六協定に法的な上限が設けられ、違反には罰則が伴うようになりました。また、同一労働同一賃金のルールが導入され、派遣や非正規との待遇差の是正も進みました。
これにより、SES企業は従来の「長時間労働で稼ぐ」モデルを維持できなくなりました。発注元企業もコンプライアンスリスクを恐れ、SES企業に対して勤怠管理や労務体制の整備を求めるようになりました。その結果、資本力のない零細SES企業は淘汰され、市場は徐々に再編されていきました。
アジャイル普及とSESの変質
2010年代後半にはアジャイル開発が広がり、ウォーターフォール的な大量人月投入モデルが揺らぎました。アジャイル開発では自己組織化されたチームが短いスプリント単位で成果を出すことが求められ、単なる「人の差し込み」ではプロジェクトが回らなくなります。
この変化に対応したSES企業は、チームごとの提供やアジャイルコーチング、DevOpsやQA自動化支援といった新しい付加価値型のサービスにシフトしました。しかし、従来型の「人月単位の多重下請け」に固執する企業は次第に淘汰されていきました。
SESが「脱法的労働の象徴」とされる理由
以上を踏まえると、SESがしばしば「脱法的労働の象徴」として扱われる理由は次の通りです。
- 契約と実態の乖離:準委任を名目にしながら、実態は派遣労働であるケースが多い。
- 零細参入の容易さ:技術も資金もない企業が人材ブローカー的に介在しやすい。
- SIer文化の悪影響:長時間労働やサービス残業の慣行がそのまま下請けに伝播した。
- 制度改革前の放置:働き方改革以前は法があっても実効性がなく、現場での是正圧力が弱かった。
- 社会的象徴化:電通事件などの出来事を契機に「ブラック労働」の代名詞としてSESがクローズアップされた。
- 事前面接問題:表向き「顔合わせ」と呼ばれるが、実態は採否選別であり、契約原理と齟齬をきたしている。
- 準委任の特殊性:本来は顔を見て選ぶのが自然な契約形態であるにもかかわらず、IT業界ではその後の指揮命令が派遣的になりやすく、結果として違法性が強調される。
まとめ
SESは本来、契約上は「成果完成責任を負わず、善管注意義務を果たす」シンプルな形態にすぎませんでした。しかし日本のIT業界においては、派遣法改正後の需要拡大と、零細企業の参入容易性、多重下請け構造、SIer文化に根付いた長時間労働の慣行が重なり、しばしば「偽装請負」や「ブラック労働」の温床となってきました。
特に「事前面接=顔合わせ」慣行は、形式的には合法を装いながら、実態としては採用行為に近く、SESを「脱法的労働の象徴」とするイメージを決定づけています。ただし、準委任契約において顔を見て選ぶこと自体は弁護士や医師と同じく自然な行為でもあり、問題はその後の運用――すなわち発注者が直接的に個人へ指揮命令を行うことにあります。
2010年代の働き方改革やアジャイルの普及によって、その最も露骨な形は是正されつつありますが、それでもなおSESは「脱法的労働の象徴」として語られることが多いのが現状です。これは単にSESという契約形式の問題ではなく、日本のIT業界の外注慣行や社会的規範の変化を映す鏡でもあります。
SESを正しく理解することは、過去の脱法的労働を総括し、持続可能で健全な労働環境を築いていくうえで不可欠です。
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