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なぜ、近年AIが身近になったのに逆に「シンギュラリティ」という言葉を全く聞かなくなったのか?

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はじめに

2000年代から2010年代にかけて、「シンギュラリティ(技術的特異点)」という言葉は、未来を語る上で欠かせないキーワードでした。未来学者レイ・カーツワイルが著書『ポスト・ヒューマン誕生』で「2045年にAIが人間を超える」と予測したことをきっかけに、日本でも論壇やビジネス書で盛んに語られました。

ところが近年、ChatGPTを代表とする大規模言語モデル(LLM)が登場し、AIが一気に身近になったにもかかわらず、「シンギュラリティ」という言葉を耳にする機会はほとんどなくなりました。むしろ「生成AI」や「AGI(汎用人工知能)」といった言葉の方が前面に出ています。本稿では、この逆説的現象の背景を整理し、言葉の交代が示す意味について考察します。

シンギュラリティの起源と拡散

「シンギュラリティ」という語は数学や物理学で「特異点」を意味します。これを未来社会に応用したのはSF作家ヴァーナー・ヴィンジであり、1993年のエッセイにおいて「人間の知能を超えるAIが誕生すれば、その後の社会は予測不可能になる」と述べました。その後、カーツワイルが2005年の著書で「2045年問題」を提示し、社会的に広まりました。

当時のAIはまだ日常に影響を与えるほど強力ではありませんでした。そのため、人々は「いつか来る急激な変化」を期待や不安を込めて語り、シンギュラリティは未来を象徴する言葉として受け入れられました。特に日本では、思想家や批評家、SF作家といった文芸的論者が積極的に用いたことで、一般読者にも広がっていきました。

文芸論者が主導した時代

2010年代前半までのAI研究者は、シンギュラリティに関して慎重な態度を取っていました。「本当に人間を超えるのか」「時期を特定できるのか」といった疑問が多く、学術的には断言しづらかったからです。

その一方で、文芸論者や未来学者はシンギュラリティを物語的に膨らませました。「人間とは何か」「社会はどう変わるか」といった哲学的問いを提示する上で、シンギュラリティは非常に便利な象徴だったのです。この時代、言葉の主導権は研究者ではなく文芸論者にありました。

LLMの登場と現実化のインパクト

2022年、ChatGPTの登場によってAIは一気に「未来の存在」から「現在の道具」へと変わりました。文章生成や翻訳、プログラミング補助などが一般の人々にも利用可能になり、AIは日常に浸透しました。

しかし、まさにこの段階で「シンギュラリティ」という言葉は急速に影を潜めました。AIが現実化したにもかかわらず、未来を象徴するはずの言葉が消えたのです。ここに、この時代特有の逆説的現象があります。

シンギュラリティが使われなくなった理由

1. 劇的断絶よりも連続的発展

シンギュラリティは「突然の断絶」を前提としています。しかし現実のAI進化は「段階的な改良の積み重ね」であり、予告されたような劇的爆発は起こりませんでした。人々が実感したのは「ある日を境に世界が一変する」ではなく、「昨日より今日が少し便利になる」連続的な変化だったのです。

2. 文芸的レトリックの役割終了

シンギュラリティは未来を語るスローガンとして魅力的でしたが、実務的な議論には適しませんでした。LLMが現実に広がった現在、社会が求めるのは「AI規制」「データ利用」「業務活用」といった具体的課題への解答です。抽象的な予言は現実のニーズに応えられなくなりました。

3. 語り手の主役交代

かつては文芸論者が未来を牽引していましたが、LLMの普及後は研究者やエンジニアが議論の中心になりました。技術の仕組みや限界を理解できなければ語れない時代になり、「シンギュラリティ」は現実の課題から乖離した言葉となりました。

AGIが未来を語る言葉として残った理由

興味深いのは、「シンギュラリティ」が消えた一方で「AGI(汎用人工知能)」が新たに浮上したことです。AGIは「人間並みの知能を持つAI」という工学的に理解可能なゴールであり、研究者も産業界も共通の言葉として採用できます。

LLMが現実を強烈に示したからこそ、人々は「次の地平」を意識し、その受け皿としてAGIが選ばれました。つまりシンギュラリティは「未来を待つための抽象語」だったのに対し、AGIは「未来の研究目標」として具体性を持ち、残ったのです。

逆説的な「不思議さ」

AIが現実化したのに未来を象徴する言葉が消え、代わりに別の未来語が現れる。この現象は技術史におけるパラドックスです。

歴史を振り返れば、同様の例がいくつもあります。

  • 「マルチメディア」は90年代には未来を象徴しましたが、YouTubeやスマートフォンの普及で自然に姿を消しました。
  • 「ユビキタス」も一時は流行しましたが、スマートデバイスが普及するとわざわざ使う必要がなくなりました。

シンギュラリティも同じ運命をたどったと言えるでしょう。

AGIもまた消える可能性

将来的に、もし本物のAGIが実現したなら、「AGI」という言葉も消える可能性が高いと考えられます。なぜなら、その瞬間に「未来の目標」ではなく「現在の現実」へと転じるからです。インターネットが普及して「ユビキタス」という言葉が不要になったように、AGIもまた実現した後は単に「AI」と呼ばれるだけになるでしょう。

つまり、未来を語る言葉は「未来である間だけ存在できる」という宿命を背負っています。シンギュラリティがその典型であり、AGIもまた同じ道をたどる可能性があります。

まとめ

「シンギュラリティ」という言葉が消えたのは、AIが現実に普及したからにほかなりません。

  • 現実のAI進化は断絶ではなく連続であり、「特異点」という比喩と合わなくなった。
  • 文芸的スローガンとしての役割は終わり、実務的課題が優先される時代になった。
  • 未来を語る新しい言葉として、工学的に具体性を持つAGIが採用された。

しかしAGIもまた、もし実現すれば「未来語」としての役割を終え、歴史の中に退場する可能性があります。未来を語る言葉は、未来そのものが到来すると不要になる。この言葉の消長は、人類が「未来」と「現在」をどう区別しているかを鮮やかに映し出しています。

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