教育についてとあと、カカポ
最近、私はちょっと熱と下痢があって大変だったのですが(検査したけどコロナ陰性です)、だいぶ回復しました。念のため、まだ少々自宅でぼんやりしながら過ごしていますが、暇なので、なにか記事を書こうと思っています。そのうち、ボドゲのルールと言語について話したりしてみたいです。
で、たぶん僕は他のエンジニアよりも基本的に「教育」に関わってきたので、その知見を残しておこうと思ってかいています。主に「子ども」向けが多いのですが、ここではあえて、人間向けに近い内容をかいていきたいなと思っています。
ただし、同時にこの文章はわたしの中での整理も含まれているので、とても読みにくいものかもしれません。
教育するとは一体なにか?
「教育」というと、たとえば、恐らく、学校の風景、教室があって、黒板があって、教師が黒板の前に立ち、学生に対して教えるという情景を思い浮かべる人が多いように思います。そこでは恐らく多くの人が教師が「知識」を、学生に与えていると思っている人が多いように思います。そこで、学生は「知識」を蓄え「成長」してくものだと。
ちなみに、Googleで「教育」の画像検索すると、黒板の風景が多いですね。
しかしながら、私としては「教育」の場面は、もっと広範に考えています。むしろ、学校以外の「放課後」にこそ、教育の現場なのではないだろうか?と思うわけです。「放課後」というと、子どもむけな気もするのですので、言い変えたら、そうですね、ある種、「抑圧」や「強制」から解法された時と考えても良いでしょう。なにかアニメを見るだとか、ジムに行くだとか、ダンスレッスンに行くだとか、ボードゲームをやるとか、そういう時こそ、真に実の時間であり、教育であり学びの時間のように思えます。
なぜ、私がこう考えているか?というと、まず対比として、前者の「学校教室」の現場のイメージだと、先生から学生への一方行の知識の伝達だと思っていないからです。むしろ、私はそうは置いてないからです。わたしは、本来人間が持つ能力を引き出していく、それこそが「教育」だと考えているからです。
知るとは何か?
ここで、人間が何かを知るというのはなんでしょうか? なにか具体的な状況を提示してみましょう。「カカポ」 というかわいらしい鳥がいることを見て知ったとしましょう。「カカポ」という鳥を見たとき、見る前との違いは、脳内に「カカポ」のイメージがあるか無いかでしょう。その脳内にカカポのイメージができあがることが「知る」ということになるでしょう。
教える=「知識のコピー&ペースト」?
とすると、もし教育を「知識の伝達」とすると、おそらく、「教える」ということは、このようなカカポのイメージをコピー&ペーストするようなものだと捉えられるでしょう。
ある意味、学習者がカカポを見なくても、カカポが脳内に完成できたら、学習は完了というわけです。しかしこれは非常に難しいでしょう。言葉によるコミュニケーションだけで、相手に正確に想像させるは非常に難しいように思います。
お話の花という映像アニメーションアート作品があります。非常に面白い作品ですが、対話によるイメージの想起の違いというのが上手く表現されているように思います。
このため、なにかしら資料や、映像等で、情報を補完できるように伝達するような努力をされることが多いでしょう。
百聞は一見に如かず
一方、百聞は一見に如かずという言葉があるように、「カカポ」をイメージするなら、実際にカカポを見たほうが早いでしょう。もしカカポを触れるなら触って、鳴き声を聞いてある意味「カカポ」と出会う体験をすることによって、カカポを脳内イメージすることができるでしょう。
だから、実際に「カカポ」を上手く知るには「カカポ」がいる動物園に行けって話になってきそうですね。まぁ、口頭や写真よりも、カカポに会いに行ける環境作りをどんどんしていくべきでしょうね。
重要なのは、ここで「知る」というプロセスがより能動的になっていることです。みずから、主体的に「カカポ」について知覚する、探索する、そういった「知ろう」とする能動的な行為によって、始めてなにかを「知る」ということが可能なわけです。
なぜ「創造性」が重要になってくるのか?
さて、わたしは教育の現場ではなにかしら、「創造」させるのが多いのです。おそらく、エンジニアの方でも、よく「手」を動かせと言う方が多いでしょう。それは一体なぜ重要なのか?について書いていきましょう。
たとえば、カカポをスケッチしたとしましょう。スケッチも一つ創造的な行為ですよね。そこで、なにか、始めて気づいたりすることが多いでしょう。たとえば、頭がもうすこし大きいとか、目の高さって顔の真ん中ぐらいにあるな?とか。
カカポを書くときも、まず、カカポを観察して、たとえば、頭について観察して、それを絵に書いて、そして、他の部分はどうだっけ?ということで、体を見て、それを書いて...みたいに、環境と成果物との相互作用によって、その人に、イメージが構築されていくわけです。
つまり「手を動かす」や「アウトプット」がなぜそれなりに大切か?というのが、アウトプットの過程において、アウトプット自体を観察したり、操作したり、遊んだり、反芻することによって、それなりに「知る」ということが解像度が上がるわけです。
どのように教えたらいいか?
さて、そうすると、どのように、「教え」ればいいんでしょうか? 一つに、いろいろな事を「語りかけ」その人のうちに、脳内になにかを生成させる、この方法があるでしょう。ですが、これは非常に難しいことでしょう。同じことば、同じ語りであっても、人によって、全然異なるものが脳内に構築されるからです。また、これは非常に受動的な「知る」であります。数学の証明や、プログラミング、絵を書く、 料理をする、ダンスを躍る、新しい言語を学ぶ、みたいなものを「知る」を「語り」だけで「知る」ことができるようなるなんて、それは非常に難しいでしょう。これらは、実際にやってみないとできないものです。
なので、人によってた、演習や、実践、ワークショップを通して教育しようとするでしょう。
これは、より優れているようにも思えます。なぜなら、なにかしら「経験」や「体感」をすることが可能であり、先の手法よりは、より能動的だからです。しかしながら、これらはやり方によっては、あまり効果がでないこともあるでしょう。なにかを強制して体験させることになりかねないからですう。これらは、あくまで学習者が好奇心を持って、主体的に学習しなければならないのです。
適切に環境を構築するのが寛容
強制するよりも、学習者が自由になにかを学習できるようにするための環境作りが必要なのです。ここで「自由」というのは、完全に放任して自習させるというよりも、教師の方が、学習のための「素材」を提供し、なにかしらのテーマ等を与えたり、学習者本人の身近な課題の発見や、学習のためのキッカケ作りみたいなものが必要なように思えます。この意味では、教師も教育の現場で「創造性」を発揮しなければならないでしょう。
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