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論理の存在しない世界で

2024/01/05に公開


ヒエロニムス・ボス『快楽の園』

資本主義の次の時代における労働とはどういうものだろうか。

現在の労働

現在、人間の労働は非常に効率化され、それが是とされている。それは労働が論理的なものであり、できる限りそうでなければならないという観念のもとに置かれているからだろう。効率化の旗印のもと、見える化、属人化の回避、職能のモジュール化、可処分時間の切り売りなどが行われ、それぞれに数値化されたKPI(コスパなど)が設定され、人間によって監視されている。

非効率とは、現代資本主義社会における一種の悪である。

非効率の許容と効率化

しかしながら、私たちは効率化されていないものを有難がってもいる。廻る寿司よりも回らない寿司のほうが一般的には高額だし、要求されるサービス水準も高い。効率化されたものとはつまり低価格そのものであり、非効率なものは高価格であることが許容されているのだ。

しかしそんな非効率にも、効率化が求められてもいる。高価な寿司を出しサービスの行き届いた店でも、いかに効率よく寿司を握り、素早く必要なアセット(おしぼりやお箸など)を提供し、可能な限り少ない手順で予約が取れることが求められる。結果的にそれが客を良い気分にさせる。

次の労働

では次の労働のすがたとはどういうものだろうか(冒頭の問い)。私たちは生成AIの登場によって、かつてない程度のアイデンティティの危機に直面している。「AIに仕事を奪われる」という言説を今までは鼻で笑っていたが、笑って済まされる問題ではなくなってきている。「仕事を奪われる」ということを「金銭的な収入がなくなる」ということでしか捉えていないむきには、「アイデンティティの危機」という表現の意味がわからないかもしれない。しかし仕事は、アイデンティティを支える重要な要素のひとつだ。

AGIの登場する未来

ご存知の通り生成AIには、人間の仕事を奪うことはできなかった。そのため現代の人間たちは、まだ安堵していられている。奪えなかった理由はいくつかあるが、最たるは「責任を伴った判断ができない」ということが挙げられるだろう。ChatGPTを使って文章を考えてもらうことはできるが、その内容の正しさをChatGPT自身が責任を持って保証することはできない。ChatGPTにデートコースを考えてもらうことはできるが、実際にそのコースがふさわしいかどうかは人間が判断する必要がある。

AI技術が更に発展することで、その判断を手放す日がやってくるだろう。

知恵の実を返却する

郡司ペギオ幸夫氏が言ったように、「〜であるなら、〜となる」という論理の連鎖から成り立つ等質空間における思考は、人間よりも人工知能のほうがずっと得意だ。現に、ChatGPTなどのLLMはそのために(も)すでに大いに使われている。

冒頭で述べたように、私たちの資本主義社会は効率化の論理によって循環する構造になっている。ということはつまり、資本主義を実践することもまた、人間よりも人工知能のほうがずっと得意なのだ。すでに広告のオークションが大多数の人間の預かり知らぬところで行われているように、効率的に人間を圧倒していくために、その他多くのもの資本主義的な仕事が人工知能に置き換わっていくだろう。

おや? そこにおいては「判断」もすでに手放してしまっているのではないか?

何が人間を人間たらしめるのか

私たち人間は、発達段階において鏡像を見ることで自己のアイデンティティを形成する。「他者(ひとやもの)と違うところ」を探すことによって、自己像を形作る。グノーシス主義における至高神が水面に写った写し身を見ることで自己を知り、また写し身によって自己を流出させてしまうのと同じ構造だ。しかし人間は長らく知的存在の集合体(人類)としての他者(ほかの人類)を喪失しており孤独だった。他者への渇望からか、あるいは偶然からか、やがて地上に楽園を作り、AGIという写し身を生み出すに至ろうとしている(必ずしも愛するために、ではないが)。そのとき人類は、決定的なアイデンティティの揺らぎと受け入れざるを得ない変化を経験するのかもしれない。

何もしないのが人間だ

一部にはそういう人間も現れるものの、主流にはならない。なぜなら、退屈は人間の脳に適していないから。アレンカ・ジュパンチッチ、バートランド・ラッセル、ハイデガー、西田正規などの言説のいずれを引いても、人間は退屈に耐えられない生き物であると言わざるを得ない。退屈と付き合い続けていくことは、國分功一郎の『暇と退屈の倫理学』において述べられた「内的な傷跡から蘇るサリエンシー(過去に受けた刺激の結果として自分の中に残った傷跡をもう一度確かめることによる刺激の反復)」との付き合いを、生きている限り続けていくことになる。これまでに小規模の人間集団しかいないので、大規模になったときのそれについてはあくまで推測に過ぎなくなるが、退屈と向き合い続けることを選択肢として取り続ける人間はおそらく少ないだろう。

AGIのお世話をするのが人間だ

そういう人間も現れるだろう。しかし、それもすぐに不要になる。なぜならお世話もまた論理的な仕事であり、それならば人工知能のほうが得意なことであって、人工知能による資本主義の中に人間の居場所は無いからだ。遅かれ早かれ爪弾きにあうだろう。

「人間がやることに価値があること」をやるのが人間だ

もしかするとこういう人間は残り続けるかもしれない。AGIが登場してほとんどすべての労働を代替した結果、反動的に「人間がやること」に対する価値が増大するだろう。たとえそこがAGIの領分になってしまったとしても、人間は論理を完全に手放すことはできない。なぜなら人間は言語ゲームの世界で、言語ゲームを駆使して思考しているからだ。いきなり他の方法で思考せよと言われてその瞬間から切り替えることができる人間は、おそらくほとんどいない(論理の世界に留まったまま「どうやって?」という論理的な疑問を抱いてしまう)。

もしかして人間は象徴界を離れ、今よりももっと現実界に根ざした生き物になれるのかもしれない。おそらくそこに『「人間がやることに価値があること」をやるのが人間だ』といった論理は存在しないが、それもまたひとつのアイデンティティとなることだろう(論理を飛び越えて特定の刺激に反応するだけの虫のような存在なのかもしれないが)。

「外部」そのものが人間だ

AGIに奪われないものとしてよく挙げられる芸術分野はどうだろう。しかしそこには美や価値の論理が存在する。近年ではとくに、資本主義的な価値の論理が芸術分野を支配している。果たして本当に人間らしい分野と言えるだろうか。

では狂気はどうか。狂気は非論理的だ。すこしは人間らしいかもしれない。論理的に狂っていることに気付いた瞬間アイデンティティを喪失してしまうが、それもまたひとつの狂気への回帰になり得るのかもしれない。

では無作為はどうか。完全な無作為であってはいけない。逆説的だが、「完全な無作為」は論理的であり、AGIの領分だ。見かけだけはすこし人間らしいかもしれない。

そこに何が「やってくる」のか

人間が資本主義を手放したとき、かつて知恵の実があった場所は人間の作り出したAGIが占める。それはあくまで論理的な存在であって、現実的なものではない。現実界に接地したものが喪失してしまう。人間はおそらくそこに空いてしまった穴を空虚だと感じ、何かで埋め合わせようとするだろう。それが人類としてのアイデンティティになると思うのだけど、上記の要素のモザイクになるのか、果たして……。

これについて、ヒエロニムス・ボスはどう思う?

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