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八戸市美術館をめぐる議論を調べる

2022/05/24に公開

八戸市美術館をめぐって議論があることを、このツイートにより知る。またデザインの専門家と消費者による評価、建築家による建築の評価と消費者・一般市民による建築の評価の乖離について学部時代から抱いていた興味があったため、論点と背景を調べたので、その流れを記録しておく。

ルール

現地に行って実際の建築を体験して批評(なのか感想なのか、なんでも)すべきだ、という主張は著者と建築家の両者が賛同しているように見えるので、それに従い、設計そのものへの具体的な批評はなるべく回避する。もちろん、インターネット越しに眺める写真や図面から受ける印象、などはそれ自体として意味があるので記録する。すべて自らの知識を増やすためにやる。自分の専門からはかなり遠いので、専門家の意見を尊重する。主目的が説得ではなく記録なので、調べたことをなるべくすべて羅列する。

調べる

まずざっと調べた。単なる調べ物なので、この稿のボディのみに興味がある場合は読み飛ばしてほしい。

epicentre(以下「感想文」)を見つけたのでざっと読んだ。
プロポーザルをここ経由でPDFを見た。

次選がこれらしい、ほかに中村竜治など。霞ヶ関文学と霞が関画法(役所パワポ)に並び、建築プロポ画法があるよな…。

八戸市新美術館建設工事設計者選定プロポーザル説明書に審査員一覧がある。敬称略。青木淳しかわからないので調べた。委員長(1956)、副委員長(twitter、その後八戸市美術館の館長になっている(美術手帖)。館長になる予定の人が建築プロポーザルの審査委員になるのはよくあることなのだろうか、楽しそう。1968)。青木淳(1956青森県立美術館),志賀野(1950? 仙台市役所部長→東北文化学園大学教授というあまり聞いたことのない経歴のようだ。ナレーションをすべて書いた紀要がフリーダムである。それはそうと紀要のフォーマットがかっこいいので本学も真似したい。)。 馬渡(1975くらい) 吉川「東北地域の農山村における女性起業家の事例調査」に掲載されている。男性6人に対して女性一人だけというのがいかにも行政がエクスキューズの女性枠を作ったのではという印象が…。"八戸市美術館(2021年11月開館)のオープニングプロジェクト・ディレクター"らしい。プロポーザルにも登場するはっち(Wikipedia)の文化創造アドバイザーでもある。はっちの設置には06年の八戸市商業アドバイザリー会議というので委員長が関わっているらしい(同Wikipediaより)。マチニワとはこれWikipedia、設計はアイエヌエー(Wikipedia)。年齢がわかった人たち5人の平均年齢は61歳になった。退官したおじいちゃん先生が多い。青森の中ではかなり住民が若く平均年齢が45程度の八戸市の需要を汲み取るためにこの構成でよいのかはよくわからない。別に若ければいいもの選ぶってわけでもないですしね。

Googleのレビューはなんと言っているか

建築や空間に触れているものがちらほらある。高い屋根が気持ちいい、チケットが高いわりにしょぼい、駐車場がない、展示が微妙、楽しい、売店が微妙、スタッフはいい、順路案内が微妙、撮影ができない、近代的でおしゃれな空間、市民の話題に上らない箱物、…「美術館?」「美術館と言うより郷土館」という感想が感想文に通ずるものがある。59レビューの平均3.3★、はっちが11件で平均3.6。感想文で「差し出す材料」としてあげられている福岡市科学館が2209レビューで平均4.2, 弘前れんが倉庫美術館が193件で平均3.8、池袋西口公園野外劇場 グローバルリング シアターが29レビューで平均4.2である。青木淳の青森県立美術館は2346件の平均が4.2だ。うーむ、Googleのレビューを眺めていれば"本人がくどくどと解説せずとも「なるほど、よくできてるじゃん」と言われるような建築"というプリンシプルの成果がなんたるかわかるかと思ったが、もちろんそんなことはなかった。他のすべての制作物と同様に、好む人は好むし嫌う人は嫌うということしかわからない。しかしそれらを平均すると、美術館というのはだいたい★4くらいになるんだなというやや使えない学びを得た。

設計の要件、設計の変遷

プロポーザルを募集した行政が「こういう建物を建ててほしい」という思惑は、2016年の八戸市新美術館整備基本構想やその後の敷地についての説明PDFプロポーザル説明書をみるとなんとなくわかってくる。ワイガヤエリアとか共育とかいかにも行政のじいさまたちがうれしそうなワードがてんこ盛りでゾワゾワする。シーンエリアってsceneかと思ったら死ーん🤫エリアなのだ…。

設計の変遷で追えたのは以下のとおり。

2017年3月 プロポーザル

2018年3月 基本設計

2019年1月 実施設計管理運営基本計画

フロアマップ

感想文の論点の整理

やっと本論だ!!感想文のうち、純粋な感想と思しき記述(e.g. 「この感覚を持つ私は、建築家として失格」なのか、などの自省)については触れず、事実の指摘やこう設計すべきだったという著者の主張に絞って列挙した。

テクストの読み方は人それぞれだと思う。この論点の整理も、私のフィルター/バイアスがかかって歪んだ把握であること、どうしても著者の思惑とはいくぶんかけ離れた理解になっていることに留意してほしい。

  • この建築は美術館なのだろうか
  • カフェがなくて悲しかった。チケットだけで収益がまかなえるのか心配。ミュージアムショップも仮設しかない
  • GRは訪問時の展示に使われていなかった
  • GRに比べて展示室が狭く、天井が低い。展示物が詰め込まれているように感じる
  • GRは使徒不明、映像を投影するにも演劇にも大掛かりな演出にも使いにくそう。展示室としても絵画などにはむかないし、音響的にも使いにくいし、あるとしたら彫刻だろう
  • とはいえ、設計意図の時点ですでにGRはラーニングセンターの象徴であり、多目的空間なので、上記の批判はあたらないかもしれない
  • とはいえ、ラーニングセンターとしてもGRは微妙ではないか。会議室としても意義が薄く、むかない
  • ラーニングセンターなのに、ライブラリーが見当たらない
  • 自論として、また一般的に界隈のプラクティスとして、利用者は天井の低いcozyなところに身を寄せたがるというパターンがある
  • それに照らし合わせると、GRは非cozyであり、マチニワや荘銀タクトはcozyである
  • ワークショップ、事務作業、ピアノの演奏会、といった受付の人に教えてもらった現状でのGRの用途には、大空間の視点場(とは?)やハイサイドライトといった設計とマッチしていない
  • とはいえ、これら著者の感想は短時間の滞在に依拠するものであり、またアーティストは想定外の使い方を創造するので、杞憂かもしれない
  • <爆弾的仮説>:GRのプロポーションはドックヤードや印刷工場を模しているのではないか
  • <爆弾的仮説>、背景:テートモダンや京都新聞ビル印刷所跡など、縦長のプロポーションをもつ大空間をリノベーションして成功した美術的な既往例がある。これら既往例は、もとの空間が縦長だったという制約からそうなっている
  • <爆弾的仮説>が正しかった場合の、著者の批判:わざわざそのようなプロポーションを模すのはナンセンスである。この仮説は誤りであってほしい
  • <爆弾的仮説>が正しかった場合の、著者の提案:GRにチェーンブロックや道具バトンを設置するなどして、アート制作や演劇など多用途に使える空間にすべきだ
  • まとめると、著者は美術館の設計には一家言もつと自認しているが、その立場からの感想として、極めて違和感のある設計である
  • 建築家は"本人がくどくどと解説せずとも「なるほど、よくできてるじゃん」と言われるような建築を目指すべき"
  • この批評へのカウンターとして、著者の作品を批評して構わない

感想文の各論点について調べる

この建築は美術館なのだろうか

八戸市新美術館実施設計 概要版では美術館機能が中心的機能であると明記されている。と同時にラーニングセンターとも自称する。美術館の一種かつラーニング・センターだが、旧来のいわゆる美術館とはちょっと違うものを狙っているのだろう。

私は自称したもん勝ちだと思っている。しかし後で調べるように、この建物の中心となるGRの主機能は展示ではないように読める。あるentityの主要な部位を占めるの機能が、entityそのものの機能を決定づけるだろうか?身体の7割を形成するからといって、我々は水だろうか。うむむ…まあ水といえなくもないな…。我々のDNAよりも大腸菌のDNAのほうがたくさん住み着いているので、我々は大腸菌だろうか。うごご アイスクリームは大半が空気だが、空気ではなくアイスクリームだ。 機能の話に戻すと、例えば私は携帯電話をほとんど電話機として使わない。私のもつスマホで最も大きい「部屋」は画面と電池だが、これは画面だろうか。まあ画面といえなくもないが…。iPadはSidecarで外付けディスプレイとして使ってるし。お茶碗で茶は飲まない。蔦屋書店は書店だろうか、カフェだろうか。TBSテレビの主たる業務は不動産だが人々はTBSテレビを不動産屋だと思っているだろうか。D-Waveの主要業務は量子コンピューティングではなく(うろおぼえ)投資だし、銚子電鉄はぬれ煎餅屋だ。図書館は単なる図書館でなくなってきているのは「ニューヨーク公共図書館エクスリブリス」で見た。ニューヨーク公共図書館が図書館でいいなら、八戸市美術館が「われは美術館」と宣言するなら、どんなに美術館機能が建物全体にたいする割合としても絶対的にも狭くて見劣りするものでも、美術館でいいのかな、というのが今のところの私の考えだ。

カフェがなくて悲しかった。チケットだけで収益がまかなえるのか心配。ミュージアムショップも仮設しかない

カフェがなくて残念、ミュージアムショップがしょぼい、といった感想は、Googleレビューを見る限りでは利用者の評価と概ね一致していると思う。プロポーザル説明書の時点ではCゾーンで「カフェとかミュージアムショップとかつくってね」とある:

プロポーザルではカフェもショップも計画されている。


しかし、2018年3月の基本設計の図面では階段の下に追いやられており、

説明(p3中央左)において「ジャイアントルームにテーブルおけばカフェになるっしょ」みたいなやや雑な扱いになっている。

ミュージアムショップは見つけられなかった(多分登場しない)。そして、実施設計概要版に至って階段下のカフェは「ホワイエ」に置き換わっている。

フロアマップにもどちらとも登場しない。なんらかの事情があったのだろうけれど、少なくとも無料で建築家側から提示されている事情の説明は見つけられなかった。収益に関しては全くわからない。一般的な、こういう美術館だとカフェからの収益はどれくらいになるのだろうか。

ミュージアムショップがしょぼい:商業主義に染まっちまった工業デザイナーとしては、たしかにミュージアムショップで$$したほうがよいのでは、と思わなくもないが、これも事情があったのだろうけれど以下同文。

GRは訪問時の展示に使われていなかった

プロポーザルにも、GRは「教える人と学ぶ人が同じ場を共有するラーニングセンターの基幹となるオフィスとライブラリーを含む巨大な空間」とあるので、展示に使われないのは当初の設計通りだろう…と思ったら、2018年3月の基本設計時点では「ジャイアントルームも展示スペースとして使用可能」とあり、よくわからなくなってくる。確かにプロポーザル説明書時点ではワイガヤエリアかつ美術館機能をあわせもつAゾーンが期待されているのだが、Aゾーンの説明を読むと想定一覧に展示が列挙されていない。なんとも曖昧である。なので、八戸市も建築家も、展示スペースとして使えなくはないけど、決してメインではない想定でジャイアントルームを設計しており、実際展示用に使用した実績もいまのところない、ということなのかと思う(よくわからない)。

プロポーザルにも「寒い八戸でもあったかく過ごせるパブリックスペースだよ、室内化された広場だよ」とある(左下中央)。Google Mapでの写真を見ても、GRは市民のためのコミュニティプラザなんだろうなと感じる。

GRに比べて展示室が狭く、天井が低い。展示物が詰め込まれているように感じる。実際、展示物は2回にわけられており残念

八戸市美術館の中心的機能が美術館機能でないことは、著者の第一印象「八美は果たして美術館なのか?」も建築家のプロポーザルからも了承済みであると思うので、致し方ないのではないだろうか。プロポーザル説明書には「広さは500 ㎡程度とする」、天井高は「5 m程度とすること」とあるので、建築家側としてはどうしようもないのかもしれない。また、そもそも八戸市美術館の展示品が少ないため、旧館の3倍の広さに拡張したにもかかわらず「小さい」「すぐ見終わる」などとGoogleレビューでは評されていた。これは建築でどうこうできるものでもないような気もする。

天井高などは「相対的に感じるもの」だと著者は書いている。この記述はたしかに説得的だ。たとえばGRの天井高が低ければよかったのだろうか…。そういう問題でもない気がする。

GRは使徒不明、映像を投影するにも演劇にも大掛かりな演出にも使いにくそう。展示室としても絵画などにはむかないし、音響的にも使いにくいし、あるとしたら彫刻だろう

音響については建築家たちもプロポーザル後に頭を悩ませていたようだ。ホワイトルームは静寂静謐な空間なのに、すぐとなりのジャイアントルームがワイガヤエリアなので、それはそうだ(プロポーザル説明書では、前者のDと後者のAをつなぐ、中間的なBが期待されていたのだが、プロポーザル庵ではAとDは隣接しており、そのまま実施された。…と理解しているのですが、ジャイアントルームがAに相当するのか自信がなくなってきた。Bなのかもしれない。としたらAはどこへ?庭?)。そもそもGRを音響的な作品に使う想定が設計側になかったように思うが、この10+1の議論では吸音カーテン使えばマシになるんじゃね?ていうかdesign thinkingの総本山スタンフォードのd.schoolではワイガヤしてたょ?みたいな話になっている。スティーブン・ホール設計のグラスゴー芸術学校の新校舎に移動した学生たちが「この大空間音が籠もってうるせえ、話が聞きにくい、まじ最悪」と言っていたことを思い出した。

とはいえ、設計意図の時点ですでにGRはラーニングセンターの象徴であり、多目的空間なので、上記の批判はあたらないかもしれない

"美術館"の中心に据えられた巨大な部屋は美術展示用のはずだ、と来訪者が先入観をもつのは無理もない話だ。来訪者に、「なるほど、ここは美術館の中心の巨大な空間だけど、展示用ではないんだね、でも確かにこれからの美術館にはこういう機能が必要だね、よくできてるね」と思ってもらえるならば成功した設計だと思うが、Googleのレビューを読む限り、そうなっているかは疑問だ。建築に詳しい人々、建築メディアの方々にはそうなっているのかもしれない。

ラーニングセンターなのに、ライブラリーが見当たらない

「ライブラリー」は当初のプロポーザルにおいてジャイアントルームの奥に明確に登場する:

が、基本設計時点では記述なく、何も含まれていない単線の四角になっている。

実施設計になるとジャイアントルームにスライドする什器が現れ、その奥にライブラリーのようにも見える部屋が置かれている。

しかし実際には、写真を見る限りジャイアントルーム内にはそれらしきものが見つけられない。どこかに移動したのだろうか。ジャイアントルームにライブラリーがないとラーニング・センターとして成立しないとまでは思わないが…。

自論として、また一般的に界隈のプラクティスとして、利用者は天井の低いcozyなところに身を寄せたがるというパターンがある

著者によるとこのNoteではデザインについては触れていないらしいのだが、これが、そしてこの感想文の扱っている話題がデザインでないとすると、ここでいうデザインとはなんだろう。見た目…?仕上げ…?うごご…となってしまい、本稿のほぼ唯一のつまづきポイントであった。建築設計∈デザインではないのか?

<爆弾的仮説>:GRのプロポーションはドックヤードや印刷工場を模しているのではないか。

建築なんもわからんマンである私も、写真を見る限りにおいて、かのテート・モダンに憧れたんか…?しかしテート・モダンはリノベーションだからああなってるのが面白いと思われたのでは?という似たような感想を抱いた。たとえこの仮説が誤りで、建築家側が「いや、全然模してません、テート・モダンほかリノベーションの都合上縦長になった美術空間の影響なんてビタ一文うけてませんわ」と否定しても、まあそう感じる来訪者は少なからず出るような気がする。わかりませんが…。

<爆弾的仮説>が正しかった場合の、著者の批判:わざわざそのようなプロポーションを模すのはナンセンスである。この仮説は誤りであってほしい

しかし、来訪者がそのように読解/誤解するからといって、わざわざそのようなプロポーションを模すのはナンセンスであるとは私は思わなかった。テート・モダンがたまたまリノベーションの都合から縦長のプロポーションになったからといって、リノベーションであろうがそうでなかろうが、縦長の美術館面白い!やりたい!と思うならやればよろしいのではと思う。アイディアの出自がどうであれ、よいと思ったのならば貪欲に盗むべきだと私は思う。それが仮に「縦長にすればテート・モダンの成功の二番煎じができるはずや」という到底ありそうにないカーゴカルト的な願望に基づくものであったとしても、それはさすがにダサいのではと個人的には思うが、縦長プロポーションだ!テート・モダンっぽい!すてき!と来訪者が嬉しいのならばそれでよいのではないだろうか。ただ、そのためにはさすがにGRを展示空間としてドカーンと一気に使えないと拍子抜けしてしまうのではないかとは思う。

<爆弾的仮説>が正しかった場合の、著者の提案:GRにチェーンブロックや道具バトンを設置するなどして、アート制作や演劇など多用途に使える空間にすべきだ

展示機能は「できなくはない」程度のGRの副次的な機能なのではないだろうか。しかし、前述したとおりせっかくの特殊なプロポーションの大空間なので、大いに展示に活用したほうがよいのではというのが訪問したこともない門外漢の感想だ。誰よりも設計者が頭を悩ませて、GRの主機能を展示にすべきでないと考えているのだから、少なくともしばらくはそれを尊重するのだろうけれど…。

まとめると、極めて違和感のある設計であり、美術館に求められる標準的な機能を満たしていない

  • 著者は美術館という類型に標準的で国際的に求められる機能の水準があるという。なるほど(知りませんでした。でもたしかに考えてみればそうだろう)。
  • 著者は、八戸市美術館が美術館を自認するなら、それら国際的な機能を満たさないと国際的にも美術館としてカウントされず、損するという。それも確かにそうだろう。
  • そして、著者は八戸市美術館がその機能を満たしていないと言っているように(明言していないにしても)読み取れる。
  • しかし、このプロポーザル案や実施された設計は、八戸市の提示した要件は満たしているように思われる。
  • なので、八戸市が定義する美術館の機能は満たしているといって差し支えないように思われる。

どちらの言い分も(建築家側の言い分は完全に私が憶測・代弁しているため全く正確ではないが、課金していないので仕方がない)わりと説得的だが、「美術館」の定義の違いから、この点に関しては議論が平行線になっている気がする。著者が危惧するような損を、建築家や八戸市は損と勘定していないのではないだろうか。私は個人的には損なのでは、と思うが、八戸市の市民や観光客が同じように損だと思うかはわからない。少なくともGoogleレビューではそこまで考えている消費者は見つけられなかった。

建築家は"本人がくどくどと解説せずとも「なるほど、よくできてるじゃん」と言われるような建築を目指すべき"

「なるほど、よくできてるじゃん」と感心してもらいたい人とは、管理者・運用者(事務や受付の人)・利用者・観光客・展示する作家を指すのかと思っていたが、どうも「建築をやってる人」を対象にしているようにも読めるし、やってる人以外も含んでいるようにも読める。個人的には建築はまず何よりも大多数の「建築をやってない民」の利益のためにやってくれんかな〜〜と思いつつも、なにかと内向き・内輪向きな建築の自己愛っぷりが好きかつ嫌い(それこそ内部の批評で自走できる体力が建築への憧れを生むのだろうと思う)なので、なんともいえない。

解説しないと伝わらない良さがありうるということは著者も説明している。指示や解説なしで、モノだけで説得することができる、人の行動を誘導したり、意思決定を変更させたりできるというのは工業デザインでもしばしば追求される理想だ。この理想をまとめて、「テプラが貼られたらデザインの敗北」とよくいわれる。では、ジャイアントルームに「この巨大空間は展示空間ではありません」というテプラが必要か?八戸市美術館の名称に「※当館は旧来の美術作品の展示機能ではなく、ラーニングセンターとしての機能を中心に据えた、新しい美術館のすがたを体現したものです」と注釈をつけないと利用者が困るか?もしくは、それらのテプラや注釈によって、「なるほど、そう言われてみるとよくできてるじゃん」となる人が増えるか?

この批評へのカウンターとして、著者の作品を批評して構わない

Twitterではこの態度がフェアだと称賛されていたが、私にはよくわからなかった。この批評(なり感想文なり、なんでも…)へのカウンターは、批評の論点への反論や自論の説明や補足であるべきであって、たとえ評者がそれを歓迎し、容認していたとしても著者の作品への批評であるべきなのかは疑問だ。論点がぶれてしまいそうだし、なにより建設的な批評や議論においては「何を言ったか」を「誰が言ったか」よりも重視すべきだというのが私の考えだ。誰が言ったか、どんなに偉い人か、どんな実績を残したかは一旦棚にあげて、理にかなったことを主張しているか、事実に基づいて主張しているか、説得的か、について議論したほうがよいのではないかと部外者ながら思う。

ほかにも、感想文への反応の論点の整理として1)建築家本人によるものと2)美術館擁護/感想文批判、感想文擁護についてもいくつか追ったがあまりにボリュームが多くなるのと読んでるだけで(たまにはちゃめちゃに雑な記述があって)しんどくなるので、いったん調べ物はここまでにする。今まで見たなかで一番おもしろかったのは、設計者のひとりが「質問や批判についてすべて答え」た、勝手に勘違いして批判しているとしたものが有料だったこと。300円ぽっちとはいえ、こんな方法があるのかと笑ってしまった(面倒くさいいちゃもんを言ってくる相手を黙らせる方法としてどこかで提唱されていてなるほどと思ったのだが、こんなまっとうな批評/感想にたいしてとっていい方法とは思えなかったので…)。

まとめ、感想の感想

新しいことやろうとしてるのはすごいしGRは実際新しいんだけど、GRもその他もいわゆる美術館としては微妙だよね、ラーニングセンターとしても中途半端だよね、ということのようだ。八戸市美術館は、論より証拠で、これから「いやいや、GRはこんな価値のある使い方ができるからそれら欠点を補って余りあるよいものなのだ」と示すことができるといいかと思う。

この感想文の論点に100%賛成するわけではないのだが、全体的には説得的で、批評文化がある建築はいいなぁと思っていたのだが、当の設計者のひとり?が「シラスですべて説明。勝手な誤解。批判はあたらない。yeah」とPaywall内に籠城してしまったため、著者が想定していたような往復書簡的な建設的な批評の応酬による前進はみられなさそうで残念だった。

ユーザーの親(八戸市)「いまうちの子が使ってるカメラ、小さいし古いしで、でっかい新しいやつがほしいんだけど、今どきカメラ機能単体だとあれじゃん。ぶっちゃけうちの子、写真とかそんな興味ないし。だからスマホとしても機能するものにしてほしいんだよね。名前的にはカメラなんだけど」
デザイナー(建築家)「うええ…はい。中心部にどでかい縦長ディスプレイつけてスマホにしました。カメラ機能は以前と同程度以上確保しましたよ。名前はカメラのまんまですが」
カメラ好き(著者)「こっこれは…さすがにカメラとして微妙すぎんか?当初約束してたオートフォーカス(カフェ)も手ブレ補正(ショップ)もいつのまにか消えてるし。カメラのフォーマットから外れてるから海外のカメラマンもカメラとして認識してくれないよ。スマホ部分をカメラにしては?というかこのスマホ部分、縦長すぎてスマホとしても微妙では?こうやるとある程度カメラとしても良くなるのでは」
わし「八戸市がわるい」
ユーザー「楽しい。駐車場がない。写真撮影したい。こぢんまり。建物はおしゃれ。チケット高い。展示がしょぼい。」

建築の良し悪しは、多く見積もっても施設の良し悪しの2割くらいなのではないでしょうか…。UIがいいにこしたことはないが、どんなにUIがひどくても、コンテンツが唯一無二であればみんなサービスを使わざるをえないのだ。なのでコンテンツでがんばってほしい(UIの設計者としては敗北であっても)。後知恵的にGoogleレビューを読むと、建築家が本当にすべきだったことは、プロポーザル説明書のp14で示唆された、青森銀行の駐車場40台程度を「美術館利用者用に共同利用する可能性」を実現することだったということはないかね…。こういう利用者の嬉しさをバカの一つ覚え的に追求する考えのデザインの民もいるということだ。

工業デザインでは製品の売れ行きなど市場からの批評がドル投票として機能するので批評は大して意義を持たない。いっぽう、自然科学でのpeer reviewの仕組みは自然科学論文の妥当性の検証を一般読者に任せることは現時点では非現実的で、各分野の専門家どうしの相互批評によって成立する。建築はこれら両極端のあいだに位置するように思える。工業デザインのようには市場からの”自然淘汰圧”が働きにくいため、それとは異なる圧としてpeerからの批評を受けるのが前進の原動力なのだと理解している。と同時に、自然科学諸分野と違い、日々一般市民が利用するものでもあるので、彼らの意見も反映されるような仕組みが一応いくつか用意されている(利用者実績とか、経営収支とか、パブコメとか、政治とか)。

もうひとつの感想:来訪者にも色々いると思う。正統的な美術を楽しむ民、美術には正直興味がなくて美術館に行っている自分が好きな民、建物のほうが楽しみな民…。しかしパンセでパスカルが言うように、すべての「人に話したくなる好奇心」は虚栄からくる。顕示的な消費の対象として、美術館は非常に優秀だ。ほんとうにいい建築などわかっていなくても(誰がわかっているというのか)、「いい建築らしい」という評判がありさえすれば「いい建築を体験してきました」と自分のセンスや性格の良さをインスタなり世間話なりで見せびらかせて十分なのだ(詳細はジェフリー・ミラーの『消費資本主義!』を)。私もまたこうやって知識をひけらかす機会をいただけたのだ(「虚栄はかくも深く人間の心に錨をおろしているので、[...]それぞれ自慢し、自分に感心してくれる人たちを得ようとする。[...]また、それに反対して書いている人たちにも、それを上手に書いたという誉れがほしいのである。彼らの書いたものを読む人たちは、それを読んだという誉れがほしいのだ。そして、これを書いている私だって、おそらくその欲望を持ち、これを読む人たちも、おそらく…(Pascal, 1670)」)その観点からこの感想文を捉えると、「建築界隈で賛否両論の話題になっている八戸市美術館に来ました」という意識の高さまで顕示できるようになったのでこのNoteは当美術館とその設計の価値を更に高めている。好むと好まざるとにかかわらず、論争は相手を利するように働く

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