LLMの強化学習を安定化させる意外な解決策:浮動小数点精度の選択

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はじめに

最近、大規模言語モデル(LLM)の強化学習(RL)による性能向上が注目されています。ChatGPTのような対話AIを「より良い回答をする」ように訓練する技術です。しかし、この訓練プロセスは非常に不安定で、研究者たちを悩ませてきました。

驚くべきことに、最近の研究で計算に使う数値の表現方法を変えるだけでこの問題がほぼ解決できることが分かりました。この発見は、複雑な問題が意外とシンプルな解決策を持つことがあるという好例です。

本記事では、この発見の背景から具体的な内容、そして今後の課題まで、大学生向けに丁寧に解説します。


1. 背景:なぜLLMに強化学習が必要なのか?

1.1 LLMの基本的な訓練方法

大規模言語モデル(GPT-4やClaude、LLaMAなど)は、まず事前学習という段階で大量のテキストデータから言語パターンを学びます。これは「次の単語を予測する」という単純なタスクを膨大なデータで繰り返すことで行われます。

しかし、事前学習だけでは不十分です。なぜなら:

  • 何が「良い回答」かを学べない:文法的に正しくても、役に立たない回答や有害な回答を生成する可能性がある
  • タスク特化の最適化ができない:数学問題を解く、コードを書くなど、特定タスクでの性能向上が限定的

1.2 強化学習による改善

そこで登場するのが**強化学習(RL: Reinforcement Learning)**です。

強化学習では:

  • モデルが回答を生成(行動
  • その回答の質を評価(報酬
  • 良い回答をより生成しやすくなるように調整(学習

具体例で考えてみましょう:

質問:「2+2は?」

モデルA:「4です」 → 報酬:高い ✓
モデルB:「魚です」 → 報酬:低い ✗

強化学習により、モデルは「4です」のような回答をより出しやすくなる

1.3 報酬の与え方

報酬を与える方法は主に2つあります:

  1. 検証可能な報酬:数学問題なら正解か不正解かで判定
  2. 報酬モデル:人間の好みを学習した別のAIが評価

これにより、思考能力の向上や、ユーザーにとって有用な回答を生成する能力が改善されます。


2. 問題:強化学習が不安定な理由

2.1 不安定性の症状

LLMの強化学習は以下のような問題を抱えていました:

  • ハイパーパラメータへの過敏性:学習率などのパラメータをわずかに変えるだけで結果が大きく変わる
  • 学習崩壊:訓練途中で急激に性能が悪化する現象
  • 再現性の低さ:同じ設定でも結果がばらつく

これらは研究開発を非常に困難にしていました。

2.2 強化学習の仕組みと「2つのモデル」

この不安定性を理解するには、強化学習の仕組みを知る必要があります。

LLMの強化学習では、実は同じモデルを2つの役割で使用します:

  1. 推論モデル(ロールアウト用):実際に回答を生成する
  2. 学習モデル(勾配計算用):どう改善すべきか計算する

理論的にはこれらは全く同じ計算をするはずです。しかし実際には:

  • 異なる計算エンジン(ハードウェアやソフトウェアライブラリ)を使用
  • 計算の最適化手法が異なる
  • 数値の表現方法(浮動小数点精度)が異なる場合がある

2.3 なぜ「微妙な差」が大問題になるのか

「計算結果がちょっと違うだけなら問題ないのでは?」と思うかもしれません。しかし、強化学習では微妙な数値の差が増幅されるのです。

影響を受ける2つの要素

①勾配推定のバイアス

強化学習では「どの方向にモデルを改善すべきか」を計算します(これを勾配といいます)。

推論モデルと学習モデルで計算結果が微妙に異なると:

推論モデル:「この回答の確率は0.0123」
学習モデル:「この回答の確率は0.0124」

→ わずか0.0001の差だが、これが勾配計算に誤差を生む
→ 学習が間違った方向に進む

②デプロイギャップ

訓練後のモデルを実際に使用(デプロイ)するとき、訓練時と異なる計算環境で動かすことがあります。すると:

訓練時:「このタイプの回答を増やすように学習した」
デプロイ時:「数値の微妙な差で、意図と異なる回答が生成される」

→ 訓練の効果が十分に発揮されない

3. 浮動小数点数とは?精度の違い

問題の核心を理解するには、コンピュータがどう数値を扱うか知る必要があります。

3.1 浮動小数点数の基本

コンピュータは小数を浮動小数点数という形式で表現します。これは科学記号法に似ています:

12345.6789 = 1.23456789 × 10^4
            └─仮数部─┘   └指数部┘

コンピュータでは2進数で:

数値 = 符号 × 仮数部 × 2^指数部

限られたビット数で表現するため、仮数部指数部にビットを配分します。

3.2 BF16とFP16の違い

機械学習でよく使われる2つの16ビット形式を比較しましょう:

BF16(Brain Floating Point 16)

構成:1ビット(符号)+ 8ビット(指数部)+ 7ビット(仮数部)

特徴:

  • ✓ 広い表現範囲:非常に大きい値・小さい値を扱える
  • ✓ FP32(標準的な32ビット形式)との互換性が高い
  • ✗ 精度が低い:仮数部が少ないため細かい差を表現できない

FP16(Floating Point 16)

構成:1ビット(符号)+ 5ビット(指数部)+ 10ビット(仮数部)

特徴:

  • ✓ 高精度:仮数部が多いため細かい差を正確に表現
  • ✗ 狭い表現範囲:極端に小さい値(アンダーフロー)が発生しやすい
  • ✗ FP32との互換性が低い

3.3 視覚的な比較

イメージとしては:

BF16:広い範囲をざっくり測れる「大きなものさし」
      |----|----|----|----|----|----|
      0    100  200  300  400  500

FP16:狭い範囲を精密に測れる「細かいものさし」
      |.|.|.|.|.|.|.|.|.|.|
      0  1  2  3  4  5  6  7  8  9  10

3.4 なぜBF16が主流だったのか

事前学習ではBF16が広く使われてきました。理由は:

  1. 広い表現範囲が必要:学習初期は重みの値が大きく変動する
  2. 丸め誤差への耐性:多少の精度不足は学習で吸収される
  3. ハードウェアサポート:多くのGPUがBF16を効率的にサポート

しかし、強化学習では状況が異なるのです。


4. 解決策:FP16への変更

4.1 なぜFP16で解決するのか

強化学習の段階では、モデルは既に事前学習済みです。つまり:

  • 重みの値は安定している:極端に大きな値や小さな値はほとんどない
  • 活性値の動的範囲も限定的:モデル内部の計算結果も安定している

したがって、広い表現範囲(BF16の利点)は不要になります。

一方、高い精度(FP16の利点)は非常に重要です:

強化学習では「尤度比(りくどひ)」という値を使います
= (ある回答の確率) ÷ (別の回答の確率)

例:
回答A:確率 0.012345
回答B:確率 0.012346

BF16:精度不足で両方とも 0.0123 に丸められる
      → 尤度比 = 1.00(本当は1.00008のはずが誤差)

FP16:正確に表現できる
     → 尤度比 = 1.00008(正確)

4.2 尤度比の誤差増大問題

さらに深刻なのは、系列全体での誤差の増幅です。

LLMは一度に複数のトークン(単語の断片)を生成します:

質問:「東京の首都は?」
回答:「日本」「の」「首都」「は」「東京」「です」
      ↑     ↑    ↑    ↑    ↑     ↑
     T1   T2   T3   T4   T5    T6  (6個のトークン)

系列全体の尤度比は各トークンの尤度比の掛け算になります:

系列全体の尤度比 = (T1の尤度比) × (T2の尤度比) × ... × (T6の尤度比)

ここで恐ろしいのは、誤差が指数関数的に増大することです:

各トークンで1%の誤差があると仮定:

トークン数 | 累積誤差
---------|----------
10個     | 約10%
50個     | 約64%
100個    | 約170%

BF16では長い回答ほど誤差が爆発的に増える!

4.3 FP16のアンダーフロー問題と対策

「FP16は表現範囲が狭いから、極端に小さい値が扱えないのでは?」という懸念があります。

これは損失スケーリングという技術で解決できます:

1. 計算前:小さい値を大きくスケール(例:×1000)
2. 計算実行:アンダーフローを回避
3. 計算後:元のスケールに戻す(例:÷1000)

さらに、前述の通り、強化学習ではモデルが既に安定しているため、極端な値はほとんど発生しません。

4.4 実装の簡単さ

最も驚くべき点は、この変更がわずか1行のコード修正で可能だということです。

DeepSpeed + PyTorchを使った場合:

# 変更前(BF16)
model = model.half()  # または .bfloat16()

# 変更後(FP16)
model = model.half()  # FP16を明示的に指定

実際には設定ファイルで精度を指定するだけです。


5. 実験結果:劇的な改善

5.1 オフライン解析

研究者たちは、学習前にオフライン解析を行いました:

手順:
1. 同じモデルでBF16とFP16それぞれで推論
2. 各トークンの尤度比を計算
3. 系列全体での累積誤差を測定

結果:

  • トークン毎の尤度比:BF16の方が誤差が大きい
  • 系列全体の尤度比:応答が長くなるほど、BF16では指数関数的に誤差が増大
  • FP16:誤差が大幅に減少し、安定

5.2 実際の学習での効果

FP16に変更することで:

  1. 学習の安定化

    • 学習崩壊がほぼ発生しなくなった
    • ハイパーパラメータへの感度が低下
  2. 収束の高速化

    • 目標性能に到達するまでの時間が短縮
    • 無駄な試行錯誤が減少
  3. 最終性能の向上

    • より高い性能を達成
    • 一貫した結果が得られる

6. この発見の意義

6.1 研究コミュニティへの影響

この発見は大きな意義があります:

  • 複雑な問題が単純な解決策を持つことの証明:多くの研究者が複雑なアルゴリズムで対処しようとしていた問題が、基本的な設定変更で解決
  • 数値計算の重要性の再認識:機械学習では「アルゴリズム設計」に注目が集まりがちだが、「実装の詳細」も同じくらい重要
  • 再現性の向上:論文を読んで同じ結果を再現しやすくなる

6.2 実用面での価値

開発者にとっても大きなメリット:

  • コスト削減:試行錯誤が減り、計算リソースの無駄が減少
  • 開発速度向上:安定した学習により、プロトタイプから製品化までが高速化
  • 参入障壁の低下:小規模なチームでも高品質なLLMファインチューニングが可能に

7. 今後の課題と展望

7.1 十分条件 vs 必要条件

今回の発見は十分条件(これをやれば解決する)を示しましたが、必要条件(これが最低限必要)はまだ不明です:

  • FP16より低い精度でも可能か?
  • どこまで精度を落とせるか?

7.2 推論効率化とのトレードオフ

大規模な強化学習では、推論コストが膨大になります:

事前学習:1回の大規模計算
強化学習:推論を何千万回も繰り返す

→ 推論効率が全体コストを左右

推論を効率化するには:

  • 量子化:8ビット、4ビットなどさらに低精度化
  • モデル圧縮:不要な部分を削減

しかし、これらは精度を犠牲にします。学習の安定性と推論効率のバランスをどう取るかが課題です。

7.3 部分的な高精度化

興味深いアプローチとして、Scale RLの論文では:

アイデア:モデル全体をFP16にするのではなく、
        最終層(出力に近い部分)だけを高精度にする

利点:
- 計算効率と安定性の両立
- メモリ使用量の削減

このようなハイブリッドアプローチが今後の鍵かもしれません。

7.4 時間遅れと非同期性

実用的なシステムでは、推論モデルと学習モデルが完全に同期していない場合があります:

推論サーバー:世界中に分散、最新モデルの配布に時間遅れ
学習サーバー:常に最新のモデルで勾配計算

→ 若干古いモデル(Stale)での推論結果を使って学習

最近の研究では、少しの時間遅れなら効率化のメリットが上回ることも報告されています。完璧な同期は不要かもしれません。


8. まとめ

重要なポイント

  1. 問題:LLMの強化学習は学習時と推論時の数値誤差により不安定だった
  2. 原因:BF16の低精度により、尤度比の計算で誤差が累積
  3. 解決策:FP16に変更するだけで大幅に改善(実装は1行)
  4. 効果:安定した学習、高速な収束、高い性能
  5. 今後:推論効率化とのバランスが課題

この発見から学べること

  • 基本に立ち返る重要性:複雑な問題も基本的な要素の見直しで解決することがある
  • 実装詳細の重要性:アルゴリズムだけでなく、数値計算の精度などの「地味な部分」が決定的に重要
  • 測定の重要性:オフライン解析で問題を可視化したことが解決の鍵
  • トレードオフの理解:精度と効率、理論と実装、常にバランスを考える必要がある

最後に

AI技術の進歩は、華やかなアルゴリズムの発明だけでなく、こうした地道な問題解決の積み重ねによって支えられています。

大学生の皆さんがこの分野に興味を持ったなら、数値計算、最適化理論、システム設計など、一見地味に見える基礎分野もしっかり学んでください。そこに重要な発見が隠れているかもしれません。


参考文献・さらに学びたい人へ

  • 強化学習の基礎:Sutton & Barto "Reinforcement Learning: An Introduction"
  • 浮動小数点数:IEEE 754規格の解説記事
  • LLMファインチューニング:Anthropicの公式ドキュメント
  • 数値解析:大学の数値計算の教科書

この記事が、最先端のAI研究の面白さと奥深さを伝えられていれば幸いです!

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