『言語哲学がはじまる』読書メモ

内容
フレーゲからラッセル、そしてウィトゲンシュタインへ――二十世紀初頭、言葉についての問いと答えが重なりあい、つながりあっていった。天才たちの挑戦は言語哲学の源流を形作っていく。その問いを引き受け、著者も根本に向かって一歩一歩考え続ける。読めばきっとあなたも一緒に考えたくなる。とびきり楽しい言葉の哲学。

いきさつ・このスクラップの目的
元々大学では(不勉強な)哲学科学生だったのですが、エンジニアになってから「言語哲学とソフトウェア開発ってつながってるなあ」って感じることが多々ありました
言語哲学方面の知見はほぼゼロなので、(時たまヴィトゲンシュタインに手を出しては速攻挫折しつつ)ただ「感じている」だけだったのですが、この『言語哲学がはじまる』という本は平易な語り口で言語哲学について語っていてものすごく取っ付きやすそうだったので読んでみることにしました。
ここでは自然言語を使うにあたって大事そうなこと、ソフトウェア開発でも活きてきそうな考え方など印象的だったことについてつらつらまとめていこうと思っています。

第一章 一般観念説という袋小路
個別性と一般性のギャップの問題
「猫」の意味は一般性を持っている。しかし実際に私たちが生きていて実際出会えるのは「ミケ」「たま」などの個別の猫でしかない。ならば、どうやって私たちは「猫」の意味を理解しているのか。
ロックによる一般観念説
個別の猫たちから一般観念を抽出する。「猫」という語の指示対象はこうして心の中に形成された猫の一般観念である
一般観念説についての批判
◾️一般観念なんて存在するのか?
ロック曰く、三角形には全ての三角形に共通する観念的なものがあるらしいが、私たちが普遍的な三角形を想像するときは、正三角形・二等辺三角形など、何らか特定の三角形を想像しているはずで、一般観念的な三角形を想像することはできていないはず。
◾️一般観念説はコミュニケーションを不可能にする
・ 一般観念説は、言葉の意味を一般観念という心の中に形成された何ものかによって捉えようとしている
・「猫」などの一般名をその意味の一般観念だとすると、他人がどのような意味で一般名を用いているかわからないのでは
◾️そもそも観念もまた「個別」の存在では
一般観念説は、心の外で出会うものが個別的でしかないと考え、心の中に一般観念を形成すると論じているが
・心の外の世界で出会う個体たち「あの花」「この花」「あの猫」「この猫」
・心の中の世界で出会う「あの痛み」「この痛み」「あの悲しみ」「この悲しみ」
どこに違いがあるのか
フレーゲは、文の意味に先立ってまず語の意味を捉えようという方針こそが誤りだと主張した
2章ではそこまで引き返して議論が進む
読んで思ったこと
ソフトウェア開発ではよく「抽象化」という言葉が使われるけれども、抽象化された、個体ではない「それ」を、メンバー全員が同じものとして理解できているだろうか?

第二章 文の意味の優位性
私たちはただ対象に出会うのではなく、事実に出会う
『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン)冒頭
- 世界は成立していることの総体である
- 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない
ミケという対象は必ずなんらかの事実のもとにある
「ミケが寝ている」「ミケが歩いている」
つまり、私たちは対象だけに出会うことはない。対象は常に事実のもとにある
事実の中では一般性を持った構成要素が含まれている(「猫」「寝ている」)
個別性から一般性へ抽象するのではなくて、事実から一般性を取り出すのではないか?
語は文との関係においてのみ意味を持つ
1章で出てきた考え方は 要素主義
的な考え方だった。
※要素主義:語の意味は、文の意味以前に語だけで確定する。
それに対して、文脈原理という考え方がある
※文脈原理:文の意味との関係においてのみ語の意味は決まる。
述語を関数として捉える
固有名の意味と文脈原理
スーパーコンピューターについて全く知らない人に対して、スパコンが設置されている部屋に連れて行き「これが「富岳」だ」と説明しても、その人は一つの筐体が富岳なのか、部屋全体のそれが富岳なのか、はたまたそれらが提供する機能が富岳なのか全くわからない。
固有名の指示対象は文との関係においてのみ決まる。固有名も文脈原理に従うと言える。
合成原理と文脈原理
- 合成原理:文を構成する語の意味が決まれば文の意味は決まる。
- 文脈原理:文の意味との関係においてのみ語の意味は決まる。
機械と部品の例:道具として使用される単位は機械であり、部品だけではまだ道具としての機能は持たない。部品の意味は、機械の機能との関係においてのみ決まる。