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「資料は誰のために書くのか」と感じた話

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レビューや打ち合わせの中でふと気づいたことがあります。

「この資料は誰のために書くのか」──形式を整えることが目的になってしまい、本来の“伝えるための手段”としての役割が見えなくなっている。資料作りの本質について整理しました。

設計書、説明資料、工数見積もり、スケジュール表。
日々の仕事で「書く」機会は多い。
最近、それらをレビューしたり、逆にレビューを受けたりする中で、
いくつかの違和感が頭に残った。
この資料はいったい誰のために書いているのだろう?


説明資料:「誰に一番伝えたいか」を確認してみる

レビューの中で、説明資料についてこんな問いを投げかけてみた。

「ちなみに、どなた向けに一番説明したのでしょうか?」

返ってくる答えは「上の人たち全員」という回答が多い。
確かに立場上正しいけれど、“全員向け”では結局誰にも刺さらないような気がする。
対象が多すぎると、資料の焦点はぼやけ、読む人の理解も散漫になる。


設計書:文章より図で伝えるほうが正確な場合も

設計書の処理概要も文章で書くと、どうしても解釈にブレが生まれる。
そこでこんな話をしたことがある。

「処理概要は文章だとブレるので、シーケンス図などで表現したほうが早く正確に共有できるかもしれませんね」

図で表現すると、意図がすぐに伝わる。
文章は便利だが、共有の手段であって目的ではないことを実感する瞬間でもある。


スケジュール:「線」だけではなく、関係者と擦り合わせる

スケジュール表を見ると、
エンジニア側のタスクだけが「開発」「テスト」とざっくり並んでいて、関係者との擦り合わせが抜けていることがある。

こんな提案をすることもある。

「今のスケジュールだとエンジニア作業はこのくらいの粒度ですが、他チームの依存も含めて調整してみませんか?」

小さな問いかけで、線表だけだったスケジュールが、現場で実際に動く計画に近づく。


書く前に、一行で「誰のため」を定義する

資料の目的が曖昧だと、形式や体裁ばかりに目が向かう。
最初に一行だけでも書き出すと、軸が見えてくる。

この資料は、○○さんが□□を判断するために作る

書く順序や表現の粒度も自然と決まる。
“形式を整える作業”から、“伝える準備”に変わる瞬間だ。


伝わる資料は相手を想像することから

資料は、きれいに整えるためではなく、読む人の理解や判断を助けるために存在する。
レビューや会話の中で投げかけた問いが、自分の考えを整理するきっかけにもなる。

この資料は、誰のためにあるのか

この問いを意識するだけで、成果物の中身が少し変わる。
小さな工夫を積み重ねて、届く資料を増やしていきたい。

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