成果物に“魂”が込められていないと感じた話
久しぶりの投稿になります。
最近、設計書や手順書をレビューしていて、ある違和感を強く感じました。
それは、「成果物としては形になっているのに、思考の跡(魂)がまったく見えない」ということです。
「形はできている」けれど、伝わらない
形式上は問題がない設計書。章立ても整っている。
しかし、読んでもその人が何を考えていたのかがわからない。
- なぜこの設計にしたのか
- 他に検討した案はあったのか
- その案をどのような観点(QCDなど)で比較し決定したのか
そうした思考の痕跡が見えない。
テンプレートを正しく埋めた結果、「空気のような設計書」ができあがっているのです。
形式化の副作用
「属人化を防ぐ」目的でテンプレートや標準化を整備することはとても大事です。
ただ、長く運用するうちに “考えなくても作れる仕組み” になってしまうことがあります。
たとえば:
- これまでのフォーマットに合わせて作っていくだけ
- 「ここは前回と同じで」と過去資料をコピーする
- 書く意味を考えず、ただ“作ること”をゴールにしてしまう
こうなると、設計書は記録ではなく“儀式” になってしまいます。
書いた本人でさえ、レビューの場でうまく説明できないことも珍しくありません。
「思考の跡」がある設計書とは
一方で、読んだ瞬間にその人の考え方が伝わる設計書もあります。
形式は多少崩れていても、以下のような要素があると格段に読みやすくなります。
- 「この構成にした理由」を補足している
- 想定したユースケースや制約条件を書き添えている
- 「ここは今後見直す可能性あり」と、あえて未完を残している
- 完璧ではなくても、レビューで設計理由や背景を本人の言葉で説明できている
それだけで、設計書は単なる成果物ではなく、「思考の共有メモ」 になります。
後任や別チームが読んだときにも、背景が理解できる。
“考えを残す”とは、次の人への引き継ぎでもあるのです。
書き手に必要なのは、「なぜ」を1行足す意識
思考の跡を残すために、特別なスキルは必要ありません。
設計や資料のどこかに、「なぜそうしたのか」を1行書き添えるだけで十分です。
例:
この構成はサービス後の改修を容易にするため採用。
本来はA案も検討したが、期間内での実装コストを考慮しB案を採用。
たった1行でも、その設計書は“生きたドキュメント”になります。
レビューする側も背景をスムーズに読み取れます。
結論:形を整えるより、考えを残す
冒頭でも述べた通り、形式や品質の統一は大切です。
しかし、それ以上に重要なのは 「考えの透明性」 です。
ドキュメントは“正しい答え”を示すものではなく、
“考えた過程”を共有するためのツール。
形式より意図。
テンプレートより思考。
成果物に、書き手の跡を残していきたいですね。
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