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AI駆動組み込み開発における「Rustの必然性」

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AI駆動組み込み開発における「Rustの必然性」

はじめに

Rustは学習コストが高い言語として知られています。所有権、ライフタイム、借用チェッカーといった独特な概念は、C言語やPythonから移行するエンジニアにとって大きな壁となってきました。しかし、AIエージェント(Claude Code、Gemini、Codexなど)を活用した開発という視点から見ると、この評価は大きく変わります。

本記事では、AIエージェントと協働する開発環境において、Rustが持つ独自の優位性について、具体的なコード例とコンパイル結果を示しながら解説します。特に、Rustコンパイラの厳格な型システムとエラーメッセージが、AIとの対話においてどのような役割を果たすのかに焦点を当てます。


1. AIにとってのコンパイルエラーの価値

1.1 従来の言語におけるエラー検出の課題

AIエージェントにコードを生成させる際、最も問題となるのは「文法的には正しいが、意味的に誤っているコード」の存在です。

PythonやC言語の場合

これらの言語では、文法エラーがなければビルドは通過します。しかし、実行時に初めて問題が顕在化するケースが多く存在します。

  • Python: 実行時に初めて型の不一致が判明する
  • C言語: ビルドは成功するが、実行時にメモリ破壊やデータ競合が発生する

組み込み開発において、このような「実行してみないとわからないバグ」は特に致命的です。AIエージェントはターミナル内で動作するため、実機接続やオシロスコープを使ったデバッグができません。

1.2 Rustコンパイラの特徴

Rustのコンパイラ(rustc)は、ビルド時に広範な静的解析を実行します。

  • 所有権と借用の整合性チェック
  • スレッド間でのデータ共有の安全性検証
  • ライフタイムの妥当性確認

重要なのは、これらのチェックが単なるエラー通知に留まらず、具体的な修正提案を含む詳細なメッセージとして提供される点です。このエラーメッセージは、AIエージェントにとって高品質な修正指示プロンプトとして機能します。


2. 具体例1:並列処理における安全性の静的検証

2.1 問題のあるコードの生成

モーター制御を例に、並列処理のコード生成を考えます。次のような要求をAIに出したとします。

「4つのモーターの回転数をスレッドで並列に設定するコードを書いて」

AIが最初に生成するコードは、おおよそ次のような形になります。

use std::thread;

fn main() {
    // 4つのモーター速度
    let mut speeds = vec![0; 4];

    let mut handles = Vec::new();

    for i in 0..4 {
        // 各スレッドで speeds を更新したい
        let handle = thread::spawn(|| {
            // ここで speeds にアクセスしたい…
            // (AIはここで素直に書いてしまいがち)
            // speeds[i] = 100;
        });
        handles.push(handle);
    }

    for h in handles {
        h.join().unwrap();
    }
}

2.2 コンパイラによる問題の検出

このコードに対して、AIが speeds[i] = 100; のような記述を追加すると、Rustコンパイラは次のようなエラーを出力します。

$ rustc example.rs
error[E0373]: closure may outlive the current function, but it borrows `speeds`, which is owned by the current function
  --> example.rs:11:30
   |
8  |     let mut speeds = vec![0; 4];
   |         ---------- `speeds` is declared here
...
11 |         let handle = thread::spawn(|| {
   |                              ^^^ may outlive borrowed value `speeds`
   |
   = help: to force the closure to take ownership of `speeds` (and any other referenced variables), use the `move` keyword

このエラーメッセージは、所有権の問題を明確に指摘し、move キーワードの使用を提案しています。AIエージェントはこのメッセージを解析し、適切な修正方針を導き出すことができます。


3. 具体例2:AIによる自律的な修正プロセス

3.1 Arc と Mutex による安全な実装

エラーメッセージを受けて、AIエージェントは「複数スレッドから安全に共有するには、Arc(原子参照カウント)とMutex(排他制御)が必要」と判断します。修正後のコードは次のようになります。

use std::sync::{Arc, Mutex};
use std::thread;

fn main() {
    // 複数スレッドから安全に共有できるようにする
    let speeds = Arc::new(Mutex::new(vec![0; 4]));

    let mut handles = Vec::new();

    for i in 0..4 {
        let speeds_clone = Arc::clone(&speeds);

        let handle = thread::spawn(move || {
            let mut lock = speeds_clone
                .lock()
                .expect("failed to lock speeds mutex");

            lock[i] = 100; // 安全に書き込みできる
        });

        handles.push(handle);
    }

    for h in handles {
        h.join().unwrap();
    }

    // 最終的な速度を確認
    println!("final speeds = {:?}", *speeds.lock().unwrap());
}

3.2 コンパイル成功の意味

このコードを再度コンパイルすると、今度は成功します。

$ rustc example.rs && ./example
final speeds = [100, 100, 100, 100]

ビルドが通ったという事実そのものが、「この並列アクセスは少なくともメモリ安全・スレッド安全である」という証明書になります。

3.3 AI駆動開発におけるフィードバックループ

ここまでの一連の流れを整理すると、次のようなフィードバックループが形成されています。

  1. 人間がAIに自然言語で要求を伝える
  2. AIが初期実装を生成
  3. Rustコンパイラが安全性の問題を検出し、詳細なエラーメッセージを出力
  4. AIがエラーメッセージを解析し、Arc/Mutexなどの適切な手段で修正
  5. コンパイラが修正コードの安全性を検証

このプロセスにおいて、Rustコンパイラのエラーメッセージが、AIに対する高品質な指導として機能しています。


4. 実機レス開発の可能性

4.1 抽象化による開発プロセスの変革

組み込み開発において、Rustのもう一つの重要な利点は「実機なしでも高い安全性を確保できる」ことです。ハードウェア依存部分をトレイト(trait)で抽象化することで、実機が手元になくても設計の妥当性を検証できます。

4.2 具体例3:トレイトによるハードウェア抽象化

ドローンのモーター制御を例に、抽象化の実例を示します。

/// モーターを制御するための抽象インタフェース
trait MotorDriver {
    /// チャンネル ch のデューティ比を 0.0〜1.0 で指定
    fn set_duty(&mut self, ch: usize, duty: f32);
}

/// 安全停止をサポートするモーター制御ロジック
fn emergency_stop<D: MotorDriver>(driver: &mut D, channels: &[usize]) {
    for &ch in channels {
        driver.set_duty(ch, 0.0);
    }
}

/// (テスト用)ダミードライバ
struct DummyMotorDriver {
    speeds: [f32; 4],
}

impl DummyMotorDriver {
    fn new() -> Self {
        Self { speeds: [0.0; 4] }
    }
}

impl MotorDriver for DummyMotorDriver {
    fn set_duty(&mut self, ch: usize, duty: f32) {
        self.speeds[ch] = duty;
    }
}

fn main() {
    let mut driver = DummyMotorDriver::new();

    // 本番ならここに割り込みハンドラなどを繋ぐ
    emergency_stop(&mut driver, &[0, 1, 2, 3]);

    // 実際には UART ログや ITM などで監視したりする
    println!("speeds = {:?}", driver.speeds);
}

4.3 インターフェース設計の検証

このコードは、具体的なマイコンやレジスタには一切依存していません。しかし、コンパイルが成功することで、インターフェース設計に論理的な矛盾がないことが確認できます。

$ rustc example.rs && ./example
speeds = [0.0, 0.0, 0.0, 0.0]

実機が手元に届いた段階で、MotorDriver トレイトを実際のHAL(Hardware Abstraction Layer)で実装します。その時点では、ロジック部分はすでにRustコンパイラとAIの協働によって検証済みの状態です。

4.4 開発パラダイムの変化

従来のC言語による組み込み開発では、次のような状況が一般的でした。

  • 実機がなければ開発が進められない
  • 実機そのものがデバッガの役割を担う

Rustを活用することで、このパラダイムは次のように変化します。

  • コンパイラがデバッガの役割を担う
  • 実機到着前に、安全性の大部分を静的に検証できる

5. Rustの厳格さがもたらす安全性

5.1 学習コストの再評価

「Rustは難しいため普及しない」という意見は、人間が直接コードを書く場合には妥当な指摘でした。しかし、AI駆動開発という文脈では、この「難しさ(厳格さ)」は全く異なる意味を持ちます。

5.2 言語別のAI生成コードの特性

C言語の場合

AIに自由にコードを生成させると、次のような問題を含むコードが出力されやすくなります。

  • 未初期化ポインタの参照
  • メモリリークや二重解放
  • データ競合の発生

Rustの場合

所有権、借用、ライフタイムといった制約が、AIに対する強力なガードレールとして機能します※。

※ より高度な組み込み開発(RTOSやEmbassy等のマルチタスク環境を使用)では、Send/Sync制約によってスレッド間・タスク間のデータ移動や共有の安全性もコンパイル時に検証されます。

AIが不適切なコードを生成しようとすると、コンパイラが即座に次のような指摘を行います。

  • 「その所有権の移動は安全性を損なう」
  • 「その型はスレッド間で共有できない」

結果として、開発者の手元に届くのは、コンパイラの厳密なチェックを通過した高品質なコードのみとなります。


6. エンジニアの役割の変化

6.1 求められるスキルセットの変遷

AI駆動開発の普及により、エンジニアに求められる能力が変化しつつあります。

従来重視されていたスキル

  • Rustの複雑な文法を正確に理解し、使いこなす能力
  • ライフタイムパズルを解決する技術

今後重要性が増すスキル

  • システムの設計思想を明確に定義する能力
  • 要件を自然言語で正確に表現する能力
  • 静的安全性と動的チェックの境界を適切に設計する能力

6.2 新しい役割分担

AI駆動開発における役割分担は、次のように整理できます。

  • 人間: 設計思想と要件を自然言語で定義
  • AI: Rustの文法を駆使した実装
  • Rustコンパイラ: 安全性の静的検証

この三者の協働により、Rustの詳細な文法を完全にマスターしていなくても、Rustが提供する堅牢性と安全性を享受できるようになります。


7. おわりに:新しい世代へのメッセージ

7.1 C言語の偉大さと組み込み開発の現実

組み込み開発においてC言語が今なお主流であることには、確固たる理由があります。数十年にわたって蓄積されたドライバやライブラリ、機能安全規格への適合実績、そして何よりプログラマーの力量次第で無限の可能性を引き出せる自由度。C言語はすべての言語の祖であり、組み込み開発を支えてきた偉大な言語です。

実際、ヒープを使わない設計が主流の組み込み環境では、Rustの所有権システムの利点は限定的です。また、既存のC資産を活かしたインクリメンタル開発が一般的であり、多様なチップでのベアメタル開発や、IAR、Keilといった商用開発環境との統合も考慮すると、現場でC言語が選ばれ続けるのは合理的な判断といえます。

7.2 AI時代における新しい選択肢

しかし、AI駆動開発という新しいパラダイムは、組み込み開発への参入障壁を大きく変えようとしています。ここで重要なのは、既存のC言語開発を否定することではなく、新しい選択肢を提示することです。

C言語の自由度は、経験豊富なエンジニアにとっては強力な武器です。しかし同時に、その自由度はAIエージェントにとって制約のない空間となり、メモリ安全性やスレッド安全性の問題を生成しやすくなります。一方、Rustの厳格な型システムは、AIが生成するコードに対して自動的にガードレールを提供します。

7.3 これからプログラミングを始める方へ

もしあなたが、これから組み込み開発を学ぼうとしている学生や、キャリアチェンジを考えているエンジニアなら、Rustという選択肢を検討する価値があります。

従来の組み込み開発の課題

  • C言語のポインタ操作に対する心理的障壁
  • 実機がなければデバッグが困難な状況
  • メモリ管理の複雑さ

AI + Rustがもたらす新しい体験

  • コンパイラが安全性を自動検証
  • 実機到着前に設計の妥当性を確認可能
  • AIエージェントとの協働で、学習曲線を緩和

7.4 Web系エンジニアの方へ

すでにWeb開発でRustを使っている方にとって、組み込み開発は想像以上に身近です。

  • 言語の統一性: サーバーサイドで書いているRustと同じ言語で、物理世界を制御できます
  • 型システムの恩恵: Webアプリケーションで享受している安全性が、組み込みでもそのまま活きます
  • 非同期処理の知識: async/awaitの経験は、Embassy などの組み込み非同期フレームワークで直接応用できます

7.5 共存の未来

本記事は、C言語による組み込み開発を否定するものではありません。現場で培われた技術とノウハウは、これからも重要な資産であり続けるでしょう。

ただし、新しい世代のエンジニアが組み込み開発に参入する際の選択肢として、AI時代に最適化された開発体験を提供できるRustの可能性を提示したいと考えています。

組み込み開発の未来は、経験豊富なC言語エンジニアと、Rustで新しいアプローチを試みる新世代エンジニアが、それぞれの強みを活かしながら共存していく形になるのではないでしょうか。

少なくとも、AI駆動開発という文脈において、Rustは組み込み開発への入り口を広げる可能性を秘めています。

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