常識の範囲って?~ライセンスの必要性を考える~
新しいサービスを使ってみよう、ということで初投稿です。
あまり技術的な話ではないのですが、利用規約を見る限りでは特に内容の縛りはないようですね。
その他、運営者が不適切と判断する行為
といういわばなんでもありな条文もあるのですが、これを気にしていたら何も書けないし、そこまで濫用はしないだろうと期待しておきます。運営のスタンスはわからないですが割とオープンな方向でやっていくつもりのようですし。
ジブリが素材を公開
旬の話だし、タイトルで何に言及したいのか分かった人も多いと思いますが、この話です。
ジブリが公式でフリー素材を公開! すごい! と思った人も多いと思います。
ですが、私などはちょっと引っかかってしまう訳ですね。
常識の範囲でご自由にお使いください。
この一文に。
わからない……。常識がわからない……。北ってどっちだ……。豚って飛ぶっけ……。我々とは……。生命とは……。宇宙とは……。
まず意見を明示しておきます。私は、ジブリのこの件に関しては、「常識の範囲」をもっと明示すべきだと思っています。
「常識の範囲」という言葉の危うさ
「常識の範囲を明示してほしい」という意見に対して「お前は常識もわからないのか」「非常識な奴め」という短絡的な反応がありそうなので、まずその藁人形に釘を刺しておこうと思います。
私自身に関して言えば、そこまで自分が常識外れだとは思っていません。宇宙のことはわからないけど。そして、私と同じような意見を持つ人の多くは「常識外れな非常識な奴」ではないだろう、と考えています。
もちろんこれは定量的に示せるものではないので、「お前がそう思うんならそうなんだろう お前ん中ではな」と言われたら「それはそう」と答えざるを得ないわけですが。
ですがそもそも、常識とはそういうものではないですか?
私は私の中にある「常識」に従って生きているし、「常識」は社会生活を送りながら身につけたもので、社会通念から取り込んだものであるため、「常識」に従って行動していれば社会との摩擦を減らすことができる、と考えています。
一方で、私の持つ「常識」と完全に一致する「常識」を持つ人がいる可能性は低い、と見積もっています。これも私の「常識」の一部です。
問題はまさにその点で、私の常識とジブリの常識にはおそらく食い違いがあるのです。
例えば、私はプログラマーなので、公式のWebサイトはHTTPS化すべき、と思っています。HTTPS化しないと中間者攻撃にさらされる危険が高いというのは「プログラマーであれば常識」ではないかと思います。一方で、ジブリの公式サイトはHTTPです。公式サイト運営に携わっている人の中にHTTPS化を考えている人がいないと言うつもりはないですが、少なくともジブリという組織全体の方針として、HTTPS化が優先課題になっているとは思えません。「プログラマーの常識」は「ジブリの方針」とは一致しない訳ですね。
こうやって何から何まで検証するわけにはいきませんが、要するにここで言いたいことは、
みたいなことです。いや、これもちゃんとした根拠を元に示せる話ではないのですが、常識なんて大体はそういうものだと私は考えています。
他人を信頼するのは美徳かもしれないが、不特定多数を信頼するのは違う
ジブリに限った話ではないですが、「常識の範囲で自由に」というフレーズはこういった無償配布の素材によく使われる言葉です。
この言葉を使う人たちは大抵(そもそも自分が権利を持つものを公開してくれるのだから)善良な人々で、善意から「でも悪いことには使ってほしくないなあ」という気持ちが現れたのが「常識の範囲」という言葉なのだと思います。
親が子供にお小遣いを渡す時に「常識的な使い方をしなさい」みたいなことを言ったとしても、私はそれは問題だとは思いません。親は子供が悪いことをしないとある程度信頼しているだろうし、子供が実際に何か常識外れなことをしでかしたらちゃんと叱れば良いと思うからです。
親と子の関係なら、共同生活によりある程度常識の共有が行われているし、食い違いが発生した時に常識のすり合わせを行うのも容易です。しかし、ネットに公開した素材を利用するのは不特定多数の、思想も文化も異なる可能性のある人々です。そこに「常識」を持ち出しても、食い違いがあったときにすり合わせを行うのは困難です。
「常識の範囲で」という言葉には、暗黙のうちに「この件に関して、あなたと私の常識が一致していることを前提にします」という意味が付加されていると考えるべきです。それは身近な人と使うならおかしなことではありません。つまり、言い換えると、「あなたの常識を信頼します」という意味になります。社会は善良な人々の信頼に依って構築されているので、信頼が悪いことではないですが、ネット上の不特定多数に対しては、常識が一致しているという前提が成り立たない以上、信頼をすべきでは無いのです。
あなたの常識を教えてほしい。私はそれに従うから
結局の所、「常識の範囲を明示してほしい」というのは、その「常識の範囲」を発言した人が、常識をどう捉えているのか、ということなのです。
ここでその人の「常識」が示されたとして、それが誰かの、あるいは大勢の「常識」と食い違っていたとしても問題はありません。社会全体の常識を教えてほしい、という話ではないのです。ただ、素材を配布した人がそれをどう扱ってほしいのか、ということが見えれば良いのです。
そういった配布元の方針を示すのがライセンスで、結局これは「ライセンスを付けてください」という話に帰結するのだと思います。
私はライセンスというとGPLやMITなどが思い浮かぶプログラマー脳ですが、ライセンスは別にOSSライセンスだけではありません。ライセンスと言うとソフトウェアやデータなどに付けられるものというイメージがありますが、例えば冒頭で見に行ったZennの利用規約もライセンスに近いと思います。ここにはZennがやってほしいこと、やってほしくないことが書いてあり、それを見ることで私も「まあ技術的な話と直接関係のある内容じゃないけど書いても良いだろう」と判断できる訳です。
もちろんライセンスは配布元が自由に作っても構いませんが、ある程度の内容は既存のライセンスにまとまっているので、特殊な拘る点がないのならそういうライセンスを適用するのが良いです。例えばが「一般人には利用してもらうのはいいけど商売に使われるのはなあ……」と考えたとしたら、CC-BY-NCライセンスを適用する、とか。
逆に、「常識の範囲でご自由にお使いください。」という文も、それ自体がライセンスだと捉えることもできます。
ただ、これをライセンスとして捉えると、やはり「ライセンスに情報が少なすぎる」という批判をすることになるでしょう。
ライセンスを付けさえすれば良い、という訳ではなく、やはり後から「このライセンスはやめればよかった」とか「ライセンスに書かれていない部分で揉めた」みたいなことは起こり得ます。ですが、少なくともライセンスを明示することは、配布元にとって無用な揉め事を予防する効果があると私は考えています。もちろん、ユーザーにとっても利用可能な範囲が明示されていたほうが使いやすくなるという利点もあります。
こういったことを考慮した上で、それでも「ライセンスは付けない。常識で考えろ」と言うのも自由ではあります。そもそも素材をどのように配布するかは配布元の自由です。ですが、自分の常識では考えられないことを平気な顔でやり始めるのが他人というものだ、ということは念頭に置いておいた方がいいと思います。
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