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IETF 116 Yokohama レポート (その1)

2023/05/25に公開

  1. Introduction
    はじめまして、田中香織です。私はカナダの耐量子計算機暗号 (PQC, Post-Quantum Cryptography) のスタートアップBTQ Technologies社のHead of Japan (日本統括責任者) を務めています。それとともに、2019年からQuantFiというフランスの量子コンピュータ企業(金融業界向け量子アルゴリズム開発)の日本統括責任者も務めています。QuantFiはC E Oがアメリカ人なので、アメリカにも進出しており、主にシカゴと東海岸を中心として活動しています。私自身は東京を拠点に働いていて、日本に同僚がいないので日本では常に一人ぽっちです。日本語が喋れることと日本に詳しいという事情で日本市場を主に担当していますが、どちらの企業もスタートアップなので人的リソースに限りがあるため、私はEUとアメリカ市場の動向も担当していています。

さて、そんな私が会社から急遽一任され2023年3月25日〜31日に日本の横浜で開催されたIETF 116 Yokohama に参加することになりました。私は事前準備期間がほとんどないまま参加することになり、同時期に開催されていたRWC (Real World Crypto) 2023 Tokyoにも参加していたため、東京と横浜を行き来するハードスケジュールでした。約1週間、毎日必死に参加してサバイバルしているうちにIETFが大好きになったので、せっかくならそこで得られた知見を共有しようと思い、こうして書いています。IETFは、企業を越えた個人として参加することが重視される組織およびカンファレンスで、参加者それぞれがインターネットの未来に貢献することを期待されているものです。IETFへの参加は個人的に初めてでしたがBTQ Technologiesという企業としても、今回のIETF116が初参加となりました。私がIETFを好きになれたのは、ひとえに会場で私を導いてくれた先輩方のおかげです。特に今回は日本人の先輩参加者の方々に大変助けられました。心から感謝しています。国際的なカンファレンスでこのように助け合うということは、他のカンファレンスではあまりないことなのではないでしょうか。IETFならではだと思います。

  1. IETF とは
    それではまず、IETF (Internet Engineering Task Force) の概要を説明しましょう。IETFはインターネットの発展の道筋を作ることが目的の団体です。アジア、北米、ヨーロッパの順で3つの地域を周り、年3回開催され、年間7,000人が自発的にIETFに関わっていると言われています。 IETFのミッションは、”To make the Internet work better.” (A Mission Statement for the IETF. [RFC3935][BCP95]) です。ミッションからもお分かりのように非常に歴史のあるカンファレンスです。最終的に技術文書であるRFC (Request For Comments) というものを発行するのですが、RFCの権威は、少なくともインターネット通信において絶対的なものだそうです。このRFCに至るまでのプロセスとしては、draftと呼ばれるものがいくつも提出されて精査されていきます。そしてたくさんのディスカッション(メーリングリストでのやり取りやIETFでの口頭でのコミュニケーションなど) を経てRFCになります。
    活動の原則として、誰でも参加でき(非常にオープンな雰囲気)、情報は公開されており、成果は無償で利用できます。draftを作成したり、それに沿って実装し相互接続して安全性を検証したりなど活動の幅が非常に広いです。RFCを作るためにセッションで発言したり、提案したりなど積極的な活動は全て貢献に繋がります。いろんな立場からの意見があるので、IETFでは大枠の合意(rough consensus)を意識しながら会議が進められていきます。これはIETFで全てを細部まで決めるわけではないことを意味します。また細部まで決めることは不可能なので、実用に耐えうるかはビジネスの場で構築していくということでしょう。また、実務の視点が常にあるので、多くの人々が使うものが標準であると考え、実際に運用されて動いているコードが重要視されているそうです。ひと言で表現すると、IETFは時代に合った技術を作り上げていく技術コミュニティです。全部で127のWG (ワーキンググループ) が活動しており、そのうちセキュリティ部門(SEC)には25のWGがあります。今年の参加者は1,773人(1,008 on-site, 765 remote)でした。

また、IETFの姉妹団体である IRTF (Internet Research Task Force) のRG(リサーチグループ)は将来のインターネットの発展に資する研究を扱っています。ICN (Information-centric networking)、最先端の暗号技術、量子インターネットなど。

Photo: IETF

  1. 注目したセッション
    BTQ Technologies は耐量子計算機暗号 (PQC) のソフトウエアとハードウエア(チップ)を開発している企業なので、私は主にセキュリティのWGのPQUIP, Quantum Internet, CryptoのWGに参加しました。

(1) PQUIPの活動
IETFはInternet Standards (インターネット標準)のためのものなので、NISTが試みているPQCの標準化より広い概念で活動しています。また、PQCに関しては、いくつかの国が標準化を推進する動きがあるものの、IETFとしては2023年に決着がつくと予想されるアメリカのNISTによる標準化をフォローする前提で活動がなされていました。したがって、今年のIETFではPQCの標準化について決定する場ではないと念を押される場面もありましたし、実際のところまだ用語の定義やどの言葉を使っていくかについて話し合われていたので、私個人としては普段の業務とのギャップをとても感じる機会になりました。例えば、PQCがインターネットで実用化されるまでの間の移行期間の呼び方として「ハイブリッド期」と呼ぶべきか「プレ量子期」と呼ぶべきかなどの議論が交わされていました。この議論により、今後実装までの長い道のりがあることを非常に意識させられたので面白いと思いました。みんな長生きしないといけません。
そもそも今は準備することがたくさんある段階であり、またdraftさえも作成されていなかったので、PQCについては次回IETF117以降から議論がより活発になっていくことと思われます。ただし、後述のようにすでに前回からハッカソンのテーマとしてハイブリッドのcertificateの実装を視野に入れて活動しているチームもあり、着々と前進していることがわかったことは収穫でした。

(2) IETFのプロセスと長い道のり
IETFでは通常draft (議論のたたき台) を提出するところから始まり、そのdraftをW Gで白熱の議論が交わされ、精査されてRFCとして公開されます。このRFCになるまでの過程に通常約3年かかると言われています。また、RFCには、インターネット標準・Informationalな文書・BCPの文書などの種類があります。RFCとしてどれを指すのかにもよりますが、PQC自体が今後20年〜50年先と言われるハードウエアとしての量子コンピュータの実用化に大きく影響されることと、また量子コンピュータのネットワーク構築の開発状況にも大きく影響されるため、私の考えでは、実装まで視野に入れるならばある程度納得のいくRFC公開の段階までいくには3年では短いのではないかという印象がありました。そして諸先輩方にご意見をうかがったところ、時には10年や20年かかって社会実装されるものもあるとのお話だったので、IETFでは先人たちのインターネットへの貢献に驚かされるばかりでした。私はIETF初参加なのでこれまでのインターネットの標準化に貢献してこられた先輩方のプロセスを理解していない部分があるため、いろいろと未熟なまま見聞きしていることもあると思いますので、間違っていたらご指摘ください。

(3) ちょっと量子コンピュータの話
ところで、そもそも量子コンピュータで暗号を解くには数百万量子ビット以上が必要になると考えられているところ、現在(2023年4月)量子計算は数百量子ビットがせいぜいの限界です。シミュレータを使っても本物の量子コンピュータがどのような振る舞いをするのかは想像の世界でしかない状況です。なおかつ人類はインターネットのネットワークを「量子化」あるいは「量子対応」するという人類初の大規模な再構築を行わなければなりません。今はまだ誰も暗号を解ける量子コンピュータで計算したことがなく、量子コンピュータの登場によって人類がどのようにこれまでのインターネットのセキュリティをアップデートしていくのかまだ分からない変革期にあります。しかも量子コンピュータの実機は様々な種類(超電導・光・中性原子・イオントラップ・半導体など)があるため、実装まで見据えての活動は最も実用化されると思われるハードウエアのタイプをメインにあるいは数種類ごとにそれぞれ議論されていくと思われるため、非常に複雑で長い期間が必要になると考えます。さらに、これらの概算はすべて現在の技術レベルを基準に見積もられているため、ある日突然に実現までの年数が縮まるということも大いに予測されます。私はこの考えをいつも頭の片隅に入れて量子技術の進化と動向を見守っています。

今年AIが実用レベルまで飛躍的に進歩して人々がChat-GPTに熱中して次々とアプリを開発して商用化し、ある国では利用を禁止し、ある国では重要なソースコードを漏洩してしまった企業があったように、すべて去年までは誰も予想もしていなかった展開が起こっています。完全にシンギュラリティを迎えたと私は考えています。2005年にカーツワイルが予言した「2045年にシンギュラリティが起こるという説」よりも22年も早くシンギュラリティを達成してしまったことになります。これと同じことが量子技術の世界でも起こり得ると私は考えています。

Source: IETF Official

また、サイバーセキュリティ界では「いま盗んで将来解読するつもりのハッカーへの対策をしなさい」という教訓がありますから、今すぐに対策をせねばならず、3年でも遅いと考える業界や機関もあると思われます。そこで、おそらく各種の対策が前後しながらも遅くともY2Q (2030年4月14日)までにはひとまず業界全体として理想的なRFC公開ができるよう動くのではないかと予想しています。アメリカ連邦政府は、2030年以降はNIST標準化に適合しないものの調達を一切しないと表明しているため、IETFでもアメリカや世界の動向を見据えつつ年3回の議論が徐々に熱いものになっていくでしょう。Y2Qまであと2,516日。6年と326日です(2023年5月25日現在)。ちなみに毎年4月14日は「世界量子デー」です。

(4) 量子インターネット
日本の慶應大学の教授Rod Van Meter先生のもと、量子インターネットのプロジェクトが活発に活動しています。日本はもともと光通信技術が産業的にとても強いという恵まれた背景があるため、その技術力を活かして2021年にはChicagoの市内にQKDネットワークを構築したPoCを実行して成果を上げています。
Rod先生のチームは特別セッションを設けて量子インターネット構想を説明しました。IETF参加者の中には20年以上連続して参加しインターネットの標準化に貢献してきている先輩が多くいますが(お互い名札を見なくても誰だか分かり名前で呼び合うほど親しい)、それらの先輩方が必ずしも量子コンピューティングと量子コミュニケーションに詳しいわけではないので、Rod先生のチームは量子コンピューティングの基本から丁寧に説明し、量子インターネットの構築に興味を持つ人を増やすために非常にオープンに活動していました。ちょうど本を執筆しているところなので、もし協力したい研究者がいたらぜひ参加してほしいと呼びかけていました。


Prof. Rod Van Meter of Keio University (right) and Kaori Tanaka of Head of Japan at BTQ Technologies (left)

ちなみに、私は以前から量子インターネットは宇宙空間も含むものと見据えており、宇宙通信の分野でも光通信技術を活用した開発が注目されているため、この分野についても日本は強いと考えています。宇宙通信のセキュリティに関してPQCがどのように関係していくかといえば、考慮に入れるべきだけれども今の段階では通信が光なのか電波なのかによってもセキュリティの対策が異なってくる(のでP Q Cまで必要なさそう)という専門家の意見もあったり、衛星同士の通信・衛星と基地局の通信・基地局とその先の地上での通信という3つの場面を分けて考える必要があり、宇宙産業の業界内でも異なる考え方で活動している状況のようです。この分野は面白そうなので、個人的に引き続き追いかけていく予定です。

話が逸れましたが、IETF最終日にすべてのセッションが終了したあと、量子インターネットプロジェクトチームは、横浜国立大学にある量子インターネットラボへのバスツアーを企画しました(限定40名の参加者)。約3時間のラボ見学ができるツアーだったので、大人気のため参加申込はすぐ定員になりました。私は申込んだから行けるものだと思ってのんびりしていたところ、実は応募多数でWaiting Listになっており、IETF初心者のためそのリストがどこでやり取りされているかも分からず結局ツアーに参加することができませんでした。この辺りのこともIETF初心者だと全く気づかずに終わる場合があるので、毎日こまめにIETFのwebサイトをチェックして情報収集の努力が必要ですね。大変に骨の折れるカンファレンスで面白いです。

なお、ツアーバスが出発するのを見送りに行ったのですが、ツアーバスは補助席まで使ってぎゅうぎゅうで、バスに乗り込んだ先輩方のウキウキした顔がとても印象的でした。最終日だったので、会期中に話しかけまくって仲良くなった先輩方が何人も乗り込んでいるのを発見しました。このツアーにより、世界に協力者を得て量子インターネットのプロジェクトが進むのだなと考えました。このような将来の技術に対する寛容さと参加者の柔軟さはIETFならではのものではないでしょうか。
Quantum Internetセッションの様子:  https://www.ietf.org/live/ietf116-hostspeaker/

4. ハッカソン
実はIETFではハッカソンが開催されていました。ハッカソンは、技術や動作確認ができることと、仲間づくりができる場としても活用されています。私はPQCのハッカソンチームを発見したので仲間になりました。このチームは既存のX.509にPQCアルゴリズムを組み込み、ハイブリット証明書を発行するというものでした。ハイブリッド証明書のフォーマットには多くの人の関心が寄せられているので、このチームの活動は非常に興味深いものでした。このチームは前回のIETF 115から活動を開始していたそうで既にGitHubページも作れられており、今後も継続的に活動します。次回IETF 117ではハッカソンで一緒にさらに進んだ開発と実験ができることを楽しみにしています。
Hackathon: https://youtu.be/MzEtUBhuqKM


Photo: Hackathon at IETF 116 Yokohama, IETF official

  1. 最後に
    New Participants向けのイベントがいくつかあり、IETF自体が積極的に新しい人を迎えて支援してあげようという温かいコミュニティが形成されていることに驚きました。本当に居心地が良く、技術カンファレンスでここまで温かくてオープンなものはないのではないかと思い、とても気に入りました。New Participants Overview, Dinner, Quick Connectionsなどに参加しました。毎回IETF参加歴20年以上のベテランの先輩がオンボーディングのお世話係として参加してくれていました。たくさんのことを教えてもらい毎日新しい学びがありました。この新規参加者向けの歓迎イベントがあったらこそ、1週間もの長くて複雑なカンファレンスを乗り切れたのだと思います。とても感謝しています。


Photo: Plenary, IETF official

私は今回のIETF 116へは急遽参加することになり、準備期間がほとんどなかったためdraftを読み込んだりするなどの予習もできず、日本国内から誰が参加するのかも分からないまま初日を迎えました。また同時期に暗号カンファレンスのRWC 2023も開催されており、2つのカンファレンスを行き来することになり、かなり大変でした。そうした状況の中、外国人・日本人問わず積極的に人に話しかけ、1週間で約100人以上と新しく知り合い、そのうち10人くらいの人と非常に親しくなり、カンファレンス後にお寿司ディナーをしにいくなど温かく楽しい交流もすることができました。このようなオープンな枠組みの中で来たる量子時代のインターネットセキュリティを決めていくということは非常に素晴らしいと感じました。今後も継続してIETFに参加し、量子コンピュータ業界出身の人間として次世代のインターネットの標準化に貢献していきたいと思いました。次回のIETFの開催地はサンフランシスコです。2023年7月22日から28日。See you again soon!


IETF 117 San Fransisco: https://www.ietf.org/how/meetings/117/

<おまけ>

仲良くなったハッカソンのチームとの記念写真。真ん中のJohnが来ている赤いTシャツはIETF 116公式Tシャツで海外の人に大人気でした。

To be continued
(続編もあります!)

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