プロダクトを「愛してはいけない」!?
※あくまで個人的な考え方です🐖
プロローグ
PdM(プロダクトマネージャー)は、プロダクト開発の中でも、要件の意思決定、優先順位付け、ロードマップ、ステークホルダー調整——プロダクトオーナーとしての振る舞いが求められる場面が多い役割です。
そうした文脈で、よく耳にするのがこの言葉です。
「やっぱり、PdMに必要なのは“プロダクト愛”だよね。」
モチベーションの源泉としての“愛”は確かに理解できます。
ただし、ここでいう「愛」が思春期の恋愛に近い自己投影や自己陶酔になってしまうと、プロダクトは簡単に迷走します。
PdMたるもの、青春を謳歌してはならない。
「愛」という言葉に隠れる情熱そのものを否定している訳ではありません。
「愛や儚さといった雰囲気を醸し出す一過性の時代」としての青春を感じてしまっているのであれば、それはPdMとして良くない傾向かもしれません。
では、なぜPdMはプロダクトを「愛してはいけない」のか、そして代わりに何が必要なのかを、具体例とともに整理してみましょう。
愛してはいけない理由
——それは盲目になってしまうから
思春期の恋愛は、しばしば自己像の投影です。相手の欠点を見ない/見たくない、都合の悪い情報を遮断する、友人の助言が耳に入らない。プロダクトでも同じことが起きます。
以下、プロダクトを愛してしまうが故の盲目が生む3つの崩れ方をご紹介しましょう。
1) 盲目になると、周囲の意見や助言を聞き入れない
プロダクト愛が強くなると、客観的な意見やリスク指摘に耳を貸しづらくなります。
サポートや営業が持ち帰るVoC(Voice of Customer)、CSが掴む解約理由、データが示す離脱パターン……
愛しすぎた故の盲目が原因で、こういった周囲の意見や助言を聞き入れなくなった結果、誰も求めていないプロダクトに寄っていきます。
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「作っていて楽しい」方向へ過剰投資する
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技術的に新しい/トレンドだからという理由だけで採用する
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“推し”のUIや設計を、根拠なく守り続ける
特に厄介なのは、プロダクトを愛し過ぎてしまうと競合調査を避ける傾向があることです。
「うちはうち、よそはよそ」「独自路線が大事」——その通りのようで、“見ないための言い訳”になっていないかを常に疑う必要があります。
調査した上で「このままで良い」は合理的ですが、見ようとしないのは危険信号。市場がいつの間にか自分の知っていたものとは変わってしまい、いつしか明後日の方向にプロダクトが進んでしまっていては手遅れです。
“思春期の恋愛”は、相手の実像ではなく自分の理想を愛してしまう盲目状態。
盲目的なPdMも、プロダクトの実像ではなく“理想の我が子”を愛してしまう。
2) 盲目になると、欠点や問題点を見逃す
愛が強すぎると、欠点を「味」「個性」「先進性」の言葉で正当化しがちです。
でもユーザーにとっては、“当たり前機能が当たり前に使えること”が最も価値です。
ここを軽視すると、「UVP(独自価値)や差別化」を語りながら土台が脆いという最悪の状態に陥ります。
言い換えれば、技に溺れたプロダクトです。
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当たり前機能の欠落(一覧の遅さ、検索の弱さ、権限粒度の不足 等)
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基本動作の不一致(同じ操作でも画面ごとに挙動が違う)
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情報設計の不足(画面はリッチだが、ユーザーの仕事は速くならない)
これらを“独自性”で塗りつぶすと、誰にとっても使いにくい尖りになります。
尖ること自体は悪ではなく、基礎の上に立った尖りでなければ価値になりません。
“思春期の恋愛”が生み出す盲目は、相手の矛盾や無理を「個性」として美化しやすい。
PdMの盲目も、プロダクトの“痛み”を“味”と誤認してしまう。
3) 盲目になると、判断能力が著しく低下する
プロダクトを“我が子”のように思う比喩はしばしば使われます。ただ、我が子を愛し過ぎて盲目になってしまってはいけません。
昭和的な頑固な親が我が子を自分の思う道に沿って育てる時代ではなく、令和は子の多様性を重んじる時代。
だからこそ、我が子がどんな色に染まっても良しとしてしまう危うさがある。
トップダウンの突発要望、事業部の“とりあえず”の売り案件、ユーザー要望の丸のみ。
どれも「例えそんな我が子でも愛してあげるよ」と思い我が子の成長を受け入れ続けてしまうと、結果として自走する力も、誰かに愛される個性も、両方とも持てないプロダクトになっていきます。
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“愛している”がゆえに育てる戦略を意識しなくなり、結果判断基準が緩む
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プロダクトの個性が薄れ、手段の蓄積が積み重なったプロダクトになる
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ロードマップが感情で捻じ曲がり、徐々に崩れていく
最後に残るのは、「愛しているのは自分だけ」という状態です。市場もユーザーも、そこまでの愛は向けてはくれないのが現実です。
“思春期の恋愛”が生み出す盲目は、都合の悪い事実も“愛だから”で飲み込む。
PdMの盲目は、戦略のない意思決定を量産する。
じゃあ、どうプロダクトと付き合えばいいの!
1) プロダクトは偉大。愛するなんて烏滸がましい。ただ、助けてあげれば良い。
ジンジャーのように多数のユーザーに使われ、業務を動かし続けるプロダクトは、それ自体が既に価値のある偉大な存在です。
そんな偉大な存在を「愛している自分」に酔いしれるのではなく、「寄り添って支える」に徹した方が、PdMとしてプロダクトとの良い付き合い方なのかもしれません。
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自己陶酔せず、プロダクトが歩む重力に逆らわない
これまで歩んできた道のり、これから歩む方向への歩みをPdMが示しながら、地道に機能をリリースする。決して本来あるべき重力に逆らって、自分よがりになってはいけない。 -
歩みのズレを支える
迷ったり、横道に逸れそうな時、プロダクトビジョンを軸に判断して、適切に戻して支える。 -
歩みを止めて治癒してあげることも重要:
歩んでばかりではなく、時には欠損してしまった“当たり前機能の磨き込み”、技術負債やUIUXの改善といった“地味だけど綻びが起きないための休息”も考える。
1つ1つの機能リリースは全体の一部にすぎません。ですが、その積み重ねでしかプロダクトは良くならない。
だからこそ、「少しずつ、確実に助ける」。これが“距離感のある誠実で大人な愛”です。
2) ひとりよがりにならない。プロダクトにも顧客にも、関係各所にも誠実であれ。
様々な意思決定がPdMの仕事ですが、独断的な判断は亭主関白的。常に周りにあるキッカケを集め、頼りながら、合意を作る姿勢が求められます。
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キッカケを逃さない:VoCや競合調査、その他Bizサイドからの情報収集も怠らず、常にアンテナを張る。
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頼る:意思決定をする≠頼らず一人でやり抜く。人に頼りながらも、最後は優柔不断にならない。
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合意形成:一時の感情やひとりよがりな判断に任せず、報連相を欠かさず、関係各所に向き合いながら誠実に進める。
誠実さは「迎合」ではありません。判断はPdMとして行いながらも、周りと向き合いながら地道にPDCAを回していけばいい。
誠実に積み上げていくことが、盲目な愛ではない大人の恋なのではないでしょうか。
3) 良い意味で“大人な恋愛”をすべし。
距離感を持ちながら、こだわるところはこだわる。
熱くなり過ぎず、とはいえ長続きするためのコツを自分たちで言語化できている状態こそ、“成熟”だと考えます。
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こだわりを持つ:
今の時代、いろんな「幸せの形」があるからこそ、その「自分たちらしい幸せ」を言語化できた方が、上手に成熟できる。 -
そのこだわりが長続きにつながる:
色んな誘惑がある(競争環境も激化する)中で、そのこだわりが自分たちの心の拠り所(Moat)にもなる。 -
こだわりを隠さず伝えていく:
使い方や成功パターンは様々。“自分たちなりの幸せ”を言語化し、ストーリーとして伝えることで、社内外の理解と協力を得やすくなる。
大人の恋は「一瞬の火力ではなく、末永い持続力」。
PdMもプロダクトを“所有”しない。距離感を保ちながらも、お互いの信頼を積み重ねる。その結果として関係性も成熟し、誇りを持って歩みを進められるのです。
まとめ
とまあ、ここまで意味のわからない「愛」について、未熟者が語ってきましたが......
今回のテックブログでお伝えしたいのは大きく以下の3つです。
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プロダクトを所有物だと思わない。プロダクトに心血を注ぎすぎない。
PdMだけでなくプロダクト開発に従事する者、目の前のプロダクトにばかり思いを馳せるのではなく、また自分のためのプロダクトでもなく、顧客のためにプロダクトを支える役割であるということを自覚すべし。 -
独りで作るな、みんなで作れ。
PdMや開発で縮こまるのではなく、広く関係者と合意を取りながら信頼を積み重ねる。その積み重ねが、顧客や市場からのプロダクトへの愛を育み、強固なものになっていきます。 -
飛躍し過ぎず、着実に歩む。
相対している顧客がいる以上、人の集合知であるビジネスである以上、一過性の青春のように飛躍しすぎるのは崩壊を招きます。一歩ずつ確実に、でもこだわりと誇りを持って歩みを進める大人さが大事です。
最後に僕自身の哲学だけ書き連ねると......
僕は愛という概念を、「愛して」「愛される」のように「愛す」という動詞とは捉えていません。
愛とは、人やモノの間に積み重なって築かれる一種の感情の塊だと思っています。(?)
まあ概念はさておき、PdMとしての驕りなど持たず、顧客や関係者に向き合って、地道に歩みを積み重ね関係性を重視することが、
その顧客や関係者とプロダクトとの“愛”を育む方法なんじゃないかな?と思って、ここらで筆を置きますね。
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