エンジニアのための量子コンピュータ入門#1:イントロ
まえがき
最近、Caltech の Ph219/CS219: Quantum Computation で量子コンピュータの基礎を学び直しを始めました。こちら2020年秋学期の授業動画がYoutubeにアップされており、だれでも受講することができます。
面白い授業なのですが、英語ということで勉強のハードルが少し高いです。勉強する際に日本語でも解説があると良いかなと思い、備忘録も兼ねて講義をベースにした本連載を書くことにしました。モチベーションが続く限りは連載を続けようと思います。
私は情報系の出身なのですが、エンジニア界隈では量子コンピュータの理論についての情報はまだ十分に出回っていないように感じます。本連載はイメージだけでなく簡単な数学なども交えながら、量子コンピュータをわかった気になることを目的としています。みなさんの学習の一助になれば幸いです。
シリーズ一覧
- エンジニアのための量子コンピュータ入門#1:イントロ
- エンジニアのための量子コンピュータ入門#2:密度演算子(前編)
はじめに:量子コンピュータとは
本連載では量子コンピュータを取り上げます。
量子コンピュータとは、従来のコンピュータとは根本的に異なる新しいタイプの計算機です。普通のビットではなく 量子ビット(qubit) を利用して計算を行います。重ね合わせや量子もつれといった量子力学の原理の力を使って、古典的なコンピュータでは到底扱えない計算を可能にするものとして期待されています。古典コンピュータでは困難な素因数分解を高速化するShorのアルゴリズムなどが有名です。
古典コンピュータでは、0か1のどちらかの状態をとる(古典)ビットで情報を表現していました。一方で、量子コンピュータでは0と1の状態を重ね合わせた状態をとることのできる量子ビット(qubit)を用いて計算を行います。qubitは、具体的には複素数
で表現されます。物理的には光子、電子、トラップされたイオン、超電導回路、原子などの量子状態をを操作および測定することで作成します。量子コンピュータは多数のqubitを用いて計算を行うことで、計算を飛躍的に高速化できる可能性を秘めています。

第一回はイントロダクションです。量子コンピュータに関連した分野や量子コンピュータの可能性について簡単に紹介します。次回以降の記事では、qubitの数学的な定義や、量子もつれ、量子アルゴリズムの仕組みなどについてもう少し詳しく扱っていきます。
量子情報科学(Quantum Information Science)
実は、量子コンピュータや量子計算は、より広い学問分野である「量子情報科学(Quantum Information Science)」の一分野に位置づけられます。
では、その量子情報科学とは何でしょうか?
量子情報科学は20世紀科学を代表する三大テーマが融合した領域です。
- 量子論 — ミクロな物理世界を記述する基礎理論
- コンピュータ科学 — 計算の仕組みとアルゴリズムを体系化する学問
- 情報理論 — 情報の表現、伝達、処理の限界を定める理論
量子論・コンピュータ科学・情報理論それぞれの核心的なアイデアが統合することで、新たな学問領域が生まれました。
その結果として、量子情報科学は「計算」にとどまらず、通信・計測・シミュレーションなど多岐にわたる応用領域を含んでいます。ここでは、その中でも代表的なトピックをいくつか紹介します。
量子センシング(Quantum Sensing)
量子力学の原理を利用して、従来技術を超える精度で測ることを可能にする分野です。
- 量子もつれや量子重ね合わせ状態を活用
- 高精度なセンサー開発に応用
- 例:半導体デバイス中の異常検知、医療分野での微細信号の検出
量子暗号(Quantum Cryptography)
量子状態を通信に利用し、理論的に破られない暗号を実現する技術です。
- 観測されると状態が変化するという量子の性質を利用
- 盗聴があれば必ず検出可能
量子ネットワーキング(Quantum Networking)
量子状態を遠隔地間で共有する技術です。これは量子暗号のアプリケーションやなど、様々な目的で必要となります。
- 量子もつれ状態(entanglement)を遠隔地間で共有
- 量子暗号や量子テレポーテーションの実現に必要
将来的には全世界的に量子情報のやり取りを行える量子インターネットの実現も期待されています。
量子シミュレーション(Quantum Simulation)
人間の制御下にある量子システム(量子コンピュータ)を使い、複雑な量子系をシミュレーションする技術です。
- 古典コンピュータでは困難な多体量子現象を再現
- 材料科学・基礎物理学のブレイクスルーに直結
従来のコンピュータでは計算が困難な複雑な量子系を、量子システムを用いてシミュレーションすることで、新しい物理現象の発見や材料科学への応用が期待されています。
量子コンピューティング(Quantum Computing)
本連載の主役、量子ビット(qubit)を用いた新しい計算パラダイムです。
- 量子重ね合わせ・量子もつれを計算資源として利用
- 素因数分解、量子科学計算を高速化
従来型コンピュータでは解けない問題を指数関数的に高速化する可能性が高く、研究・産業両面で注目を集めています。
物理学と量子情報科学
量子情報科学は、単に工学的に重要であるだけでなく、物理学そのものにも深い影響を与えています。たとえば、量子もつれ(entanglement)やエラー訂正といった概念は、量子情報の枠を越えて幅広い分野に応用されてきました。こうした成果は、宇宙の根本的な構造やブラックホールの情報パラドックス、さらには量子重力理論といった最前線の物理学的課題を理解するための新しい道具としても機能しています。
言い換えれば、量子情報科学は物理学における新たなフロンティアといえます。これまでの物理学の先端は、大きく分けると素粒子などを探究するミクロな分野と、宇宙全体を扱うマクロな分野に分かれていました。そこに加わる新たな潮流が、量子情報科学です。多数の粒子が相互作用することで生じるエンタングルメントを解明し、数個の粒子では現れない新しい現象を探ることができます。
量子コンピュータは、単なる高速計算機ではなく、これまで誰もアクセスできなかった状態や現象を直接扱うための手段となる可能性を秘めています。

量子コンピューティングの可能性
量子コンピュータは世界的に非常に期待されている分野の一つです。各国政府やGoogle、IBM、Microsoft、Amazonといった大企業も研究に力を入れています。量子コンピュータはなぜ注目され、実現可能だと考えられているのでしょうか?
その根拠となるのは、大きく分けて次の2つのアイデアです。
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量子複雑性(Quantum Complexity)
量子ビットは古典的なビットと異なり、重ね合わせや量子もつれによって膨大な状態空間を扱うことができます。この複雑性こそが、古典コンピュータでは実行が極めて困難な計算を効率的に行える可能性の源泉であり、量子コンピュータの計算的優位性の根拠とされています。 -
量子誤り訂正(Quantum Error Correction)
量子誤り訂正は大規模で実用的な量子コンピュータを実現するうえで欠かせない技術です。量子系は環境からのノイズに非常に敏感で、計算中のエラーは避けられません。そこで、複数の量子ビットに情報を符号化し、エラーを検知・訂正できるようにする仕組みが必要となります。量子誤り訂正の発展によって、初めて安定的で信頼性のある量子コンピュータの構築が現実味を帯びてきたのです。(量子誤り訂正の理論は講義、本連載のスコープ外ですが、この連載で取り扱う基礎が誤り訂正の理解には役立ちます。)
以降は特に量子複雑性について深掘りしていきましょう。
量子もつれ(quantum entanglement)と複雑性
量子の複雑性を語るうえで、非常に大切なのが「量子もつれ(エンタングルメント)」です。古典計算と量子計算の違いの根源となる性質なのですが、私たちの日常的な直感に反する概念であり理解が難しいです。ここでは、エンタングルメントのイメージをつかむため本のページのたとえを用いようと思います。
100ページの本を想像してください。各ページにはそれぞれ情報が書いてあります。私たちはまだどのページも読んでおらず、この時点で本に関して知っている情報は0です。

普通の本(古典情報)の場合を考えます。本を読んでいくと、1ページを開いて読むたびに本全体の情報の1%を獲得することができます。これを繰り返し、100ページすべて読み終えれば本の内容を100%理解できるでしょう。これは私たちが慣れ親しんでいる情報の読み取り方です。部分の情報の総和が全体の情報となります。
しかし、量子情報の場合は大きく異なります。ページ同士が強くエンタングルしているとき、各ページを読んでも得られる情報はほとんどなく、ランダムででたらめな情報が書いてあるだけです。また、前のページで読んだ内容に依存して、次以降のページでみられる内容が変化します。つまり、量子の本は開くと1ページ目の内容がランダムに決まり、そこで何を読んだかで次のページの内容が変わるような変化し続ける本なのです。こんな本一度読んだとしても、本全体の情報のほんの一部分しか取得できません。量子の本の情報は各ページの内容にあるというよりも、むしろページ間の相関関係にあります。あるページの内容とほかのページの内容がどのように相関するかをすべて知ることができれば、量子の本の情報をすべて知ったことになります。
量子もつれの一つの特徴はその複雑度です。もつれの相関を通常の古典的情報で記述することは極めて困難なタスクです。例えば、たった数百の量子ビット間の相関を完全に記述しようとすると、観測可能な宇宙のすべての原子数(約

300量子ビットの状態空間の次元は
量子コンピュータの計算的優位性
たしかに量子ビットが保持できる情報量は莫大です。しかし、それだけでは量子コンピュータが有用な計算を高速に実行できることを意味しません。量子コンピュータが古典コンピュータに比べて強力であると期待されるのは、単なる状態空間の大きさではなく、計算的優位性を裏付ける具体的な根拠があるからです。
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第一の理由は、古典的には困難だが量子コンピュータでは効率的に解ける問題が存在することです。最も有名なのが大きな整数の素因数分解です。1994年、ピーター・ショアは量子アルゴリズムによって素因数分解が多項式時間で解けることを示しました。この問題は長年にわたり数多くの優秀な研究者が挑んできましたが、古典的な多項式時間アルゴリズムはいまだ発見されていません。そうした難題を量子計算が効率的に解けることは、量子コンピュータの強力さを示す代表的な例です。
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第二の理由は、計算機理論の観点からです。ある程度大規模な量子計算を行って量子ビットを測定すると、その結果は古典的には効率的にサンプリングできない確率分布に従うことが知られています。つまり、量子コンピュータは少なくともサンプリングの面で古典コンピュータを凌駕しているのです。さらに、量子計算を古典的に効率よくシミュレートする方法はいまだ見つかっておらず、既知の最良のアルゴリズムでも最悪の場合は量子ビット数に対して指数関数的な時間が必要になります。
以上2つの観点から、量子コンピュータは古典コンピュータを上回る計算能力を持つと考えられています。ただし、あらゆる問題を高速に解けるわけではない という点には注意が必要です。たとえば巡回セールスマン問題に代表される NP困難問題 は、量子計算を用いても効率的に解けないと考えられています。
重要なのは、古典的には難しいが量子コンピュータなら効率的に解ける問題を明らかにしていくことです。これは現在も研究が進められているテーマであり、量子計算の本質的な強みを理解するための鍵となっています。

量子系のシミュレーション
量子コンピュータの有用な応用例の一つとして、量子系のシミュレーションが挙げられます。これは「古典的には極めて難しいが、量子コンピュータなら効率的に実現できる」と期待されている代表的な課題です。
20世紀以降に発展した量子力学は、化学、生物学、材料科学、地質学など多くの分野の基盤となる理論です。電子同士の相互作用や電子と原子核の相互作用は、この理論によって記述されます。シュレディンガー方程式を解くことで量子系が時間とともにどう変化するかを、原理的には高精度で予測できます。
しかし問題は、粒子数が増えると計算が急速に困難になることです。多粒子量子系の状態空間は粒子数に対して指数関数的に増大し、特にエンタングルした状態は古典コンピュータでは効率的に表現できません。そのため、どれほどコンピュータの性能が進歩しても、大規模な量子系のシミュレーションは現実的には不可能に近いのです。
この困難を克服する可能性を最初に示したのが、物理学者リチャード・ファインマンです。1981年、まだ量子コンピュータという概念が確立される以前に、彼は次のように述べています。
Nature isn't classical, dammit, and if you want to make a simulation of nature, you'd better make it quantum mechanical, and by golly it's a wonderful problem, because it doesn't look so easy.
(自然は古典的ではない。もし自然のシミュレーションを作りたいなら、それを量子力学的にする必要がある。それはそんなに簡単には見えない素晴らしい問題だ。)
ファインマンの洞察は明快でした。量子系のふるまいを記述するには、古典的な仕組みで動くコンピュータでは不十分であり、量子力学の法則に従って情報を処理するコンピュータ、つまり量子コンピュータを構築すべきだというのです。
このビジョンの通り、もし量子コンピュータが自然界の複雑なプロセスを効率的にシミュレーションできるようになれば、多くの科学分野に革命をもたらすでしょう。たとえば、分子の性質をより深く理解できるようになれば、新素材の発見や創薬への応用が期待されます。さらに、大型ハドロン衝突型加速器(LHC)での素粒子衝突シミュレーションなど、基礎物理学への貢献も計り知れません。
量子コンピュータが実現するシミュレーション能力は、科学の数多くの分野においてパラダイムシフトを引き起こす可能性を秘めています。
おわりに
今回は量子情報科学や量子計算の可能性について、簡単に説明しました。
次回エンジニアのための量子コンピュータ入門#2では講義で必要となる量子力学の知識の準備を進めていきます。
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