レヴィナスの「応答責任」論 - 思想的影響と核心的概念
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はじめに
「応答責任」とは、レヴィナスが言うところの他者に対する無限の責任(responsibility for the Other / responsabilité vis-à-vis de l’Autre)を指す。この概念は、従来の哲学における主体性や倫理観を根本的に転換させる革新的な思想である。
4つの主要な思想的影響
1. エドムンド・フッサール(現象学)
受け取ったもの:
- 意識の「志向性」(いつも何かに向かっている)
- 事象を「そのまま」に記述する方法(エポケー=判断保留)
どのように作用したか:
レヴィナスはフッサールの現象学的記述法を、人間相互の出会い――特に「顔(visage)」との出会い――を細やかに捉える手段として用いた。ただし、フッサールが主に知識や意識の構造を扱ったのに対し、レヴィナスは「出会い=倫理的事象」を核心に据え、現象学を倫理の記述へと転用。現象学は道具となり、そこで「応答」の即時性や不可算性が描かれる。
2. マルティン・ハイデッガー(存在論)
受け取ったもの:
- 存在(Sein)や実存(Dasein)の問題
- 存在論的問いかけの深さ
どのように作用したか:
ハイデッガーの存在論を批判的に受け取り、「存在(ontology)より前に倫理(ethics)がある」と主張。ハイデッガーが世界と自己の在り方を問うのに比べ、レヴィナスはまず「他者の呼びかけ(顔)」が私を規定すると考え、存在論→倫理の順序を逆転させた。この批判的継承こそ、応答責任を第一原理に据える源泉となっている。
3. フランツ・ローゼンツヴァイクやユダヤ教(タルムード的倫理)
受け取ったもの:
- ユダヤ教的な隣人倫理
- 個別的で無条件な責任の観念
- ローゼンツヴァイクの「啓示と応答」の強調
どのように作用したか:
哲学的議論だけでなく、自らのユダヤ人としての伝統(聖書・タルムードの倫理観)からも倫理のあり方を引き出した。ユダヤ的テクストは、他者への「放っておけない(怠ることを許さない)」倫理を具体的・宗教的語法で示す。これにより彼の責任観は抽象的義務論を超えて、顔の前で生じる実践的・宗教的な応答性へと濃密化する。
4. マルティン・ブーバー(I–Thou 対 I–It)
受け取ったもの:
- 人間関係の根本を「我と汝(I-Thou)」という対話的実在として捉える視点
どのように作用したか:
ブーバーの対話主義から「関係性」の重要性を受け取りつつ、さらに踏み込んで関係の非対称性を強調。ブーバーが相互的な〈我-汝〉関係を描くのに対し、レヴィナスは「他者が私に対してまず要求する」という一方的・先行的な責任を見出した。ブーバーは「対話の共在」を、レヴィナスは「呼びかけの主権(他者の優先)」を重視する。
その他の重要な思想的影響
5. ヘーゲル(弁証法・総体性)
受け取ったもの:
- 精神の弁証法的展開、歴史の目的論的構造、総体性の概念
どのように作用したか:
レヴィナスはヘーゲルの思想を主に批判的に受容。ヘーゲルの「総体性」(全体性)の概念を、他者を包摂・同化してしまう暴力的なシステムとして捉え、これに対抗して「無限性」を提示。レヴィナスにとってヘーゲル的「ページャニズム(異教性)」を超えることが重要な課題となり、哲学に他性(alterity)を導入することが「真の生の関心事」となった。また、ヘーゲルの歴史の目的論に対して、歴史を超えた「終末論」の概念を対置した。
6. アンリ・ベルクソン(持続・記憶)
受け取ったもの:
- 時間としての「持続」、生の哲学、直観の重視
どのように作用したか:
レヴィナスはストラスブール大学時代にベルクソンの思想に魅力を感じた。特にベルクソンの「持続としての時間」と「静的な科学的時間」からの解放という概念が重要だった。ベルクソンの「持続」における「新しさ」の概念は、レヴィナスの「通時性(diachrony)」の理論に影響を与えた。また、ジャン=リュック・マリオンは「フランスの20世紀に偉大な哲学者が二人いるとすれば、それはベルクソンとレヴィナスである」と評している。
7. イマヌエル・カント(道徳哲学・義務論)
受け取ったもの:
- 道徳法則の無条件性、義務の概念、実践理性の優位
どのように作用したか:
レヴィナスは、カントの「紛争的強度として理解された実存」の概念に影響を受けた。しかし、カントの普遍的道徳法則に対して、レヴィナスは他者の個別的な顔による直接的で非普遍的な倫理的要求を強調する。カントの義務論を、より根源的な「他者への応答責任」によって基礎づけ直そうとした。
8. セーレン・キルケゴール(実存・不安・単独者)
受け取ったもの:
- 実存の問題、個の重要性、システムへの批判
どのように作用したか:
フランスの哲学界におけるキルケゴール受容(特にジャン・ヴァールの研究を通じて)がレヴィナスの思想形成に影響を与えた。キルケゴールの反システム的傾向や、ヘーゲルに対する批判的姿勢は、レヴィナス自身のヘーゲル批判と共鳴する。レヴィナスとキルケゴールの比較研究も多く行われており、両者ともに倫理と宗教の関係を重視している。
9. モーリス・メルロ=ポンティ(身体現象学)
受け取ったもの:
- 身体的知覚の現象学、間身体性、肉の概念
どのように作用したか:
レヴィナスの哲学は「身体的体現の拡大された概念」から始まり、メルロ=ポンティとの哲学的対話が見られる。メルロ=ポンティの「感性の層化された絡み合い」の概念が、レヴィナスの感性論に影響を与えている。
10. ジャック・デリダ(脱構築・差延)
受け取ったもの:
- 形而上学批判、差延の概念、テクスト性
どのように作用したか:
デリダとレヴィナスは相互に影響し合った同世代の思想家。デリダの『エクリチュールと差異』に収録された「暴力と形而上学」という論文がレヴィナスへの関心を拡大させた。両者は形而上学の伝統的枠組みを超える試みにおいて共通の関心を持ちつつ、倫理の位置づけについては異なる立場を取った。
レヴィナス思想の核心的概念
1. 倫理は「第一哲学」である
レヴィナスの有名な宣言:哲学の最初の問いは「存在はいかにあるか」ではなく、「他者にどう応答するか(倫理)」である。ここで「第一」とは時間的序列だけでなく原理的優先を意味する。存在や認識はまず他者との倫理的関係のあとに位置づく。
2. 顔(visage)=倫理的現象
「顔」は単なる表象ではない。顔は他者の無言の呼びかけであり、私に「殺すな」や「気にかけよ」と命じる存在論的な圧力(要求)である。顔は他者の「無限性(infinity)」を示し、私の自己中心的把握を超える。
3. 無限の要求と非計算性
他者の要求は計算や交換の論理に還元できない。義務は「条件付きの交換」ではなく無限であり、したがって倫理は正義や制度的ルールより先に立つ。ただし、これは制度を否定することを意味せず、倫理と政治(正義)の区別をはらむ。
4. 非対称性と代置(substitution)
応答責任は非対称的:他者は私に先立って責任を課し、私が応答する義務は相互性を前提しない。レヴィナスはさらに過激な言葉で「私は他者のために代わりになる(substitute)ことさえ要求される」と述べ、この「代置」は主体が他者のために犠牲を担う極端な形態を示す。ここには「自己が他者に奉仕される」という倫理的逆転がある。
5. 言葉(saying)と言説(said)
レヴィナスは「言うこと(saying)」と「言われたこと(said)」を区別し、倫理的暴露は「言うこと」の次元にあるとする。言うことは私を他者に開き、主体性を倫理的に生成する。既製の概念や命題(said)は他者の無限性を閉じてしまう危険がある。
6. 正義と制度の問題
個々の「顔」に対する応答は無限だが、社会的に生きるためには普遍化・配分の規則(正義)が必要になる。レヴィナスは倫理の優先性を保ちつつ、正義が倫理を「希薄化」させる危険にも注意を向ける。政治的次元は倫理の翻訳であり、両者の緊張が彼の思想の実践面を形成する。
批判的考察
力強い倫理優先の提案
レヴィナスは私たちを「他者の呼びかけに先んじて応答する存在」として再想像する。これは自分中心主義や功利主義に対する強烈なアンチテーゼである。倫理が「第一原理」であるという主張は、個人的実践や日常的倫理感覚に強い示唆を与える。
拡張の難しさ
無限の責任は個人にとって重荷であり、政治的・制度的レベルで「誰の顔に優先的に応答するか」を決める際に指針が不足する。グローバル化・抽象的な苦痛(難民、構造的暴力)にどう応答するか、顔の直接性に依拠するレヴィナス理論は実務上の指導力を失いやすい。
非対称性の倫理的帰結
他者への一方的献身は美しいが、それが他者の主体性や責任をどう扱うかは問題になる。無自覚な犠牲が自己否定や支配的関係を生む恐れもある(「応答する」ことがいつしか「支配する」手段にならないか)。
現代への適用
それでもレヴィナスは、個人主義・計算主義が支配する今の倫理に対して決定的な修正を提供する。法律・制度といかに折り合いをつけるかが実践上の課題であり、多くの現代思想家がそこに取り組んでいる。
詩的総括
「レヴィナスは、顔の前で私が慌ててボタンを掛け直すとき、その小さな動作が世界の重心をずらしうることを示してくれる。応答は理論ではなく、朝の目覚めに似ている——遅れてはならない呼びかけだ。」
参考文献・発展的研究
- 『全体性と無限』(Totalité et Infini)
- 『存在するとは別の仕方で』(Autrement qu’être)
- レヴィナスとデリダの論争
- 現代倫理への適用研究
Discussion