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問いを先回りする設計がもたらす「効率」と「代償」

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🪞導入:違和感の観察

会議中、ふと投げた問いに、こんな返答が返ってくる。

「その質問は、今の話題とは関係ない」
「それ、もう決まってますから」
「そっちはスコープ外ですね」

どれも形式としては正しい。プロジェクトを円滑に進めるうえで、こうした線引きは必要なものだ──と、頭ではわかっている。けれど、その瞬間、思考の芽がスッと摘まれる感覚がある。質問さえも「迷惑」になってしまう空気。

でも、スコープ外の要件も把握しておかないと、こっちの設計に跳ね返ってくること、あるんだよな。「その辺、聞いてなかったです」ってのが一番怖い。
それで手戻りが出るのは、誰だって避けたいはずなのに。

そう思っての質問さえ、「今それは必要ない」と扱われる。対話が「扱いに困るもの」として遠ざけられていく。それってつまり、「問いを開かせない」ことが、この場の“最適化”になっているってことじゃないか。

問いは、どこで終わらされるのか?

では、そもそも「問い」とは何なのか。
そして、それを「開かせない」構造とは何なのか。

問いとは、本来「まだ定義されていない関係」に光を当てる行為だ。
答えが見つからない領域、曖昧で、グレーで、見落とされやすい接続点。
そこに視線を向けること自体が、設計や判断の前提になることもある。

だが、教育を含む多くの制度は「問うこと」そのものを管理しようとする。

たとえば:

  • 何を問うべきか
  • いつ問うべきか
  • どこまで問えばよいか

その“枠組み”自体があらかじめ設定され、内側だけが安全に扱える領域とされる。

学校のテストはその象徴だ。

  • 「どんな問いが出るか」が事前にわかっていることが前提であり、
  • そこから外れる問いには評価が与えられない

それは、「問いの能力」ではなく、「問いの予測精度」を測っているということだ。

“問いの予測”がもたらす効率と、その代償

「問いの予測精度」を高めることには、制度運用上の明確なメリットがある。

たとえば:

  • 学力評価の標準化が可能になる
  • 教える側・学ぶ側双方の準備がしやすくなる
  • カリキュラムや試験範囲との整合性が取りやすい

一定のスコープ内で“正解に至る技術”を磨くには、予測可能な課題設定が必要になる──これは教育の設計としても理解できる。

だが、その前提が続く限り、失われるものもある。

  • 主題を自ら立てる能力の育成
  • 想定外の視点や関係性を拾う契機
  • 予測できない状況に耐える態度

予測精度が高いほど、「答えにたどり着く力」は測れても、「視点を変える力」や「何を問うべきかを見抜く力」は評価されにくくなる。制度は効率のために視座を固定し、設計は安全のために枠を囲う。そのなかで、検討軸を“開いたままにしておく”ことには、別の勇気と設計が求められる。

問いを開くべき場──設計と意思決定の現場において

ある種の場面では、課題の打ち切り自体が、目的に反する。

たとえば──

  • 前提となる状況が絶えず変化しているとき
  • 多様な価値観が衝突していて、単一の正解が立たないとき
  • 「何を問題とすべきか」から始めねばならない、定義の揺らいだプロジェクト

こうした環境では、テーマを開き続けることこそが、前に進むための設計となる。

たとえば、政治や政策形成の場。前提そのものが争点になり、「どこに焦点を当てるか」からして合意が難しいこともある。思考の幅を閉じてしまえば、誰かの現実が切り捨てられる。
組織の意思決定においても、安易に検討を打ち切ってしまうと、想定外のリスクや変化に対応できなくなる。

そうした環境では、構造を“生かし続ける設計”こそが、柔軟性と持続性の鍵になる。 そしてそれは、変化が激しく、複雑性の高い現代社会においては、単なる選択肢ではなく、生き延びるための必須技能なのかもしれない。

思考を閉じる環境だけが支配的になれば、社会は徐々に保守化し、既知の主題と答えだけが繰り返される構造になる。それは、未知に触れる力や価値を育む場を失うことにもつながっていく。

だからこそ、開き続ける場所は、必要なのだ。

結論:問いを終わらせない設計は可能か?

終わらせない設計とは、「その主導権が誰の手にあるのか」を手放さずに構造を保つことだ。

それは、唯一の正解を提示する枠組みではなく、仮説と検証を往復し続ける構造であり、主題そのものを更新し続けるための余白を持つ構えでもある。

答えにたどり着いたあとも、そこで終わらずに、その先を問うことをやめない。──その態度こそが、設計の中に組み込まれうる。

そして、構造をもっとも強く受け継ぐ場のひとつが「教育」だとすれば、そこにこそ、閉じない設計が求められるべきだ。

いま、教育が無意識のうちに「思考の終わり」を提供する構造になってしまっているとしたら、それは私たちが“未来を問う力”を手放しつつあるということかもしれない。

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