AI駆動の組織的知識創造:SECIモデルの新しい解釈
はじめに:AIが問う、組織の「知」の真価
現代は、AI技術の飛躍的な進化により、私たちの働き方、ビジネスモデル、そして組織のあり方が劇的に変化を遂げています。AIが特定の知識処理を高速化し、これまで人間が担ってきたタスクの一部を代替することで、「知識そのものの価値が低下するのではないか」という議論も存在します。しかし、むしろその逆です。AI時代において、組織が持続的に競争優位性を確立し、新たな価値を創造していくためには、「知識」そのものの重要性、そしてその創造と活用を「加速させる」ことの重要性が格段に増しています。
特に、個人の経験や勘に基づく「暗黙知」と、文書やデータとして共有される「形式知」の間のダイナミックな変換プロセスは、組織の成長を大きく左右する鍵となります。野中郁次郎氏が1990年代に提唱したSECIモデル(Socialization, Externalization, Combination, Internalization)は、この暗黙知と形式知の相互変換を通じて、組織知を創造していくプロセスを鮮やかに描き出しています。そして今、AI技術は、このSECIモデルの各フェーズにおいて、これまで想像もしなかったような新たな可能性を拓き始めています。
本稿では、AIがSECIモデルをどのように加速させ、組織の知識創造を次の段階へと押し上げるのか、その新境地について書きたいと思います。
AI時代にSECIモデルが重要性を増す理由
なぜ今、SECIモデルがAI時代においてその重要性を増しているのでしょうか。その理由は、AIが「形式知の処理能力」を飛躍的に高めたことにあります。これまで形式知の収集、分析、結合には膨大な時間と労力を要し、その限界が組織知創造のボトルネックとなることが少なくありませんでした。しかしAIは、この形式知の限界を押し広げ、暗黙知を形式知として抽出し、さらに形式知を再結合して新たな知識を生み出すプロセスを劇的に加速させます。
具体的には、以下のような点でSECIモデルの重要性が高まります。
- 暗黙知から形式知への抽出能力の劇的変化: AIは、これまで個人の経験や勘に依存し、言語化が困難だった暗黙知を、対話や非構造化データから効率的に抽出し、形式知として可視化する能力を持っています。これにより、組織全体の知識資産がこれまでになく迅速に蓄積され、活用可能になります。
- 知識の民主化と再配分: AIが暗黙知の形式知化を支援することで、特定の個人や部署に閉じられていた専門性の高い知識が、より多くの人々にアクセス可能な形式知として解放されます。これにより、知識が組織全体で広く共有され、活用されるようになります。
- フィーチャー化と境界線の融解: AIが多様な形式知を高速で処理し、連結する能力を持つことで、これまで専門家でなければ理解が難しかった異分野の知識が、AIを通じて誰もが理解しやすい形で提供されるようになります。これにより、職種や専門分野の境界が曖昧になり、多様なバックグラウンドを持つ人々が共通の知識基盤の上で協業しやすくなり、結果として、組織全体のイノベーション創出能力が向上します。
- 高次な暗黙知への昇華: AIが形式知の処理を効率化する一方で、人間はより高度な抽象思考や、複雑な状況判断、倫理的側面といった、AIが苦手とする領域に集中できるようになります。形式知の基盤が強化されることで、人間は一段と抽象度の高い暗黙知、すなわち「創造的な洞察」や「未来を予見する知恵」へと到達しやすくなるのです。
このように、AIはSECIモデルの各段階を強力に支援し、知の螺旋をこれまでになく迅速かつ大規模に展開させる触媒となるため、そのフレームワークの理解と適用が不可欠なのです。
SECIモデルとは:知の螺旋を紐解く
SECIモデルは、暗黙知(個人の経験や勘に基づく、言葉にできない知識)と形式知(言語やデータで表現され、共有可能な知識)の相互変換を通じて、組織全体の知識を創造・深化させていくプロセスを示します。具体的には、以下の4つのフェーズが螺旋状に繰り返されることで、知識が進化していきます。
- 共同化(Socialization): 個人の暗黙知を、他者の暗黙知と共有するフェーズ。経験の共有や共感を通じ、言葉にしにくい感覚やノウハウが伝わります。
- 表出化(Externalization): 暗黙知を形式知に変換するフェーズ。個人のノウハウや経験を、言語、図、モデルなどで概念化・明文化します。
- 連結化(Combination): 既存の形式知同士を組み合わせて、新たな形式知を創造するフェーズ。異なる情報の統合や、複数の報告書の結合などが該当します。
- 内面化(Internalization): 形式知を個人の暗黙知として取り込むフェーズ。マニュアルや研修で得た知識を、自身のスキルや経験として習得し、体得します。
これらのフェーズが連続的に繰り返され、組織の知識は深化し、新たな価値創造へと繋がる「知の螺旋」が駆動されるのです。
以下はGLOBIS 学び放題からの画像抜粋です。
SECIモデルの各フェーズ:AIがもたらす革新と生産性向上
AI技術は、このSECIモデルの各フェーズにおいて、これまで想像もしなかったような新たな可能性を拓き、組織の開発速度や生産性を飛躍的に向上させる可能性を秘めています。
1. 共同化(Socialization):縦から横への共同化の重要度の変化
共同化は、個人間の暗黙知を共有するプロセスです。AIは直接暗黙知を抽出できませんが、「人とAIの共創」を加速させ、多様な職能間の知の共有を促進します。
AIとのペアプログラミングシフトとフィーチャー化の加速
これまでエンジニア同士の「ペアプログラミング」は、コーディングの「勘所」や設計思想といった暗黙知を共有する有効な手段でした。エンジニアはすでに、人とのペアプログラミングからAIコーディングツールとの対話を通じたAIとのペアプログラミング、さらにはAIエージェント機能を通じたバイブコーディングへとシフトしています。これまで多くの時間をかけていたエンジニア同士での知識の共同化プロセスを企画担当者とエンジニア、あるいはエンジニアとデザイナーといったフィーチャー化された職能間のペアワークへと転換・加速させることが可能になってきています。
共同化におけるAIの役割は、これまでベテランと若手という縦ラインの知識の共同化文脈が強かったことから、職能を超える横の共同化の価値を高めることにあると言える状態へと移ってきていると言えます。
2. 表出化(Externalization):AIによる暗黙知の劇的加速と形式知の宝庫化
表出化は、暗黙知を概念化し形式知へと変換するプロセスです。このフェーズはAIとの親和性が高く、開発生産性の飛躍的な向上に直結します。
AIによる超効率的な抽象概念の抽出と形式知化
前提としてAIへのプロンプト作成自体が、思考の抽象化と形式知化を促す行為です。具体的なタスクをAIに指示するために、私たちは自身の持つ暗黙的な知識を言語化・体系化する必要があります。このプロセスを通じ、個人の暗黙知が明確な形式知へと昇華されます。特に、AIが示す様々な表現や論理構造は、私たちが自身の暗黙知を多角的に捉え、より洗練された形式知として表現するためのヒントを与えてくれます。
対話や非構造化データからの意味ある形式知抽出
これまで「ハウツー」といった暗黙知は形式知化が困難でした。しかし、DevinなどのサービスはGitHubなどの情報を扱いやすく可視化しましたし、大規模言語モデルは対話ログや既存ドキュメント(例:Slackの会話履歴)のような非構造化データから、意味ある抽象概念やパターンを抽出・形式知化できるようになりました。これにより、ログを単なる記録として扱うのではなく、そこから具体的なノウハウやナレッジを自動的に抽出し、組織の共有財産として蓄積することが可能となってきています。これまで「How」に眠っていた暗黙知が、AIによって容易に形式知として表出されるようになったと言えます。
このように、AIは個人の頭の中にある曖昧な知識を、より明確で共有しやすい形に「翻訳」し、組織の知識資産として明確に定着させる強力なツールとして機能します。
3. 連結化(Combination):形式知の新たな結合と加速するイノベーション
連結化は、既存の形式知同士を組み合わせて新たな形式知を創造するプロセスです。AIは、この連結化を質・量ともに飛躍的に向上させ、これまでにない知の融合を可能にし、画期的な新サービス創出の基盤となります。
形式知化した知識を通じた異業種・異分野知識の融合
形式知化された知識は、これまで専門家でなければ理解が難しかった他分野の知識を、AIを介して容易に連結します。AIが組織内外の膨大な形式知データを分析、可視化し、これまで困難であった異なる分野間の関連性や共通項を発見します。これは、異業種・異分野のナレッジを融合し、これまでにないイノベーションのアイデアや戦略的な洞察を生み出すことで、既存ビジネスモデルの刷新や、全く新しいサービスの創出に直結すると考えます。
フィーチャー化されたナレッジシェアとイノベーションの民主化
開発者間ではすでにCursor Rulesのようなベストプラクティスはが形式知化され、チーム全体に共有され活用されています。AI活用により、このような形式知化された抽象概念でのナレッジシェアが加速していくと考えます。すでにこれまでコードを書くことがなかったプロダクトマネージャーやQAエンジニアが、GitHubなどのコードリポジトリ情報から必要な知識を容易に抽出し、活用できるようにもなってきています。この傾向はさらに進み、将来的にはビジネスサイドやオペレーションサイドの人々が、技術的な知見を自らの業務に直接統合し、フィーチャー化された領域を越えたイノベーションを生み出す可能性を秘めています。
4. 内面化(Internalization):一層顧客体験価値が重要視される時代へ
内面化は、形式知を個人の暗黙知として習得し、自己のスキルや経験の一部とするプロセスです。AIは、この内面化を効率的かつパーソナライズされたものにすることで、個人の学習と成長を強力に支援し、「一段上のレベルの暗黙知」 へと到達させます。
内面化における「顧客体験」の重要性の高まり
AIによって形式知の学習効率は飛躍的に向上しますが、真の「内面化」には、やはり物理世界での「顧客体験」 が不可欠です。従来のSECIモデルでは製造プロセスの視点が強かったですが、AI時代は、顧客やユーザーといった「受け手」側がサービスを体験し、そこから得られる暗黙知をいかに内面化していくかが重要になります。AIが苦手とするのは、物理世界での五感を通じた体験や、人と人との直接的な対話から生まれる感情や共感です。生産性が向上し、AIと向き合う時間が増える一方で、人間同士が物理世界で対話し、サービスを実際に利用する中で得られる感覚や「気づき」を深く内面化する機会を意図的に創出することが、次の知の螺旋を駆動する鍵となります。
AI時代におけるSECIモデル活用の留意点
AIがSECIモデルを加速させる強力なツールである一方、その活用にはいくつかの留意点があります。
- 「人」の役割の再定義: AIはあくまでツールであり、そのアウトプットの評価、意味付け、倫理的判断、そして次の行動への接続は人間の役割です。AIに全てを委ねず、共感力、問いを立てる力、批判的思考力、創造性といった人間ならではの能力を磨き、AIと協働する「知のプロデューサー」としての役割がますます重要になります。
- 情報の品質とバイアス: AIが形式知を扱う上で、入力される情報の品質とバイアスは結果に大きく影響します。誤った情報や偏ったデータが入力されると、AIが生成する知識も不正確なものとなります。情報の収集、精査、AIの学習データ管理には、これまで以上の注意が必要です。
- セキュリティとプライバシー: 暗黙知の形式知化や形式知の連結化においては、機密情報や個人情報の取り扱いに細心の注意を払う必要があります。AIシステムにおけるセキュリティ対策とプライバシー保護の枠組みを確実に構築することが不可欠です。
- 過度な形式知化への警戒: 暗黙知を全て形式知化しようとすることは、知識の本質的な価値を損なう可能性があります。言語化できない「勘」や「センス」といった部分は、暗黙知のままで共有されるべき場合もあります。AIの活用は、形式知化と暗黙知のバランスを考慮しながら進めるべきです。
これらの留意点を踏まえ、戦略的にAIをSECIモデルに統合していくことが、真に持続可能な知識創造を実現するための鍵となります。
まとめ
AIは、SECIモデルが描く知の螺旋を、より速く、より高く、より広範囲に展開させる強力な触媒です。 暗黙知の共有促進、形式知化の加速、既存形式知の新たな連結、そして個人の内面化の深化。この一連のプロセスにおいてAIは、私たち人間が知識を創造し、活用する方法を根本から変えようとしています。
我々としてはこのAI時代のSECIモデルの可能性を深く理解し、自社の知識創造プロセスに積極的にAIを組み込んでいくことが強く求められます。単に最新技術を導入するだけでなく、組織文化、人材育成、そしてナレッジマネジメントの戦略全体を再考する視点 が不可欠となってきています。
AIツールが多数出てきている昨今、最新のトレンドに振り回されるのでなく組織の中の知の創造を高めるあり方をぜひみなさんでぜひ考えて行きましょう。
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