『ホモ・ルーデンス』とアナログゲームに見る「純粋な遊び」の価値
ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を手がかりに、アナログゲーム(ボードゲームやカードゲームなど)が「純粋な遊び」の本質をいかに体現・保持しやすいかを論じる。
21世紀のビデオゲームは、オンライン対戦やeスポーツ、ストリーミングなどの普及により、競技性・商業性が顕在化し、「真面目」の色を帯びつつある。一方、ボードゲームやカードゲームをはじめとするアナログゲームは、近年再評価され、ボードゲームカフェや同人イベントなどを通じて多様な愛好者を引きつけている。このようにデジタル技術が加速する時代にあって、なぜ「手作り感」のあるアナログゲームが改めて評価されているのか。
本稿では、文化史家ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga, 1872–1945)が名著『ホモ・ルーデンス(Homo Ludens)』において提唱した「遊びの本質」や「真面目さの浸食」に着目する。ホイジンガは「競技化や利害を伴う社会的機能が強まるほど、遊び本来の自由で自発的な性質が失われやすい」と警告したが、ビデオゲームが巨大産業化する一方で、アナログゲームにはより「純粋な遊び」の姿が残されやすい構造的な理由があると考えられる。
具体的には、(1) 対面のコミュニケーション、(2) ルールのゆるさ、(3) コンポーネントの原始性、(4) 競技化の限界といった要因が、アナログゲームを「遊びの魔法円(magic circle)」の内にとどめやすくしているのではないかと仮説する。
本稿ではまずホイジンガの理論を概観し、ビデオゲームの競技化による変容を踏まえた上で、アナログゲームのもつ独自の文化的・社会的価値を再考してみる。
2. ホイジンガの「遊び」概念について
2.1 ホイジンガが示した「遊び」の定義
ホイジンガは著書『ホモ・ルーデンス』の中で、遊びを以下のような特徴的要素によって定義している。
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自由な行為
遊びは強制ではなく自発的に参加するものである。 -
日常生活とは異なる秩序空間(魔法円)
遊びはしばしば特定の場所・時間に区切られた「聖域」を形成し、そこでの出来事は日常の利害や道徳規範から一時的に離脱する。 -
自己目的性
遊ぶこと自体が目的であり、報酬や功利的な利益を外部に求めない。 -
ルール
遊びには一定の約束事があり、その枠組みを受け入れ、守ることによってプレイヤーたちは「遊びの魔法円」を共有する。 -
緊張と歓喜
遊びは不確定要素や偶然、競争などによって生じる高揚感を伴う。
しかし同時にホイジンガは、遊びが社会的に競技化・制度化されるほど、その外側からの圧力や評価が入り込みやすくなると指摘する。たとえばオリンピックのように国家的・政治的な利害や巨大スポンサーが介在すると、元来の「自由で自発的な楽しみ」とは異なる要素が台頭しやすい。
これを彼は「遊びの真面目化」と呼び、競争やルールの厳密化が進むにつれて、遊びが遊びでなくなる危険を示唆している。
2.2 ビデオゲームと「真面目さ」の台頭
ホイジンガが生きた時代には想定されていなかったが、現代ではビデオゲームがまさに「真面目化」へ向かっているといえるのではないか。
オンライン対戦やeスポーツの普及によって、勝敗やランキング、賞金など、いわば外部化された指標が重視され、そこに大規模な資本や視聴者の期待が集まることで、プレイに徹底した効率性や成果志向が入り込みやすい。
結果として、「純粋な遊びの魔法円」が広範な商業主義・競技主義に取り込まれやすい構造が生まれてくるのである。
3. 「純粋な遊び」を保持するアナログゲームの特徴
3.1 対面のコミュニケーション
(1) 対話のマルチモーダル性が生む「一体感」
アナログゲームの最大の特長は、同じテーブルを囲んでプレイヤー全員がリアルタイムで相互作用を行う点である。社会学者アーヴィング・ゴッフマン(Erving Goffman)は、人々が実際に対面する場で交わす「相互行為」には、言語情報だけでなく沈黙や視線、身体の向きといった微妙なシグナルが多数含まれることを指摘した。
たとえば、ボードゲームでは相手の表情から意図や感情を推察したり、「ここは攻めないでおこう」といった直接の交渉や裏取引が発生したりする。これらは単にゲームの勝敗を左右する戦略面だけでなく、人間的な感情のやり取りとしての楽しさを高めてくれる。
オンラインゲームでもボイスチャットやテキストチャットは可能だが、同じ空間で顔を突き合わせることで生じる「一体感」や「場の空気感」には、より濃密なコミュニケーションが含まれる。
(2) 共同体験としての非日常の場づくり
アナログゲームは少人数で物理的空間を共有することで、一緒に遊んだ思い出を作り出しやすい。ソーシャルゲームやオンラインゲームにおいても協力プレイやギルド活動による連帯感は存在するが、やはり「同じテーブルを囲む」「同じカードやコマを実際に触る」という行為は、そこで生じる視覚・触覚・聴覚を共有するという意味で、プレイヤー同士の結束を強くする。
このように「顔を合わせてプレイする形式」は、ホイジンガの言う「遊びの魔法円」を守る上で有効に機能している。すなわち、プレイヤー全員が身体的に没入し、お互いをリアルに感じながら遊びを共有するため、「日常の利害関係から離れた特別な場」が生じやすいのである。
3.2 ルールのゆるさ
(1) 多様なハウスルール
ビデオゲームの場合、プログラムとして定義されたルールをユーザーが変更するには、チートや改造と呼ばれる技術的手段を要し、一般的には忌避されがちである。一方、アナログゲームでは、プレイヤー同士の合意さえあればルールに追加や修正を行う「ハウスルール」が簡単に導入できる。
たとえば、世界中で親しまれている『モノポリー』にも、家ごとに「フリーパーキングに税金を貯めて、止まった人がもらえる」などのローカルルールが存在する。こうした柔軟性は、ホイジンガの指摘する「外部の利害や厳格化」による制約から解放されやすく、プレイヤー主体で遊びの環境を再構築できる余地を保っているといえる。
(2) 場に合わせたルールアレンジ
人数や時間、参加者の年齢層などに応じて、アナログゲームは「簡略版で遊ぶ」「このカードは今回は使わない」など、柔軟にアレンジされるケースが多い。これはビデオゲームの固定化されたバージョンとは異なり、常に「ここにいるメンバー」で「今この場に合うルール」を再定義しながら遊ぶ行為である。
このような「自分たちなりの遊び方を話し合いながら決める」という過程そのものが、ホイジンガが強調する遊びの自発性を具現化している。すなわち、遊ぶ目的や方法が外部から強制されるのではなく、ゲームをプレイする人々が能動的に作り上げるという点で、アナログゲームは「魔法円」を維持しやすい土壌を持っている。
3.3 コンポーネントの原始性
(1) 五感を使った没入感
アナログゲームは、コマやサイコロ、カードといった物理的な道具(コンポーネント)を直接扱う。サイコロを振る瞬間の期待や、カードをめくる際の緊張感は、手触りや音などの感覚情報がプレイヤーの身体を通してリアルタイムに伝わるため、強い没入感を生む。
こうした身体感覚は、人間の「道具を操作する楽しさ」を喚起し、その操作ひとつひとつに意味を持たせる。ホイジンガが言うところの「日常とは異なる秩序空間」において、自分の手でゲーム空間を動かしているという実感が、ゲーム体験をより深いものにしている。
(2) 道具の抽象度が生む豊かな解釈
アナログゲームのコンポーネントは、しばしばシンプルな図やシンボル、木製コマなど、抽象度が高いものが多い。これにより、プレイヤーは各自のイメージを重ね合わせたり、物語的な解釈を膨らませる余地を多く残されている。
一方、ビデオゲームはグラフィックやサウンドを高い解像度で描写し尽くすため、プレイヤーの想像力に委ねる部分が相対的に少なくなる傾向にある。アナログゲームにおける解釈の余白は、遊び手一人ひとりが自由に想像を働かせる機会を増やし、「自発的・創造的な遊び」を育む。これもまたホイジンガの語る「魔法円」の密度を高める要因となる。
3.4 競技化の限界
(1) 大規模資本や産業との結びつきの弱さ
アナログゲームでも大会やコンペティションは存在するが、ビデオゲームほどの巨大な市場規模やメディア露出が得にくい。
そのため、プロ化や高額賞金を伴うようなイベントはごく限られており、多くのプレイヤーは純粋に「遊びたいから遊ぶ」というスタンスを崩しにくい。競争に特化した一部のゲーム――たとえば『マジック:ザ・ギャザリング』の公式大会など――があるにせよ、全体の規模としてはまだビデオゲームのeスポーツと比べて小さい。
(2) コミュニティ主導の文化と対面性
アナログゲームの大会やイベントは、多くの場合地域コミュニティや愛好者サークルを中心として手作り感のある形で運営される。大会ルールの整備や審判、運営管理も人間の目と手によって行われるため、大がかりなシステム化や資本投下が起こりにくい。対面でプレイすること自体がアナログゲームの大きな楽しみであるため、大会観戦や配信を大規模に行うインセンティブが小さく、「真面目さ」や「成果主義」の入り込む余地が限定的となる。
こうした構造上の制約が、逆説的にアナログゲームを「純粋な遊び」のかたちで残す原動力になっている。すなわち、ホイジンガの言う「自己目的性」を脅かす外部評価や大衆メディアの注目度が低いため、コミュニティ内部でゆるやかにルールや遊び方を調整しながら楽しむ余地を失わずにいられるのである。
まとめ - デジタル時代におけるアナログゲームの可能性
以上に見てきたように、アナログゲームは
- 対面のコミュニケーション
- ルールのゆるさ
- コンポーネントの原始性
- 競技化の限界
といった側面によって、ホイジンガの「遊びの魔法円」を守りやすい。これをビデオゲームと対比すると、ビデオゲームが急激に外部利害や大規模資本、観客動員などを取り込み、「真面目」な競技や産業として確立されてきたのに対し、アナログゲームはより地域コミュニティ的で、自由で自己目的的な遊びを維持しやすいのである。
ただし、これはビデオゲームの価値を一方的に否定するものではない。ビデオゲームには没入感の高いストーリーテリングや大人数による協力・対戦プレイといった魅力があり、デジタル技術の進歩を活用した新たな遊びのかたちも生まれている。しかし一方で、「結果」や「評価」を過度に重視するあまり、純粋な遊びの楽しさが失われるリスクがある点は、まさにホイジンガの警鐘に通ずる課題といえよう。
現代社会においては、ビデオゲームとアナログゲームが「競合」するのではなく、互いに補完し合う形で多様な楽しみを提供しているという捉え方が適切であろう。とりわけ、身体的な親密さやコミュニケーション重視の体験を求める人々にとって、アナログゲームは「真面目の要素に浸食されすぎない遊びの尊厳」を再認識させるメディアとして機能している。
その意味で、デジタル時代だからこそアナログゲームが見直され、ボードゲームカフェや同人イベントで盛り上がる現象は、ホイジンガの理論を裏付ける一例といえるだろう。
※アナログゲームの祭典『ゲームマーケット』2024秋の様子
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