古代日本における技術世界の形成
飛騨匠の物語
葛飾北斎『飛騨匠物語 挿絵』(1808)
江戸後期に刊行された石川雅望による『飛騨匠物語』(1808)は、架空の技術者である猪名部墨縄(いなべのすみなわ)を主人公とした伝奇物語であり、葛飾北斎による挿絵とともに、日本のSF小説の先駆のひとつとして名高い[1]。この飛騨匠(ひだのたくみ)というのは飛騨工とも書き、その名のとおり飛騨を出身とする工人を指す言葉であるが、古来より優れた工人の代名詞でもあった。その初出は757年に施行された養老律令であり、国々に課せられた租税の項をみると、飛騨国では50戸につき10人が工人として都で賦役させられたことが記されている。したがって、そのころには飛騨の工人の技能は都にまで知られるようになっていたと思われる。8世紀後半に成立した『万葉集』にも「かにかくに 物は思はじ 飛騨人の 打つ墨縄の ただ一道に」という歌が収録されており、墨縄というのは大工が線を引くのに用いる道具のことだから、これも飛騨の工人を讃えた歌であった[2]。また、928年の『延喜式』においても毎年100人もの工人の賦役が明記されており、その後も飛騨の工人たちは数限りない建築群に携わっていくのだが、そのような歴史的事実と並行して、飛騨匠の技能は次第に伝説化して語られるようになっていく。その代表的な説話には、『今昔物語集』の巻二十四に収録された「百済川成が飛弾の工に挑んだ話」がある。そのあらましは次のとおりだ。
むかし百済川成という絵の名人がおり、それに並ぶ名声を持つ大工として飛弾の工がいた。ある日、飛弾の工は川成を驚かそうと考えて、みずから建てたお堂に川成を招く。そのお堂には四方に出入り口があるのだが、階段を登って扉の前に立つと、その扉は閉まってしまい、他の三面の扉が開く。そこで他の方角に回ってみても、登った先の扉は閉じて、他の扉が開いてしまうという、どうしても中に入れないからくり屋敷であった。この仕掛けにすっかり驚かされて、歯噛みする川成であったが、この画人も負けたままではいられない。今度は川成がおそろしい幽霊の絵をえがいて飛騨の工を驚かせ、仕返しするのであった[3]。
葛飾北斎『飛騨の匠、百済人と芸道をくらべあらそふ所』(1808)
百済川成は9世紀に実在した人で、今昔物語集は平安時代末期の12世紀中葉に成立したとみられている。ここに登場するからくり屋敷は荒唐無稽とは言いきれないから、説話の史実性は微妙なところだが、こういった話が親しまれるほどには、飛騨匠の技能は広く知れ渡っていたことには間違いない。もちろんこのような伝説的技術者の伝承は、ギリシャにおけるダイダロスや、中国における魯班をはじめとして世界中で語られるところである。とはいえ、歴史のなかにおける技術者とは政治家や軍人に比しては脇役であり、その数少ない類話は古代の技術者の生きざまを現代に伝えるうえで貴重である。そのようなことだから、ここではいくつかの説話に現れる技術者たちの姿を読み解くことによって、古代日本の技術者のありかたを想像してみたい。
闘鶏御田
『日本書紀』は720年に成立した日本最古の正史であり、その巻十四の雄略天皇紀には闘鶏御田(つげのみた)と猪名部真根(いなべのまね)というふたりの工人が登場する。雄略天皇は5世紀頃の天皇と考えられ、帝位のために肉親を抹殺して暴政を敷いた、日本古代史でも類をみない血塗られた王として高名である。そして闘鶏御田と猪名部真根の挿話も、雄略のおそろしさを知らしめる逸話のひとつではあるものの、ふしぎなことに、いずれもいささか滑稽な色彩を帯びている。
雄略帝の疑い
まずはじめに闘鶏御田のくだりをみていこう。
冬十月十日、天皇は木匠の闘鶏御田に命ぜられて、楼閣を造らせられた。このとき御田は高殿に上って、あちらこちらと飛ぶように働いた。これを仰ぎみた伊勢の采女が、彼の速さに驚いて庭に倒れ、捧げもっていたお供え物をひっくり返した。天皇は御田が采女を犯したと疑って、殺そうと思われ、刑吏に渡された。
ここで御田はいわゆる鳶職としての働きぶりから、采女(女官)を見惚れさせている。鳶職は現在でも「現場の華」と評される見事な仕事であるから無理もないことだが、あろうことか雄略帝は女官への姦通を疑い、御田の処刑を命じてしまうのであった。もちろん話はここで終わらない。そこへ秦酒公(はたのさけのきみ)なる廷臣があゆみでて、琴を鳴らしながら、次のように歌いはじめる。
伊勢の国の、伊勢の野に、生い栄えた木の枝を、たくさん打ちかいて、それが尽きるまでも、大君にかたくお仕えしようと、自分の命もどうか長くあれかしといっていた工匠は、何と惜しいことよ。
酒公の歌に感じ入った帝は考えをあらため、御田を許したという[4]。さて、この話から読みとれることは、雄略帝の気まぐれと暴虐だけではない。闘鶏御田という一人の工人を通じて、様々なことが見えてくる。
闘鶏と飛騨の山人
闘鶏氏は現在の奈良県北東部の笠置山地に位置する闘鶏国(つげのくに)を治めた氏族であり、『日本書紀』巻十一の仁徳天皇紀には闘鶏大山主(つげのおおやまぬし)という人の名がみえる[5]。闘鶏御田もその一族の出と考えられるが、秦酒公が歌っているように伊勢国を拠点とした工匠であったようだ。伊勢と闘鶏は木津川で繋がっており、闘鶏は山里であるから、木材の産出地として商路が結ばれていたと考えられる。古代の宮殿はいずれも木造であり、その建設には膨大な木材を必要とする。そのようなことだから、山の木材を管理する杣人たちと大工に深い結びつきがあったことは、民俗学者の宮本常一が『山に生きる人びと』のなかで指摘しているとおりである[6]。御田も同様に、木材の流通をつうじて大工として身をたてることになったのではないだろうか。
ところが、ここで一筋縄にはいかない事情がある。平安期に入ると貴族のあいだで『日本書紀』の講釈が広く行われるようになるのだが、そこで葛井清鑒なる人が943年に詠んだ歌に「琴の音の あはれなればや 天皇君 飛騨の匠の 罪をゆるせる」がある[7]。これは先に紹介した雄略帝のくだりを歌ったものだが、ここでは御田はなぜか「飛騨の匠」となっている。これは一体どういうことだろうか。先に述べたように、御田は闘鶏あるいは伊勢の人であるから、ふつう考えると飛騨匠とは言えない。これは、御田が実際に飛騨で修行した工匠であったというよりも、後世に飛騨匠の名声が高まってから、古代の名工である御田を飛騨匠に重ね合わせたと考えるのが自然だろう。とはいえ、飛騨には闘鶏楽(とうけいらく)という神事が古くから伝えられており、そのはじまりは明らかではないが、これを古来より闘鶏と飛騨のあいだに技術的な交流があった証拠と考えることもできるかもしれない。
余談となるが、『日本書紀』のなかで闘鶏大山主のくだりに続いて記されているのが、飛騨を支配した奇怪な人物、両面宿儺の逸話である。宿儺は二つの顔と四つの腕を持つ大男であり、仁徳帝の命により難波根子武振熊(なにわのねこたけふるくま)に誅殺されたという[8]。大山主と宿儺の話は並んで記されているから、読む人によっては闘鶏と飛騨を混同したり、両者に連続性を抱いたとしても不思議ではない。そして、闘鶏の山人のイメージと、飛騨の山中に潜む容貌怪異の宿儺のイメージが重なりあって、闘鶏御田と飛騨匠が習合し、その神秘性を高めていったという推察もできるだろう。
猪名部真根
続いて猪名部真根をみていこう。真根は先に述べたように『日本書紀』巻十四の雄略天皇紀に登場する工人で、『飛騨匠物語』の主人公である猪名部墨縄のモデルとも考えられている。さて、真根はどのような人物であったのか。
女体に手元を狂わす
『日本書紀』の記載は次のとおりである。
秋九月、工匠の猪名部真根が、石を台にして斧で材を削っていた。終日削っても、誤って刀をつぶすことがなかった。天皇がそこにおいでになり、怪しんで問われ、「いつも誤って石にあてることがないのか」といわれた。真根は「決して誤ることはありません」といった。そこで天皇は采女を召し集めて、着物を脱いで、ふんどしをつけさせ、皆の前で相撲をとらせた。真根は少し手を休め、そこから仰ぎ見ながら削った。覚えず気を奪われ、斧を台石にあてて刃を傷つけた。すると天皇は責めて、「どこの奴だ。朕を恐れず、不貞の心の奴が、妄りに軽々しいことをいって」といわれた。刑吏に渡し、野で処刑しようとされた。[9]
以上のように真根も雄略帝によって処刑されそうになるのだが、このあとは闘鶏御田と同様に、歌によって救われることとなっている。このように真根と御田の立場はたいへんよく似ているが、ひとつ大きな違いもある。御田の闘鶏氏は、山中に古来より土着する豪族の後裔と考えられる。それに対して真根の属する猪名部氏は、大和朝廷の黎明期に朝鮮半島より渡ってきた、渡来人の家系であることだ。
渡来人技師の系譜
猪名部氏の出自については、『日本書紀』巻十の応神天皇紀に記載がある。それによると、応神帝の御代のおり、現在の尼崎にあたる武庫の港に五百隻の船が停留していたとき、朝鮮半島の小国であった新羅の船から失火し、多数の船が焼け落ちてしまったという。そこで新羅王は補償のために工匠の一団を日本に送るのだが、それが猪名部氏の祖先である[10]。つまり猪名部氏は、造船を営む工匠の集団からはじまっており、雄略朝の真根がなにを造っていたのかを文脈からは読みとれないものの、のちの『続日本紀』(797)には東大寺の建設に従事した人のなかに猪名部百世(いなべのももよ)という人の名が見えるように、猪名部氏は寺院や宮殿の建築にも従事していたようだ[11]。
このように、猪名部氏をはじめとする渡来人技術者は、初期大和朝廷の発展において重要な役割を担っていたと思われる。そのなかでも著名なのは秦(はた)氏で、同じく『日本書紀』の応神天皇紀のなかで来朝が描かれた百済人、弓月君を祖先とする[12]。ハタという言葉には畑、機などの字もあてられるが、それは宮本常一が『絵巻物に見る日本庶民生活誌』で述べているように、秦氏が畑作りや機織りの技術を担ってきたことに由来するものと思われる[13]。そして仏教伝来にともなって大陸との往来が盛んになってくると、崇峻朝には太良未太、文賈古子、白昧淳、麻奈文奴、陽貴文、㥄貴文、昔麻帝弥といった寺院建築工が渡来し法興寺を建立したという記載があるほか[14]、推古朝には土木技師の路子工(みちこのたくみ)が渡来している[15]。彼ら渡来系技師の動向を詳記するとたいへん長くなってしまうため深追いは避けるが、闘鶏御田に代表される土着系技師と、猪名部真根ら渡来系技師の技術の混交のなかで、古代日本の技術は成熟していったと思われる。
野見宿禰
月岡芳年『当麻蹴速と角力を取る野見宿禰』(1886)
最後に野見宿禰(のみのすくね)について触れておきたい。野見宿禰は垂仁朝の人物で、無双の豪傑であった当麻蹴速を踏み殺し、相撲の祖となった力士として著名であるから、あらたまった説明は不要だろう。だが、野見宿禰にはあまり知られていないもうひとつの功績がある。それは「ハニワ」を発明したことだ。
ハニワ(東京国立博物館 所蔵)
ここでふたたび『日本書記』の記載を見ていこう。垂仁帝の皇后である日葉酢媛命が亡くなったときのことである。古来より、高貴な人が亡くなった際には多くの人が生きたまま埋め立てられ、殉死することとなっていた。帝はこれを憐れみ、古風と断じてやめさせようとするのだが、そこで妙案を献じたのが野見宿禰であった。宿禰は、生きた人の代わりに土の人形をこしらえて、それを墓に納めることで殉死を防ごうと考えた。これがハニワのはじまりである。帝はこれを褒めたたえて宿禰に土師(はじ)の姓を与え、その一族が天皇の喪を司るように定めたという[16]。このようにして宿禰は土師氏の祖となったのだが、土師氏はハニワだけでなく古墳の造営を代々担っており、巨大な土木技術者集団を築いていったと思われる。そしてその後裔は菅原道真を輩出した菅原氏や、大江匡房に代表される大江氏に分岐し、古代日本の知識層を形成していくのである。
終わりになるが、ここまで長々と記してきたように、飛鳥時代以前の故事に目を通すだけでも多様な技術者集団が存在し、相互に影響しあっていることがわかる。したがって、ひとつの線に繋がる明瞭な技術史を想像することは困難だが、ここで簡単に私見を述べてみたい。古代日本では土着系技師と渡来系技師の交わりあいのなかで発展したことは先に書いたとおりだが、それは水面に絵の具を垂らしたときのように一様に混交したものとは考えられない。渡来の技術が伝承され、それを朝廷が推進しようとしたとしても、すでに無数の土着系技師がいた。そのようなことだから、彼らが渡来の技術を知識のうえで学んだとしても、手業にいたっては父祖から学んだままであったはずだ。したがって、知識としての渡来系技能と、手業としての土着系技能というねじれのなかで、日本独自の技術世界が育っていったと思われる。具体的にそれは神社建築などの産物や、民間尺などのならわしとしてあらわれていくのだが、私にはまだ不明な部分も多いから、本論はこのあたりにとどめておきたいと思う。
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六樹園 著, 須永朝彦 訳『現代語訳・江戸の伝奇小説〈3〉飛騨匠物語・絵本玉藻譚』2002, 国書刊行会 ↩︎
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佐竹昭広ほか 校注『万葉集(三) (岩波文庫)』2014, 岩波書店, pp306 ↩︎
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武石彰夫 訳『今昔物語集 本朝世俗篇(上)全現代語訳 (講談社学術文庫)』2016, 講談社, pp122-125 ↩︎
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宇治谷孟 訳『日本書紀(上)全現代語訳(講談社学術文庫)』1988, 講談社, pp303-304 ↩︎
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宇治谷孟 訳, 前掲書, pp249 ↩︎
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宮本常一『山に生きる人びと(河出文庫)』2011, 河出書房新社, pp78 ↩︎
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塙保己一, 太田藤四郎 編『続群書類従 第15輯上 和歌部』1924, 続群書類従完成会, pp63 ↩︎
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宇治谷孟 訳, 前掲書, pp249 ↩︎
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宇治谷孟 訳, 前掲書, pp305 ↩︎
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宇治谷孟 訳, 前掲書, pp222 ↩︎
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宇治谷孟 訳『続日本紀(中)全現代語訳(講談社学術文庫)』1992, 講談社, pp396 ↩︎
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宇治谷孟 訳『日本書紀(上)全現代語訳(講談社学術文庫)』1988, 講談社, pp217 ↩︎
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宮本常一『絵巻物に見る日本庶民生活誌(中公新書)』1981, 中央公論新社, pp67 ↩︎
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宇治谷孟 訳『日本書紀(下)全現代語訳(講談社学術文庫)』1988, 講談社, pp82 ↩︎
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宇治谷孟 訳, 前掲書, pp106 ↩︎
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宇治谷孟 訳『日本書紀(上)全現代語訳(講談社学術文庫)』1988, 講談社, pp145-147 ↩︎
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