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技術者倫理の起こり

2024/07/17に公開

誰もが名乗れるエンジニアという職業

エンジニアの経歴や学歴は、ときおり話題になることである。ソフトウェアエンジニアに限っていうと、わずかな訓練でエンジニアになれると謳うプログラミングスクールは数多く、求人サイトの広告には「未経験からエンジニアへ」との文言が踊っている。言ってしまえば、誰もがエンジニアと名乗れる状況なのである。このことは、おしなべて良いことである。経歴を問わずそれなりの努力をすれば、エンジニアという「魅力ある」職業を志すことができる。実際、ソフトウェア開発の現場では、異業種での経歴を持つ人は少なくない。むしろそのような人の中にこそ、先端の技術に意欲的に取り組んでいる人が多く見られるのである。多様な経験と多様な立場が折り重なって、良いプロダクトが生まれる。そのようにして、現代のソフトウェア開発現場は成り立っている。

他方、ソフトウェアエンジニアリングの現場で、非道徳的なふるまいが見られることがある。これもソフトウェアエンジニアの稼ぎの良さと働きやすさが強調されたうえ、簡易なキャリアパスが広がった結果のひとつかもしれない。私は過去に、前職の企業のサーバーに未だログインできることを自慢するエンジニアと話したことがある。このような人は、おそらく珍しくもないのである。現在、ソフトウェアの影響力はかつてなく大きくなり、その開発者は大きな責任を負っている。実際、大規模なプロダクトの障害、クラッキング、個人情報流出事件が日々紙面を騒がせている。またデザインの分野では、認知心理学を悪用して操作を誘導する「ダークパターン」の存在が知られるようになってきた。たしかに、これに対する取り組みは「コンプライアンス」や「セキュリティ」、あるいは「リスクマネジメント」という職責として敷衍してはいる。他方で私が思うのは、まず一人一人のエンジニアが、技術者としての倫理的な心構え、つまり技術者倫理を知ることが肝要なのではないかということである。

私自身、高校と大学で技術者倫理をいくらか学んできた。興味はなかったが、必修科目だったためである。しかし今になってふりかえってみると、そこで学んだことが自身の職業観に深く根を下ろしていることに気づく。少なくとも私にとっては、有益な学びであった。しかし現場に出てみると、技術者倫理を学ぶ機会ははなはだ少ない。エンジニアの責任の重みは、災いが起きてから気づくものだが、それに対する心理的な備えはほとんど無いのが現状である。エンジニアを雇う企業にしても、エンジニア自身にしても、「自己責任」という標語のもとに放り出されているのだ。
そこで私は、現代のソフトウェアエンジニアに求められる技術者倫理のあり方を、手の届く範囲で書き連ねていきたい。その第1回として、技術者倫理のはじまりを見ていこう。

ダイダロスの翼


ジェイコブ・ピーター・ゴーウィ『イカロスの墜落』1635年頃

技術者倫理の古い考え方は、世界各地に伝わる神話や伝承のなかに現れる。ギリシア神話に登場する技術者、ダイダロスの物語はその代表的なものである。それは次のようなものだ。

古代ローマの著述家であるヒュギーヌスとアポロドーロスの伝えるところ、ダイダロスは女神アテーネーから職人の技術を教わったという。ダイダロスにはペルディクスという甥がいた。ペルディクスは若くして技術の才能を示し、のこぎりを発明したという。しかしペルディクスの才能をねたんだダイダロスは、ペルディクスを高い屋根から突き落として殺害した。当然のこと、ダイダロスは女神の怒りを買い、故郷アテーナイから追放される。そしてクレータ島へ渡り、ミーノース王に仕えることになる。
ダイダロスはミーノース王のもとでクノッソス宮殿の建設などに携わるが、王から疎まれて迷宮ラビュリントスに息子のイーカロスとともに幽閉されることとなった。ラビュリントスはダイダロスが建設したものであるが、彼自身が抜け出せないほど複雑な迷宮だったそうである。そこでダイダロスとイーカロスは王妃パーシパエーの力を借りてラビュリントスを脱出すると、ロウで作り上げた翼を身につけ、クレータ島から飛び去った。しかしそこで悲劇が訪れる。イーカロスは空を飛ぶのに夢中になり、父親の忠告を忘れて空高く舞い上がっていった。するとロウで固められた翼は溶けて崩れ去り、イカロスは墜落して命を落としてしまうのである[1][2]

この悲劇は詩人オウディウスもその叙事詩『変身物語』に詠っており、広く知られるところである[3]。技術者ダイダロスの物語は紀元前16世紀頃から語られはじめ、いくつかの変遷を経て以上のようなかたちにまとまったと考えられる。もちろん、古代の技術が現代人からしても目を見張るものであったとしても、このような伝説が事実であるとは考え難い。もともとは、古の人々が鳴らした警句が寄り集まって、ダイダロスという架空の技術者の名に託したものであろう。とはいえこの物語は、いまもなお学びの多いものである。ダイダロスの息子イーカロスは、技術の力を見誤って若い命を散らす。技術への過信、技術がもたらす驕り高ぶりが、そうさせたのである。そしてもう一人、ペルディクスもイーカロスと同じく高くから落ちて死ぬのだが、あろうことか、その技能を妬んだ叔父に殺害されている。イーカロスとペルディクスという二人の若者の死は、いずれもダイダロスと技術との関わりから出て、二人の若者だけでなく、ダイダロス自身を苦しめたのであった。そして程度の多寡はあれ、現代の技術者も同じように、ダイダロスの罪と誘惑に脅かされている。

ヒポクラテスの誓い


ジロデ=トリオゾン『アルタクセルクセスの贈与を拒絶するヒポクラテス』1792年

長い鍛錬を経て得られた技能と、強い責務を持つ人々が、職業意識の自覚とともに、その仕事ならではの倫理感を抱きはじめるようになる。そしてそれは口伝となり、のちに明文化されて師から弟子へと伝えられていく。戒めとして、あるいは誇りとして。そのような職業倫理のあり方の古い一例を、「ヒポクラテスの誓い」に求めることができる。
ヒポクラテスの誓いとは、紀元前5世紀の医師ヒポクラテスの言葉として伝わる誓いである。少々長くなるが、その全文を引用してみよう。

医師アポロン、アスクレピオス、健康[ヒギエイア]、万能の治療女神[パナケイア]、及び全ての神々および女神に誓う。私自身の能力と判断に従って、この誓約を守ることを。この医術を教えてくれた師を実の親のように敬い自らの財産を分け与えて必要ある時には助ける。師の子孫を自分の兄弟のように見て、彼らが学ばんとすれば報酬なしにこの術を教える。著作や講義その他あらゆる方法で、医術の知識を師や自らの息子また医の規則に則って誓約で結ばれている弟子達に分かち与え、それ以外の誰にも与えない。自身の能力と判断に従って、患者に利すると思う治療法を選択し、害と知る治療法を決して選択しない。依頼されても誰にも人を殺す薬を与えないし、そのような助言をしない。そして同様に婦人に流産の道具を与えない。私は生涯を純粋と神聖を貫き、医術を行う。膀胱結石に截石術を施行はせず、それを生業とする者に委せる。どんな家を訪れる時も、女性と男性の相違、自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う。医に関するか否かに関わらず、他人の生活について見たり聞いたことの秘密を遵守する。この誓いを守り続ける限り、私は人生と医術とを享受し、全ての人から尊敬されるであろう! しかし、万が一、この誓いを破る時、私はその反対の運命を賜るだろう![4]

ここから読み取れるのは、医師としての強い誇りと責任感である。技能の伝達における閉鎖性はさておき、その徳性は色褪せるものではない。「害と知る治療法を決して選択しない」「女性と男性の相違、自由人と奴隷の相違を問わず、不正を犯すことなく、医術を行う」「他人の生活について見たり聞いたことの秘密を遵守する」。とりわけプライバシーの問題が早くも現れていることは興味深いが、いずれの問題系も、いまなお職業倫理の主要な関心であり、力の使いどころを誤れば人の苦しみを生み出しかねない高技能者の責任なのである。

墨子

続いて東洋の古い技術者倫理を一つ引いておこう。すなわち、中国の春秋戦国時代、紀元前5世紀の墨子にはじまる墨家の思想である。墨子は工匠あるいは土木技術者であり、戦乱の世にあって「非攻」を説いた思想家であった。墨子は『公輸篇』のなかで、当代一流の軍事技術者である公輸盤と対決し、傑出した兵法家としての側面も見せている。彼の思想の基盤となるものは、反戦、とりわけ侵略戦争への反対である。『非攻上篇』からその言葉を引いてみよう。

今ここに一人の男がいて、他人の果樹園に忍び込み、桃や李を盗んだとしよう。民衆がそれを聞き知ったならば、その行為を悪と非難するであろうし、統治者がその男を逮捕したならば、処罰するであろう。(中略)
ところが現在、大規模な不義を働いて、他国を攻撃するに至っては、だれもその行為を非難することを知らない。そこで攻伐を称賛し、その行為を正義の戦いだなどと評価する。いったいこんな有様で、義と不義の区別を認識しているなどと言えるであろうか。一人の人間を殺害すれば、社会はその行為を不義と判定し、必ず死刑の罪状一つを対置させる。もしこの論法で議論を推し進めるならば、十人を殺害した場合には、十倍の不義を働いたのであるから、必ずや十の死罪が対置されるはずである。(中略)ところが現在、大がかりな不義を働いて他国を侵略するに至っては、一向に非難すべてきことを御存じない。そこで侵略を誉めたたえては、義戦だなどと美化している。[5]

このような立場から、墨子とその意志を継いだ墨家の人々は、その卓越した技術力をもって、城邑の防衛を請け負ってきたという。実際、歴史の中で技術者が担ってきた役割とは、攻撃、侵略、破壊に奉仕することであったことが少なくない。その中にあって、古代中国に「非攻」を尊ぶ技術者集団が存在したことが、まことに不思議であり、興味深く思えるのである。

おわりに

ここまで長々と、あるいはやや大仰に、技術者倫理の起こりを書いてきた。ここから出発して、以後数回にわたって技術者倫理の具体的な考え方と事例を書いていく予定である。実際のところ、ソフトウェア開発の現場のなかで、技術者倫理を意識することは少なく、すぐさま役に立つ事柄とは言い切れない。とはいえ、技術者倫理の考え方が少しでも広まることで、長く見て、より健全なソフトウェア開発現場の発展と、プロダクトの改善につなげることができるのではないか。それが私の関心であり、本論の目的である。

脚注
  1. ヒュギーヌス 著, 松田治, 青山 照男 訳『ギリシャ神話集 (講談社学術文庫)』2005, 講談社, pp85-89 ↩︎

  2. アポロドーロス 著, 高津春繁 訳『ギリシア神話(アポロドーロス) (岩波文庫)』1978, 岩波書店, pp175-176 ↩︎

  3. オウディウス 著, 大西英文 訳『変身物語 上 (講談社学術文庫)』2023, 講談社, pp404-410 ↩︎

  4. ジェイムズ・サンヅ・エリオット 著, 水上茂樹 訳『ギリシャおよびローマ医学の概観』1914, 青空文庫 ↩︎

  5. 墨子 著, 浅野裕一 訳『墨子 (講談社学術文庫)』1998, 講談社, pp61-63 ↩︎

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