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定義マンうぜええええええええ!!!!!😩

2024/10/27に公開

定義マンうぜええええええええ!!!!!😩

って、思ったことありません?議論が始まると「XXの定義ってなんですか?🤔」「YYの定義ってなんですか?🤔」と、やたら定義を気にするマン、いませんか?誰でも一度は 「定義マンうぜええええええええ!!!!!😩」 と思ったことがあるのではないでしょうか。

でも、僕は最近、定義を気にするということはとても大事なことだと思うようになったんです。それは、定義を気にするということは「本質を考えること」であると同時に、「相手を理解すること」にも通じるものがあるな、と感じるからなんです。

春宵十話

最近、こんなことがありました。岡潔という数学者がいるのですが、彼の談話をまとめた「春宵十話」という本があります。彼は1901年生まれですから言葉遣いも多少現代とは異なりますし、それでなくとも大天才ですから、やや文意が分かりにくいところがあります(もちろん私の不学もあります)。春宵十話の中で、「純粋直観」という言葉が使われていることがあり、私は初めて聞く単語だったため、「どういうことなんだろう…」となりました。要は定義が分からなかったのです。

「直観」と聞くと、どうも「あれこれ考えたりせず、なんとなく決めている」ことや、「なんか分かんないけど過去の経験からこうな気がする、知らんけど」といったことを指している様に思います。改めて考えてみると「直観」というものの定義もいまいち分からない自分がいるな、と思う訳ですが…。それはさておき、読み進めるとどうも岡潔はもう少し違う意味で使っている様な気がしてきたのです。

彼が言うには、智というものには三段階ある様です。

  1. 邪智(世間智)
  2. 分別智(妄智)
  3. 無差別智(=真智、純粋直観)

正直私も彼の言う意味、あるいは仏教的なコンテキストをきちんと理解している訳ではないので間違っている可能性もあるのですが、なんとなくこういうことの様に聞こえました。間違っていたら是非コメントなどで教えてください!

邪智とはすなわち「思い込み」です。「誰かがこう言っているから」とか、「みんながそう言っているから」とか、「あの時こうだったから」とか、何か物事の確からしさの基盤が全くない考えのことを指している様に思います。

分別智とはすなわち「偏見(偏った見方)」です。誰にでも私意私情というものはあるでしょう。私にはこうあって欲しいとか、私にはこんなものは許せない、といった思いです。しかしそれはある意味本当のあるべき姿を歪めてしまっていると見ることもできると思います。

無差別智とはすなわち「思い込みもなく、私意私情も挟まない、真っ直ぐに物事を見た考え」です。岡潔はこれを純粋直観と呼んでおり、数学の上でも、人間を形作るものとしても、最も尊いものだと考えていたようです。

この様に、「純粋直観」とはなんなのだろう、その定義は一体なんなのだろう、と不思議に思ったからこそ邪智、分別智、無差別智の概念も理解できたような気がしますし(間違っているかもしれませんが)、その上で純粋直観というものが何なのかも少しは理解できたような気がします。他の人が使っている言葉に気をつけ、その定義は何なのか考え、自分の見方との差分を得ることは他人を理解することに繋がると思います。私も少しは岡潔の見ている世界を垣間見えたでしょうか。

余談

余談ですが、この本には面白い記述が沢山ありました。いくつか紹介したいです。

智とAI

無差別智は純粋直観といってもいいし、また平等性智といってもいいが、一言でいえば自明のことを自明とみる力である。これがあるから知能に意味があるので、これを無視した知能の強さというのは正しくいえば「物まね指数」にすぎない。だからこの力が弱いと何をいわせてもオウムのようなことしかいえないし、自分自身の自明の上に立てないから独自の見解など全く持てないことになる。そうなると限りなく心細くて、必死に他の自明にすがりつき、ただ追随し雷同するばかりである。

まさに、深層学習されたAIのことを指しているような気がしてなりません。深層学習とは言ってみれば「みんながこう言ってるからこれはきっとこうだ」の塊なので、自明のことを自明と見る能力はありません。だから「いやそんなことも分からんのかい」といったハルシネーションを起こす訳です。今のAIは邪智の塊と言えましょう。AIが今のやり方(深層学習)で自明のことを自明と見る力が得られるのか、今後に注目したいと思います。

数学と論理、自然

大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。
「ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている」
すると、傍観していた他の一人が「ずいぶん変な数学ですなあ」と突然奇声を張り上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算はどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮ばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。
この垢が取れていくと、こころは軽々ひろびろとなり、何ともしれずすがすがしくなる。まるで井の中の蛙が初めて地表とかいうものの上に出たときのような気持である。

私の様な素人には数学は論理の塊の様に感じてしまいますが、岡潔は計算や論理は数学の本体ではない、それは妄知なのであると言っています。

数学を自分の心の中に取り入れてそして心の中でその数学を見る。そうすると心の中に入っている数学がその一点に凝集して形を表してくるというふうになる。つまり日本人はものを心の中に入れてそして、その自分の心を見るっていうふうなことが非常に上手なのに今の人はどうも内を見る眼というのがあまり開いていないように思う。日本人の本来の心を思い出してもらいたいな。

あの人に会いたい(岡潔)

どうやら、数学(自然)は自分の中に取り入れ、それをそのまま直視する、すなわち純粋直観を持って見れば、その本質が凝集して見えてくるというようなことを言いたいのかと思います。分かるような分からないような…笑 ページは忘れてしまったのですが、計算が早いことを競ってもしょうがない、というようなことは確か岡潔も言っており、一定数の著名な数学者も言っている気がしますが、多分こういうことなのでしょう。

考えは育つもの

全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない。種子を土にまけば、生えるまでに時間が必要であるように、また結晶作用にも一定の条件で放置することが必要であるように、成熟の準備ができてからかなりの間をおかなければ立派に成熟することはできないのだと思う。だからもうやり方がなくなったからといってやめてはいけないので、意識の下層にかくれたものが徐々に成熟して表層にあらわれるのを待たなければならない。そして表層に出てきた時はもう自然に問題は解決している。

エンジニアなら誰もが「寝たら解決した」というようなことはあると思います。まさにここで言われているのもそういうことで、考えというのはじっくり時間をかけて育てるもので、答えが出ない、分からない時には少し寝かせてみるというのも必要なのでしょう。

終わり

いかがでしたでしょうか。ここには書ききれませんでしたが、岡潔、色々突飛なエピソードもあり、人間味あふれる魅力的な方です。私が生まれた時には既に亡くなっていた様ですので、会えなくて残念です。しかし今でも映像、音声、書籍は残されていますので、気になったら是非追いかけてみてください。

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