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ぼくとわたしのアクセシビリティ原稿を公開します

2021/02/04に公開

これは何?

サードプレイス金沢オンラインのイベント登壇した際の発表原稿です。
実際に発表したスライドや映像との差分はありますが、大きな内容は変わらないのでほぼそのまま公開します。

関連リソース

発表内容

発表資料1ページ目:表紙「ぼくとわたしのアクセシビリティ@サードプレイス金沢」

アジェンダ

  • 自己紹介と今日のテーマ
  • アクセシビリティを取り組み始めた個人的経緯
  • アクセシビリティと障害モデル
  • 障害者と僕
  • 僕もある意味では障害者
  • アクセシビリティに取り組む
  • 世間のアクセシビリティの状況
  • 技術資料などの共有

自己紹介と今日のテーマ

はじめまして。どうけといいます。
ミチにイエと書いて道家です。

経歴ですが、かつては面白法人カヤックでFLASHチームにいました。
8年前に株式会社ワンパクに転職しフロントエンドを中心にしたテクニカルディレクションやWebサービスのディレクションなどやっていました。
昨年退職して現在はフリーランスです。

発表資料3ページ目:道家のキャリア遷移図

自分の得意分野としてはUIの構築やインタラクションとか演出といった技術面を軸にしながら、前後関係の体験設計や業務設計といった横断的なUX領域のディレクション、プロジェクトの交通整理や仕組みづくりといったDX的な領域を考えるのが得意です。
UXとかDXっていうのは、当然後付けで、今はやっているけど古来から暗にまかなっていた技術や役割に名前がついたんだな、と認識しています。

バリバリ職人エンジニアっていうより、エンジニアともデザイナーとも会話ができる複数の領域をブリッヂするのが好きなエンジニアっていう感じです。

今日はアクセシビリティについてです。
僕自身、ここ2年くらいで関心を持ちはじめ学んでいる最中でめちゃめちゃエキスパートではありません。
たぶん、最前線でやっているエキスパートな方々には物足りない内容と思いますが、素人が学ぶ中で考えたこと、疑問や困ったこと、その上で自分なりに結論づけた解釈が、これから学ぶ人の足しになればと思っています。

今日話さないこと

実装とか実際の業務上のノウハウなどテクニカルな話はあまりしません。

まずは個人的に関心を持つに至った経緯のところからお話します。

アクセシビリティを取り組み始めた個人的経緯

前職で受託のWebサイト開発などしていたのですが、自分が関わったWebサイトが「障害を持つアメリカ人法」に関して訴訟問題になり対応が必要になったことがきっかけです。

障害を持つアメリカ人法」とは法律は障害による差別を禁止する法律一つです。
(ビヨンセのWebサイトなどアクセシビリティ関連の訴訟は他にも存在します)。

ようするにWebサイトがアクセシブルではないことで障害者の情報にアクセスする権利を侵害していると訴えられたということです。
日本にも「障害者基本法」や「障害者差別解消法」というのがあり、雇用の権利を守ったり差別を防ぐための法的な整備が進んでいます。
これは国連で採択された「障害者権利条約」の流れを汲んでいて国際的に差別をなくそうという動きがあります。

ここで自分たちは「アクセシビリティ対応ってなんだろう?」ということで非常に困りまして、その手のブログや書籍を読んだり勉強会に参加したりするようになりました。

とりあえずWCAGという国際的なWebアクセシビリティのガイドラインがあり、その適合ラインでAとかAAとかに準拠すればいいらしい、ということが分かりました。すればいいっていうのはやや語弊がありますが。

簡単なもので画像や映像など視覚的な機能に依存した表現は「代替テキスト」いわゆるAltが必要とかですが、実際どういうAltが嬉しいのかということはなかなか判断しづらいです。またキーボード操作やスクリーンリーダーのどれにどれくらい「対策」をすればいいのか選択肢や想定される環境も多様ですごく大変でした。
「スキップリンクって要るの?」とか。

アクセシビリティといっても解釈や取り組む姿勢、取り組み方や実装まで幅広く知見が必要なことと、当事者ではない人が評価することが難しいです。
また支援技術側の進歩や利用者の環境の変化もふまえて過去のノウハウが活かしにくかったり学ぶ側の負担が相当大きいな、と感じました。

後にアクセシビリティとは基本的人権とUX的な想像力であると気づくのですが、この時点で、僕は「技術的な唯一の正解」をただ求めていたため、自分で判断していく設計に取り入れていくことが難しかったのだと思います。

アクセシビリティと障害モデル

Webアクセシビリティに取り組む人達のコミュニティに関わるようになり、実際に全盲とかロービジョンという障害当事者に該当する知り合いも増えました。

その中でfreeeという会社に所属する中根さんという全盲のエンジニアの方がとあるコミュニティ向けに「ICTが変える障害者の生活」という発表をしていただきました。
https://i-c-e.jp/activity/report/archives/437

その内容をかいつまんでご紹介します。

障害とは「医療モデル」と「社会モデル」があるそうです。引用すると、

「医療モデル」とは、障害は個人の能力に起因するものであり医学的な事実に基づくものという考え方で、「社会モデル」とは、社会環境の不備が原因で不便を感じている人はみな障害者であり、社会がその人を障害者にしているという考え方です。
とあります。
医学的にというのは足がないとか視力が弱いとかそういうことです。
社会環境とは仮に車椅子であってもエレベーターや段差がなければ問題にならないのに段差があることが障害の原因になっているというものの見方です。

つぎにアクセビリティの定義として、さらに引用します。

「誰もがほぼ同じコストでほぼ同じような情報やサービスにアクセスできる状態」

ここでいう「誰もが」とは、年齢、性別、障害の有無、利用環境 (モバイル、デスクトップ、回線環境など) その他を意味し、「ほぼ同じコスト」のコストとは、経済的コストだけではなく、時間的あるいは身体的負担や、精神的負荷が含まれます。

この説明にあるように障害の有無は要因の一例であり、性別などの属性や体重や身長、体型によって何かが妨げられれば、医学的に病気じゃなくても「目的が達成できない人」になりえるということです。

医療モデルに対してはメガネやスクリーンリーダーや点字など機能を補助したり代替手段をアテていくわけですが、社会モデルに対しては「標準的な人間」という思い込みを外すことでなるべく多くの人にとって使えることを目指すことになります。ようは利用者が目的を達成すればいいんですから、そもそも属性による区別する必要がなくなることがベストです。

発表資料14ページ目:いろんな状況の人がいろんな手段で情報にアクセスできることを表す図

少なくとも、方法論や、どうあるべき論を語る前に、こういった「利用者が困る背景や構造」を理解することが重要と思います。

一方で僕はずっと、個人的にアクセシビリティなどに対してある違和感がありました。障害者は常に不便でかわいそうな人だから助けてあげないといけない、みたいな「障害者向け対応」的なニュアンスを感じていて、それは自分の兄弟に全身肢体不自由の障害者がいたことに起因しています。

障害者と僕

僕の弟は先天性小児麻痺で、要するに寝たきりの障害者でした。
小さい頃、弟は特別養護学校に通っていたので、いろんな障害当事者やご家族を知っています。一口に障害者と言っても、歩けるけどうまく話せなかったり、ちょっと歩けなかったり、全く歩けないけど話せたり手は使えたり、いろんな人がいます。性格もさまざま。
Eテレのバリバラに出演されている方々をみると分かりやすいと思います。

僕の知っている障害者は、本人はぜんぜん困っているとか不自由してるという感じがありませんでした。もちろん親とか周りは実際大変なんですが、それはさておき。

歩くのが苦手な友人は養護学校のスロープをつたいながら30分くらいかけて分速1Mくらいで歩くんですが、決してスムーズではないものの、自分で好きなところに移動できます。
発話が苦手で、聞いてるこっちも他の子と話すより大変だけど、辛抱強く会話していくと、けっこう仲良くなれるし楽しく会話できます。

それぞれ、スムーズでなければならない状況でなければ、同じ人として何の問題もない、と今思い返してみると思うわけです。

道端で知らない人が見たら、困ってるように見えることはあると思います。
でもそこに手伝いが必要かどうか分からないし、誰かの支えで実現しても嬉しいとは限りません。
でもそれって、障害に起因にするかどうかに関係ないと思いませんか?
誰しもが、困ってることもあるし、困っていないこともある。困っていても自力でやりたいこともある。
そういうことだと思っています。

つまり、外野が勝手に「障害者が困ってるから助けが必要」と思い込むことは「的はずれな思いやり」になってしまいます。
問題の構造を汎用的に捉えていくと、一方通行な「常識」や「普通」という思いこみが、良かれと思っての配慮さえも残念な結果を招きかねない構造があるように思います。

発表資料16ページ目:障害者≠不自由≠困っている

こういった個人的背景から、アクセシビリティ=障害者向け対応みたいな認識には一定の違和感を感じていましたが、この問いの本質は、「障害者をどう助けるべきかどうか?」ではなく、普遍的に「困りうる状況の想定」をしつつ「困った状況を回避する手段があるか?」「そもそも困る状況を取り除くことができるか」ではないか。と考えられるようになりました。

そして世間的にも、アクセシビリティは経緯的に障害者への対応から始まった要因もありつつ、もっと普遍的な権利に基づいた概念として発展していきます。

一つお断りしておくと、変に特別扱いをしないと言っているだけで、実際に解決するにあたっては、なにがしかの「障害」や「ギャップ」は要素として無視できません。そこのところは誤解なきようお願いします。

僕もある意味では障害者

ちょっと重い話だったので、自分を題材に身近に考える話をしていきます。

僕は視力がかなり悪くて0.02とか、思考が散漫で忘れ物が多かったり、聞き違えが多くて、たぶん人としてはかなり「ポンコツ」な部類になります。
メガネ外しちゃえばなんにもできないし、同時に3つ以上要求されると1こ忘れるみたいな問題が発生します。

発表資料20ページ目:ポンコツな僕のイメージ図

40年も生きていると慣れたもんで、普段からポンコツな自分が間違わないようにするノウハウが溜まっています。

メガネ無しでも部屋や通路で躓かないようにとか、夜中照明もメガネもないとほぼ全盲状態ですから、トイレまでの導線を確保するといった、一種のバリアフリーを実践していきます。

余談ですが、妻がよく僕が冷蔵庫のものを間違わないようにラベルを貼ってくれるのでアクセシビリティかなり良いんですが、このあいだジップロックで冷凍したかぼちゃスープを頼まれて、ラベルがなかったんで僕が出したのが柿ペーストだったというボケが発生しました。ラベル大事です。

日常の中でも、たぶんみんな自分向けの配慮・工夫していると思うのですがーそういうことをWebなどの文脈で考える前に、一般に「配慮する」ってことの第一歩なのかと思います。

僕の日常はばかみたいな話で、全盲の人がWebサイトにアクセスできないのと緊急度が違いますが、「ある視点と状況では誰もがポンコツになりうる」と自覚することと、それを補っていく感覚は案外重要だと考えています。
老いとか病気とかまだ名前のついていない病状とかの可能性も含め。

なるべく身近な経験からもアクセシビリティ的な思考をすることは可能で、エキスパートじゃなくてもできるアクセシビリティにつながるのではないでしょうか。

余談:アクセシブルだと副次作用で得する

蛇足ですが、情報がアクセシブルだと、不便だとか困った以外の状況でも、便利になったり生活における体験が向上することがあります。

たとえば本がテキストで提供されていると、手が使えない状態や目が話せない状態でも耳があいていれば音声で読んでもらう事ができます。
歩きながらツイッターを読みあげながらタイムラインをラジオがわりにしたりできます。料理しながらレシピを読み上げたりもできます。
アクセシブルであるということは使い方を拡張することにも繋がるので、いいのではと個人的には思っています。

最後に、具体的にどうやって実践するのか、ガイドラインとか世間の動きは、みたいな内容も簡単にですが共有したいと思います。

アクセシビリティに取り組む

Webサイトをつくる流れの中での基本的な考え方は、Webはテキストベースのメディアだという特性を理解することから始まります。
実はWebに情報があるだけでアクセシブルという名言もあります。

メディアとは情報を伝えるための媒体ですので、情報伝達という観点でどんなバリアがあるのかを考えます。

  • 情報がない
  • 物理的に情報にアクセスできない
  • 情報がありアクセスしづらい
  • 情報がありアクセスできるが分かりにくい
  • 情報がありアクセスできて分かりやすい

実はWebに情報があるだけでアクセシブルといいつつ、これが何故か妨げられてしまうことがあります。アクセスできても伝わらない問題です。

具体例として、採用ページを作る制作現場を仮定します。

発表資料26ページ目:ワイヤーフレームサンプル。ロゴ、採用エントリーボタン、キービジュアル画像、リード文、オフィスの訴求文言と画像を指示する要素が入っている。

テキストの原稿だけしかない状態からワイヤーが書かれていますが、画像の役割は書かれていません。よくあるレイアウトや賑やかしのような「画像という枠」があるだけです。デザイナーはワイヤーに従ってなんとなく文章と類似性のある「それっぽい画像」をはめてレビューを通したりしがちです。

これを「配慮」がないままそのままスクリーンリーダー等で読むと
「ロゴ。採用エントリー、ボタン。画像。弊社の強みがうんぬんかんうん〜。オフィス環境がとてもうんぬんかんうん〜。画像。」
みたいな感じになると思います。

発表資料27ページ目:スクリーンリーダーで読まれているっ状態の想像図

仮にマークアップ等する段階でおそらくエンジニアあたりが適当に画像にAltを入れてみますが、読み上げてみると筋が通らない、みたいなことが起こります。

たぶん次のように読まれるのではないでしょうか。
「株式会社〇〇。採用エントリー、ボタン。画像、スーツの若い女性が意気揚々と空を見つめる写真。弊社の強みがうんぬんかんうん〜。オフィス環境がとてもうんぬんかんうん〜。画像、椅子と机がならぶ小綺麗なオフィス風景写真」

発表資料29ページ目:下手なAltだとスクリーンリーダーユーザーには意味が通じない図

これは明らかに実装以前に情報設計が足りていないことが問題です。

Altは画像の内容や文意において伝えるべき内容がある前提で伝達手段として初めて機能するわけで、製作工程を横断する中で、適切に情報設計され実装に反映されていないと、トータルで良い情報伝達は達成されません。

Altが入っていても文章構造としてちぐはぐだと、意味がわからないです。
アクセシビリティは分かりにくい情報をわかりやすくする技術ではない ということです。

アクセシビリティは組織や関係者全体で取り組まないといけないとされるのは、こういったトータルの情報伝達上の齟齬を解消する必要があるからだと思います。
開発現場からちょっとずつできることはあるものの、Altに見られるようにその時点ではどうしようもないものもあるのです。

このへんは正解があるわけではなく、ウォーターフォールはウォーターフォールの、クライアントワークはクライアントワークのそれぞれの現場で どうやって取り組むか という合意形成が必要だと思います。

ただ結果としてやることは、Altを入れようだったり、キーボードやスクリーンリーダーでの操作の整合性をとっていくという手段に落ちつくことは多いので、デザイナーや技術者だけでも多少なりとも改善を試みることは可能です。
実際そういうところから100点じゃないけど0点よりは10点20点まずはあげようというアプローチが現実解になることが多いようです。
また完全な唯一解のみ求めるのではなく、選択肢を増やしてアクセスできる可能性を増やしていくことは合理的配慮と言えると思います。

ただし何でもやればいい、というわけではないことには注意しつつ、やらないことには、0点のままですから、「やってみることで評価できるようにする」ことが大切かと思います。

アクセシビリティへの各社の取り組み

WCAGをベースにして、freeeやCyber Egent、AppleやSTUDIOといったアクセシビリティに積極的に取り組んでいる会社のガイドラインがあるので、発信を追うのがいいと思います。
これは本当に実際のプロダクト等で日々試行錯誤されているエキスパートたちなので参考になると思います。

書籍や技術的な資料

また書籍でまとまった知見を得たり、実装面ではReact 等の既製のOSSフレームワークで実装されているものがあるので、そういったものを利用することで底上げをすることもできるでしょう。

まとめ

  • 障害とは人の個性と社会の関係性の間にあるバリアのこと
  • 自分もある状況では障害者であるという認識
  • 実践は、やってみることで評価できるようにする
  • 実践する際は、先人や巨人の知恵を借りよう

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