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論文:体積成長を伴う自己触媒反応系の化学熱力学理論:自己複製の熱力学に向けて

2022/09/13に公開約3,800字

特任助教の杉山さん、上村さんの論文がPhys Rev Resに採択され公開されました:

https://www.iis.u-tokyo.ac.jp/ja/news/3972/

https://journals.aps.org/prresearch/abstract/10.1103/PhysRevResearch.4.033191?ft=1

プレスリリースよりはもう少し専門的な内容について補足をしたいと思います。

背景

自己複製能は、物理において生命現象と非生命現象を峻別しうる極めて重要な性質です。歴史的には、フォン・ノイマンによる自己複製オートマトン理論や、自己触媒反応やその組み合わせによるハイパーサイクルの化学反応理論などによって、自己複製に求められる必要十分条件の探索などが試みられてきました。特に、実際の生命現象との対応の観点からすると、全体として自己触媒的に振る舞う反応ネットワーク(例えばリボソームを中心とした自己複製反応モデル)は自己複製現象の基本的な物理モデルとしてみなされていると考えられます。

しかし、自己複製は単に分子が自己触媒的に増えるだけでは十分では有りません。それらを内包する反応場である細胞、つまり膜系に包まれた反応空間も合わせて成長しないと、(細胞分裂などを伴った)自己複製は実現しません。この様な反応場が果たす物理的、そして熱力学的な役割は、近年ではその重要性が認識されてきたものの、十分に考えられてきているとは言えません。
歴史的には例えばフォン・ノイマンの自己複製オートマトン理論には明示的には場の果たす役割は扱われていません(自己複製オートマトンの実際の実装の段階ではその重要性が明らかになっています)。また最近は、2010年のScott・Hwaらによる細胞の成長則の発見により、リボソームを中核とした細胞自己複製反応モデルが考えられていますが、体積の成長は内部分子の総量に比例するなど、必ずしも物理的な法則に依拠していない仮定がなされています。

また一方で関連が深いと思われる化学熱力学理論を見ても、ほとんどすべての研究は反応場の体積Ωが一定の状況を扱っており、したがって内部の反応によって反応場自体の体積Ωが変化するような状況は想定していません(生物以外ではこのような状況は生じないので動機がなかったのかもしれません。)。
しかし、いわゆる学部で習う熱力学を思い返してみると、熱力学では空間中に存在する分子の個数Nや環境の圧力Pや温度Tと系の体積Ωの間の普遍的な関係を扱います。したがって、本来の熱力学理論は、反応場の体積と反応場内の反応分子との間の関係を扱うことができるはずです。

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結果:反応場の体積と自己触媒反応が共役した化学熱力学理論の構築

特任助教の杉山さん、上村さんは極めて一般的な熱力学的な設定のみから、反応場の体積と自己触媒反応が共役した化学熱力学理論、略して「成長系の化学熱力学理論」を構築しました。

成長系の運命を決める条件

理論自体は清水熱力学的な定式化を踏襲し、全系のエントロピー関数の存在を仮定します。その後、反応場内の反応が最も遅い時間スケールを持つという仮定のもとで、定圧条件でのエントロピー関数と関連する熱力学関数の関係を導出します。その後、分子数空間におけるエントロピー関数の関数形状から、

  1. 分子と体積が無限に増えていく定常成長状態
  2. 分子と体積が0に収束する収縮状態
  3. 分子と体積がある有限値に落ち着く平衡状態

を分類し、これら成長系の運命を決定する熱力学的な条件を同定しました。条件自体の物理的な意味は比較的簡単なものであり、環境の圧力Pと、反応場内の化学的な性質から求まる内圧(的な)量pとの大小関係 p>P, p<P, p=Pで決まります。化学的な性質から求まる内圧(的な)量とは、反応場内での分子数で決まる圧力です。

実現しうる定常成長状態に課せられる熱力学的拘束

定常成長条件では反応場内の分子数と体積が無限に発散し、その比である各物質の濃度は一定値に収束します。このような状態を定常成長状態と呼びます。定常成長状態において、各分子はそれぞれどんな濃度も自由にとり得るわけではなく、分子間に熱力学的な制約が課せられます。これにより、成長状態というのは細胞の可能な状態空間におけるほんの一部に拘束される、ということがわかりました。
仮に自己複製している状態を生命の生きている状態の一形態とすると、その状態には物理的に極めて特徴的な性質があることが示唆されました。

定常成長状態の拘束

非平衡状態としての定常成長状態

定常成長条件は非平衡状態です。この状態はいわゆる確率熱力学などで扱われる非平衡定常状態とは、その原因が異なる別のクラスの非平衡状態です。具体的には熱力学関数のextensivityに起源を持つ非平衡状態です。今回の場合、分子数と体積が倍になると熱力学関数が倍になるだけで濃度は変化せず、また系の反応的な部分の性質は濃度で特徴づけられる、という点に関連します。本研究では、定常成長非平衡状態に付随するエントロピー生成量を導出しただけではなく、熱散逸量、そして化学仕事の表式も導出しています。

複雑な拘束関係を扱う化学熱力学のヘッセ幾何学理論

この研究の理論的なポイントは、一言で言えば「与えられた熱力学的条件(拘束)の元でエントロピー関数の最大化問題を解く」ことです。しかし、熱力学的条件(拘束)が複雑になることにより様々な非自明な結果が出てくる、というのが面白いところです。例えば化学熱力学では化学量論的な代数制約が存在するので、一般に線形拘束のあるエントロピー関数の最大化などを扱うことになります。
今回の成長系においては更に、等圧条件から出てくる非線形な拘束条件が出てきてこれが理論的な難しさの一つです。これは、体積が変わるとすべての分子の濃度が変化し、(分子数でなく)濃度に依存して決まる反応状態が結果的に複雑に変化する、ということの別の表現でもあります。

我々は、等積系の平衡熱力学を特徴づける幾何学構造がヘッセ幾何学であることをすでに明らかにしています。ヘッセ幾何学は、情報幾何学における双対平坦構造の部分を抽出して構築した幾何学とみなすことができます。ヘッセ幾何学における双対平坦構造は凸関数とそこから誘導されるルジャンドル変換による幾何学であり、正に熱力学のためにあるような幾何学とも言えます。

我々はこのヘッセの双対空間にさらに体積変化を考慮した3つめの空間を考え、それらの関連を扱うことで上述の関係式などを見通しよく求めることに成功しました。特に非線形な拘束であった等圧条件は熱力学関数の等位面で表され、これは双対平坦よりは有名ではないですが、やはり情報幾何学でも現れる中心アファイン(部分)多様体になっていて、そのためその幾何学性質がうまく捉えられました。

具体的な状況での表式

この論文で構築した理論は、特定の熱力学関数の形や反応のkineticsに全くよらない一般的なものです。この理論において特定の熱力学関数系を仮定すれば、その状況での具体的な表式が得られます。
我々は理想気体や希釈溶液における熱力学関数を仮定する場合において、反応場の体積と内部分子の関係が線形になることなどを示しています。これは細胞の成長則を説明する経験的なモデルで仮定されたものと類似であり、物理的な基礎のなかったこれらの仮定に熱力学的な基礎を与えると解釈できます。

今後の展開

本研究では、体積変化にともなう非平衡状態を純粋に扱うために、いわゆる通常の非平衡定常状態が存在しない条件を仮定して理論を展開しています。そのため細胞の運命は、成長・収縮・平衡化に限られます。通常の非平衡定常状態を許すより一般的な条件では、系の運命は極めて複雑になると想定されます。
これらの複雑な関係性を統一的かつ見通しよく理解するためには、ヘッセ幾何をベースとする幾何学理論の援用が不可欠だと考えられます。これらの理論を平衡・非平衡定常・非平衡成長状態を含む形で発展させることが大きな課題であると考えています。

また本研究では反応が一番遅い状態であると仮定して理論を導きましたが、必ずしもその仮定が妥当でない状況も考えられます。また膜の物性や合成などもより現実的な生物を考える上では重要です。このような状況に理論を拡張することも重要な課題です。

ともあれ、生きている状態を熱力学的に捉える道筋がこの理論を基礎とすることで見えてきたと考えられます。

Discussion

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