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機械のおにぎりがいいのはいつでも人の作るおにぎりがあるからだ

2025/02/02に公開

コンビニやスーパーで売っている機械製のおにぎりは、形がきれいで味付けが安定しているし、手軽に手に入るから便利だと思う。忙しいときや移動中なんかにさっと食べられるのも助かる。でも、機械製のおにぎりばかりを食べていて、「これが最高だ」なんて心の底から思うことはあまりない。やっぱり機械製のおにぎりがありがたいと感じるのは、どこかに「人の手で握られたおにぎり」という基準やイメージがあるからじゃないかと思う。

人が作るおにぎりには、機械では再現しきれないバラつきや温もりがある。たとえば、海苔の巻き方がちょっと不格好だったり、塩加減が毎回微妙に違ったり、握る力加減の違いでお米の粒感が変わったりする。それって、個人のクセとか、そのときの気分や体調によって変化するから、一回一回が違う味わいになる。いわゆる「家庭の味」の源泉って、そういうバラつきなんじゃないかと感じる。

機械のおにぎりはそのバラつきや不確定さを排除して、常に一定の形と味を提供してくれる。それ自体はすごくありがたいことだし、現代の忙しい生活や大量生産の需要に応えるためには欠かせない技術だと思う。だけど、そのありがたみは「おにぎりとはこういうものだ」という、どこか人の手で作られた経験や思い出、あるいは原体験があるからこそ生まれるんじゃないか。もし最初からずっと機械製だけが存在していたら、そもそもおにぎりの形や味がどうあるべきか、心の中に比較対象としての理想像が生まれにくかったはずだ。

食べ物の好みは人それぞれとはいえ、おにぎりのように素朴で身近なものだからこそ、人が握るおにぎりの存在感は大きいと思う。大好きな人が握ってくれたおにぎりとか、子どもの頃、家族が早起きして作ってくれたおにぎりとか、そういう情景や感情が染みついていると、そこが「本物のおにぎりらしさ」の基準になっていく。一方、機械製はその基準に対して「形も味もぶれが少ない」という別の魅力を打ち出してくる。両方が共存することで、互いの良さが際立っていくんだと思う。

まとめると、機械のおにぎりが「いい」ものである理由は、常にその背景に人の作るおにぎりがあるからだと思う。もし人の手で握ったことのないおにぎりしか知らなかったら、機械が生み出す綺麗な三角形に「わあ、すごい」「安定していて助かる」と感じることはないかもしれない。逆に、機械製だけが主流になって、手作りのおにぎりを食べる機会がほとんどなくなったら、機械製の優位性や便利さもその意味合いを失ってしまうかもしれない。

結局のところ、人が作るものと機械が作るものの価値は絶妙に補完し合っている。だからこそ、機械製を「いい」と思える余地が生まれているし、手作りを「いいな」と思える価値も失われないんじゃないかと感じる。両方が存在し続けるかぎり、おにぎりに限らず、僕らは「本物」と「便利」のあいだを行き来しながら、それぞれの良さを改めて味わっていくんだろうと思う。

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