量子の100年
0. 導入
2025年11月、筆者である富谷は、ドイツ物理学会と日本物理学会が開催するイベントに招待され、ドイツのミュンスターへ向かった。
筆者はドイツに縁があり、ドイツは何度も訪れた思い出の地でもある。一方でドイツと言えば、多くの人も同じだと思うが、歴史の教科書に現れる有名な国の1つである。そして歴史の教科書を見てみると20世紀に入る前ごろから工業化が進んだとある。それが実は量子力学の芽生えを産んだというのが量子力学史の始まりである。
1. ルール地方という出発点
ミュンスターから少し南西に行くと、ルール地方の工業地帯が広がっている。19世紀後半から20世紀初頭にかけて、この地域では石炭と鉄鋼を中心に大規模な工業化が進み、高炉やコークス炉、ガス工場、電気照明設備が密集する地域となった。当時の人々が向き合っていたのは、高炉からどう効率よくエネルギーを取り出し、どう安定に制御するかという、ごく実務的な工学上の問題である。
それら、工学上のささいな問題をきちんと理解しようとすると、熱放射や電磁場と物質の相互作用を定量的に扱う必要が出てくるのである。
2. ヒットルフと放電管:量子前夜の電磁場実験
さて(今回のイベントで知ったのだが)、ミュンスターに縁の深い物理学者として、ヨハン・ヴィルヘルム・ヒットルフを外すことはできない。ヒットルフは19世紀後半、部分真空にしたガラス管に高電圧をかけるガス放電実験を系統的に行い、陰極から何かが直進して飛び出し、途中に遮蔽物を置くとスクリーン上に影を作ることを観察した。これは後に「陰極線」と呼ばれた。この研究を起点にクルックス管やX線の発見につながり、トムソンによる電子の発見へとつながっていくわけである。
当時の理論のとしてはマクスウェル方程式であり、電磁場が主体であった。ヒットルフが見ていたのは「連続な場のちょっと変わった励起」に過ぎない、というのが当時の感覚だっただろう。それでも、放電管の中で電磁場と物質が強い非平衡状態で結びつく様子を目の前で見る経験は、電子・イオン・陰極線といったミクロ概念を真剣に考えざるをえない土台になった。
3. 黒体輻射とプランク分布:炉の中の光をめぐる危機
話を「工学上の問題」に戻そう。ルール地方や各国の工場で日常的に使われていた高温炉や白熱電球の輻射スペクトルを精密に測ると、「高周波側で古典論と合わない」という問題がはっきりしてきた。レイリー・ジーンズの法則をそのまま延長すると、高周波でエネルギーが発散してしまう、いわゆる「紫外線破綻」が起きることも分かった。
1900年、マックス・プランクは、空洞内の電磁場を仮想的な電気振動子の集まりとみなし、それぞれの振動子がエネルギーを連続ではなく
ここで導入された (h) は、後にプランク定数と呼ばれ、量子論の中心定数になる。とはいえ、プランク自身はこの時点では、エネルギーが本質的に飛び飛びだとまでは割り切っていなかったとされる。黒体炉のデータを説明するために、やむをえず量子化を導入した、というのが近い。本気では信じたくなかった一歩が、後から見ると決定的な転換点になっているところが歴史を振り返ってみて面白いところであろう。
4. 前期量子論:原子構造と粒子導入
プランクの量子仮説は、すぐに他の現象にも拡張された。1905年、アインシュタインは光電効果を解析し、光がエネルギー
1924年、ド・ブロイは逆に「電子などの物質にも波長
同じ流れの中で、ヴォルフガング・パウリは1925年に排他原理を導入し、電子が同じ量子状態を共有できないという規則を考えた。これは周期表や化学結合を理解する上で決定的であり、「量子状態はラベル付きの箱であり、電子等のフェルミ粒子は各箱に1個まで」という素朴なイメージを与えたのである。当時としては、これはアドホックな仮定に過ぎないのだが、これはスピン統計定理の現れである、というのが後に明らかになる。
5. 量子力学の成立:行列、波動、スピン
こうした前期量子論の成功と限界を背景に、1925年前後に現代につながる本格的な量子力学が成立した。1925年、ハイゼンベルクは観測されるスペクトル遷移のデータだけを扱う形式として行列力学を構築し、位置や運動量を非可換な行列として記述した。当時は行列自体が大学の初年度教育に入っておらず、行列演算を再発見した、ということらしい(もっとも、ヨルダンなどは知っていたらしいが)。
翌年、シュレーディンガーは粒子状態を空間に広がる波動関数で記述する波動方程式を提案し、ボーア模型のスペクトルをより一般的に再現する枠組みを与えた。
パウリはここでも重要な役割を果たし、スピン1/2の自由度を表す2×2のパウリ行列を導入して、電子のスピンと磁気モーメントを量子力学の文脈で記述した。行列力学と波動力学はディラックらによって数学的に同値であることが示され、ブラ・ケット記法などを用いた統一的な形式にまとめられる。
この段階で、電子などの物質粒子については一貫した量子論が手に入り、原子や分子のスペクトルや安定性はかなりよく理解された。しかし、「波動関数とは何か」「測定とは何か」という解釈の問題は、まだ全く片付いていなかった。ここで登場するのがボルンの確率解釈である。
6. ボルンの確率解釈とシュレーディンガー・アインシュタインの反発
1926年、マックス・ボルンは散乱問題を扱った論文の中で、波動関数の絶対値二乗
さて、シュレーディンガー自身は当初、波動関数を連続的に広がった実在の波として解釈したいと考えており、ボルンの確率解釈には強い違和感を示した。シュレーディンガー方程式はあくまで「物質波」の方程式と彼は考えていたらしい。そのため後に有名になる「シュレーディンガーの猫」の思考実験も、量子状態が確率の重ね合わせにとどまるという見方への批判として導入されたものである。シュレーディンガーは、猫が「生と死の重ね合わせ」になっているという結論を、むしろ量子力学の奇妙さの例として提示したのであって、肯定的に受け入れたわけではない。
アインシュタインもまた、ボルン則を受け入れつつも、「量子力学は統計的に正しいが、完備ではない」という立場をとった。1935年のEPR論文(アインシュタイン・ポドルスキー・ローゼン)では、ボーアらのコペンハーゲン解釈に対して、量子力学が実在の全てを記述しているとは言えないことを、思考実験によって主張している。 その背後には、「遠く離れた場所で一方の測定を選ぶことで、他方の状態が瞬時に変わるように見えるのはおかしい」という局所実在論の直感があった。
ボーアはこれに対して、測定装置を含めた全体の配置を考えないといけないと反論し、「補完性」という概念で押し返した。議論は最後まで完全には決着せず、その後のベル不等式とその違反の実験にまで持ち越されることになる。ここで重要なのは、量子力学の数学的枠組みがほぼ完成した後も、「波動関数とは何か」「確率とは何か」という問いは、第一線の物理学者にとって本気の悩みだった、という点である。これについては現在でも議論がなされていることが多い印象である。
7. ハイゼンベルク=パウリと場の量子化、湯川理論
前期量子論と量子力学は主に、電子などの物質粒子を扱っていた。しかしプランクが最初に導入したはずの「電磁場のエネルギー量子」そのもの、すなわち場をどう量子力学の枠で扱うかは別の課題だった。1920年代末、ハイゼンベルクとパウリは、古典場のラグランジアンから出発して、場そのものを正準変数として量子化する枠組みを整えた。電磁場をモード展開し、各モードを調和振動子として扱い、それぞれに生成・消滅演算子を対応させることで、光子という粒子像が自然に現れる。電磁気学の現象は、ミクロスコピックには、光子が伝わる量子現象として解釈される。以下で見る通り、電子間に働くクーロン力も光子の交換と解釈されることになる。
1934年、湯川は陽子と中性子の間に働く核力を説明するために、新しい中間子場を導入し、その量子励起として中間子(後のπ中間子)を仮定した。これは、クーロン力を光子交換として理解する上記の見方と同型であり、「力は場を介して伝わり、場の量子励起として粒子が現れる」という一般的な図式を素粒子物理に広げた仕事である。湯川秀樹の中間子理論も、場の量子論の語彙で理解されるわけである。
このあたりまで来ると、「粒子を導入する」と言うとき、それはほとんど「新しい場の自由度を導入する」と同義になっている。パウリのニュートリノ、湯川の中間子は、保存則や力の到達範囲といった整合性から要求される場の量子として、理論側から導入されているわけである。
8. くりこみとファインマン・ダイアグラム:朝永・シュウィンガー・ファインマン・ダイソン
さて、場の量子論は構造としては美しいが、素直に計算すると自己エネルギーなどで無限大が出てくる問題がある。これをどう扱うかが、第二次世界大戦前後の大問題だった。日本の朝永振一郎、アメリカのシュウィンガーとファインマンは、それぞれ異なる形式でQED(量子電気力学)のくりこみ理論を構築し、裸の質量や電荷を観測量で置き換えて有限の予測を得る方法を与えた。ファインマンは同時に、摂動論の各項を図として表現・整理するファインマン・ダイアグラムを導入し、場の量子論の計算を直感的かつ実用的なものにした。
ダイソンは、朝永・シュウィンガー・ファインマンの形式が本質的に同値であることを示すとともに、ファインマン・ダイアグラムが摂動展開の体系的な表現であることを数学的に明確にした。これによって、QEDのくりこみ理論は統一的な枠組みとして受け入れられ、その後の素粒子論・核物理・物性物理へと広く応用されていく。
QEDの成立前の時期、アメリカではマンハッタン計画が進行し、フェルミらによるシカゴ・パイル1号で世界初の持続的核分裂連鎖反応が実現した。QEDの研究をしていたオッペンハイマーはここで物理学者としてのキャリアを核開発に舵を切った。多くの物理学者が研究開発に巻き込まれ、高エネルギー散乱や断面積、多体系の拡散方程式といった量子力学・場の理論の技術が、原子炉設計や爆縮レンズ計算などに直接使われていたようだ。量子論はこの時期に、素朴な疑問を原動力にしたスペクトルや原子構造の理論研究から、「国家プロジェクトの工学的基盤」へと重みを増していく。これがもたらした結末は、現在でも尾を引いており、物理学者(ないし科学者)は倫理的な判断をしなければいけない、という教訓になるだろう。「すべての人に天国の扉を開く鍵が与えられる。その鍵は地獄の扉も開く。」物理学者は(世論もあったとはいえ)、正しい道を行けなかった。現在のAI研究者はどうだろうか。
9. Wilson のくりこみ群:スケールと普遍性
話を戻そう。朝永ファインマンシュウィンガーらが発展させた「くりこみ」の考え方は、その後、ケネス・ウィルソンによって「くりこみ群」として大きく一般化された(1975年ごろ)。ウィルソンは、場の理論や統計力学において、短距離の自由度を順に積分していき、長距離での有効理論を得るという手続きを、スケール変換として統一的に扱った。特に、イジング模型などでの臨界現象に対してブロックスピン変換を繰り返し、パラメータ空間の流れを解析することで、臨界指数やユニバーサリティクラスが理解できることを示した。
この枠組みは、「どのスケールまでミクロ構造を追いかける必要があるか」「あるスケールでの有効自由度は何か」という問いに対する、かなり明快な答えを与える。磁石等の臨界現象と、高エネルギーでの場の理論の振る舞いが、同じくりこみ群の語彙で語れる、という事実は、理論家の立場から見ると非常に美しいと思う。
以後、強い相互作用の有効理論や近藤問題、格子ゲージ理論など、さまざまな分野で「スケールに沿った見方」が標準装備となり、場の理論は「どこまで細かく見るかに応じて変わる理論」として受け止められるようになっていくことになる。
10. 多体問題と自発的対称性の破れ:アンダーソンと南部
場の量子論の考え方は、多体問題や物性物理にも本格的に応用される。1911年のカマリング・オンネスによる超伝導発見から長く理論が不明だったが、1957年のBCS理論(バーディーン・クーパー・シュリーファー)によって、電子がフォノンを介して有効な引力を持ち、クーパー対を形成してマクロな凝縮状態に入ることで超伝導が説明されることが示された。
フィリップ・アンダーソンは、このBCS理論をもとに、超伝導体の内部では位相自由度を持つ秩序パラメータが凝縮し、その揺らぎと電磁場との相互作用を通じて、実効的にゲージ場が質量を獲得することを示した。これは、後に電弱統一理論の「ヒッグス機構」として知られるメカニズムの原型であり、ゲージ場の質量生成を理解する鍵となった。
一方、南部陽一郎はBCS理論に着想を得て、素粒子物理における自発的対称性の破れを定式化した。南部–ヨナ=ラシニオ模型などを通じて、連続対称性が自発的に破れると質量のない「南部ゴールドストン粒子」が現れること、対称性の構造が低エネルギー励起の性質を決定することが明らかになった。
11. ニュートリノ振動:パウリの粒子が地球スケールで干渉する
パウリが「β崩壊の連続スペクトルを説明するため」に導入したニュートリノは、その後検出され、標準模型の一部として定着したが、長らく質量ゼロと仮定されていた。1990年代末、とくに1998年のスーパーカミオカンデによる大気ニュートリノ観測により、ミューニュートリノが地球の反対側から飛ぶ間に別のフレーバーに変換されていることが示され、ニュートリノ振動が確立した。これはニュートリノが質量を持ち、フレーバー固有状態と質量固有状態が混合していることを意味する。
ニュートリノ振動は、質量固有状態が位相を進めながら伝播し、その干渉として現れる現象であり、地球半径スケールの「巨大な干渉計」として理解できる。パウリが帳尻合わせのために導入した「見えない粒子」が、数十年後には地球規模の量子干渉実験の主役になっている。この事実は、理論側の一歩がどこまで行きつくか分からないことをよく示しているとも言えよう。
12. トポロジカル絶縁体:バンド構造と位相の量子論
固体物理の別の方向では、電磁場と電子の相互作用をトポロジーの観点から捉え直す動きが加速した。整数・分数量子ホール効果は、強磁場下の2次元電子系でホール伝導度が基本単位で量子化される現象であり、その背後にチャーン数というトポロジカル不変量が存在することが示された。
これを時間反転対称系に一般化したのが、量子スピンホール絶縁体と
このアイデアは、格子ゲージ理論におけるドメインウォールフェルミオンとも共通しており、南部の言った「1つの物理」という思想が続いていることも意味しているのかもしれない。
13. 量子情報と量子計算:量子状態を資源として扱う
量子論は、情報理論とも結びつく。量子情報理論は、量子状態をエンタングルメント(量子もつれ)を含む情報資源として扱い、ユニタリ操作と測定を組み合わせて情報処理を行う枠組みである。ショアの素因数分解アルゴリズムやグローバーの探索アルゴリズムは、特定の問題に対して古典計算機よりも高速な計算が可能であることを理論的に示した。
量子計算では、量子ビットの重ね合わせと量子ゲートを利用するが、その実装には超伝導回路、イオントラップ、フォトニック量子計算など、さまざまな物理系が用いられている。それぞれのプラットフォームで、電磁場は量子ビットを実装し、制御する手段として重要な役割を果たす。超伝導量子ビットではマイクロ波共振器、イオントラップではレーザー光、フォトニック量子計算では光子そのものが情報担体となる。
ここまで来ると、プランクが黒体炉のエネルギー帳簿を合わせるために導入した (h) は、「どの程度細かく量子状態を操作し、区別できるか」を決める情報論的な定数としても理解される。量子はもはや「自然が勝手に持っている揺らぎ」だけではなく、「人間が設計して使うリソース」として扱われる段階に入っている。
14. プランク衛星で見るプランク分布:100年後の黒体炉
さて、プランク分布は炉の中の電磁場を記述するための法則として生まれた。その100年以上後、同じプランクの名を冠した衛星が、今度は宇宙全体を炉のように見立てて観測している。
宇宙マイクロ波背景放射(CMB)は、ビッグバンの名残として宇宙空間を満たす電磁放射であり、そのスペクトルは温度約2.725 Kのほぼ完全な黒体スペクトルであることが COBE や WMAP によって精密に測定された。 プランク衛星(2009–2013)は、より高い角分解能と多周波観測により、CMB の温度ゆらぎを全空にわたって高精度でマッピングし、そのスペクトルが極めて高い精度でプランク分布に従うことを再確認した。
プランク衛星のデータからは、宇宙の年齢や物質・暗黒物質・暗黒エネルギーの割合など、宇宙論パラメータが高精度で決定されている。視点を変えれば、そこに見えているのは「温度2.7 Kの巨大な黒体炉」としての宇宙であり、そのスペクトルがプランク分布に従うという一点で、ルール地方の工業炉や実験室の黒体炉と直結している。
ルール地方の高炉とミュンスターの放電管から始まった電磁場の量子論は、人類史を巻き込みながら、最後には宇宙マイクロ波背景という「宇宙の黒体炉」に戻ってきた。プランク衛星が宇宙から見たプランク分布は、この100年あまりの量子論の歩みが、局所の炉や放電管の話を超えて、宇宙全体の熱史と構造形成の理解にまでつながっていることを、静かだがかなり説得力のある形で示していると言えよう。100年間は激動の時代であったが、今後の100年ではいかなる進展や歴史が紡がれるのであろうか。
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