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LLMで書くエッセイ連載vol.3「経験は言葉に先立つ。」

2025/03/10に公開1


1on1でメンバーと話していた。彼は30代半ばで、すべてのエンジニアがそうであるように、彼もまたキャリアと人生に悩んでいた。「AIがどんどん賢くなって、コードも設計もプロンプトで済むようになって、じゃあ僕らはこれから何をすればいいんでしょうね。今までの僕らの経験って、一体なんだったんでしょうね」と苦笑しながら彼は言った。

たしかに最近のAIは驚異的だ。それまで人間の仕事とされてきたあらゆることがプロンプト一つでできてしまう。コンサルタントの仕事だって、プロンプトを適切に設計すれば、AIが課題分析から戦略立案、プレゼン資料の作成までできてしまう。では、人間は何をすればいいのか? どこにどうやって価値を出せばいいのか?

この問いに対する私の答えはシンプルだ。「言葉」を持つことだ。もっと正確に言えば、「経験に裏打ちされた言葉」を持つことだ。

マイケル・ポランニーは『暗黙知の次元』において、「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」という重要な洞察を示した。これは、人間の知識や経験が、必ずしもすべて言語化できるわけではないということを示唆している。しかし、逆説的なことに、その「語れない知識」を持っているからこそ、私たちは深い意味を持つ言葉を紡ぎ出すことができるのだ。

言葉とは、単なる文字の羅列ではない。私たちは普段、当たり前のように言葉を使っているが、実はその言葉がどこまで届くか、どれほどの説得力を持つかは、話し手の経験と直結している。たとえば、「挑戦が大事だ」と誰かが言ったとしよう。何の挑戦もしたことのない人が言えば、それはただの教科書的な言葉に聞こえる。でも、実際に何度も失敗を繰り返し、それでも立ち上がってきた人が言えば、同じ言葉でも重みが違う。それは「生きられた言葉」であり、ゆえに今なお「生きている言葉」だからだ。

村上春樹は『職業としての小説家』の中で、次のように述べている。「自分の「実感」を何より信じましょう。たとえまわりがなんと言おうと、そんなことは関係ありません。書き手にとっても、また読み手にとっても、「実感」にまさる基準はどこにもありません」

そう、言葉というのは、それを使う人間の経験という培地の上に育っていくものであり、それ単独では機能しない。言葉は単なる記号ではなく、それを使う人間の人生経験という土壌の上に根を張り、そこから養分を得て育ち、それを使う人間の身体を通して外へと飛び立っていく、人間とともにある生きものなのだ。

AIがいくら高度になっても、固有の文脈やエピソードに裏打ちされた言葉の重みや質感、迫力や臨場感まではコピーできない。AIが生み出す言葉は、どこまで言っても既存のデータを確率的に妥当な形に組み合わせたものに過ぎない。だが、人間が発する言葉には、その人固有の、デジタルには割り切れない性格や嗜好や身体感覚が染み込んでいる。だから、同じプロンプトをAIに投げるにしても、それを設計する人間の「言葉の力」が、AIの出力の質を決定づけることになる。

トーマス・クーンは『科学革命の構造』で、真の知識は単なる理論の集積ではなく、実践的な経験との相互作用から生まれると指摘した。これは現代のAIと人間の違いを考える上で示唆的だ。AIは膨大なデータを処理し、それらを組み合わせて新しい表現を生み出すことはできる。しかし、試行錯誤を通じて得られる「実践知」を持つことはできない。言葉と行為の間を往来し続け、相互に変化を与え続けられるのは、今のところ人間だけなのだ。

重要なのは、単に「巧みな言語化スキル」を身につけるだけでは不十分だということだ。SNSとAIの影響で、最近では、言語の力の表層だけが取り沙汰された結果として、「言語化力を鍛えよう」といった風潮が生まれつつある。たしかに、それ自体は悪くない。しかし、言語化の技術を磨くだけでは、AI時代における本質的な強みにはならない。むしろ、重要なのは「どれだけ解像度の高い経験をしてきたか」だ。

ここに、新卒でコンサル会社に入ったAさんと、同じくコンサル会社に入ったBさんがいるとしよう。Aさんは研修で学んだフレームワークを駆使し、スマートに提案書を作るのが得意だ。一方、Bさんは新卒1年目からトラブルプロジェクトのリカバリに放り込まれ、炎上したプロジェクトをどうにか収束させるために、クライアントとの折衝を何度も重ね、現場のエンジニアと徹夜で問題を解決し続けてきた。

そして、どちらが「優れた言葉」を持つかといえば、それは間違いなくBさんの方だ。彼の言葉には痛みが伴う。火傷という概念を知る人間と、実際に火傷をしたことのある人間では、火を見る眼差しが異なる。リスクを見つけられなかったプロジェクトがどうなるか、軽い気持ちでリスクを放置したプロジェクトがその後どうなったか、彼は自分の身をもって知っているのだ。だから、彼のつくる資料にはメッセージが生まれ、レビューは作業者に深い気づきを与え、プロンプトはAIに魂を宿すだろう。

この文脈で思い出されるのは、映画『マトリックス』のある場面だ。主人公ネオは、コンピュータプログラムによって格闘技の技術を「ダウンロード」する。しかし、モーフィアスとの実戦では、その知識だけでは勝てない。なぜなら、実際の戦いには、プログラムでは伝えられない「経験」が必要だからだ。これは、現代のAI時代における人間の強みを象徴的に表している。なぜなら、ビジネスの現場では「教科書的なスマートさ」ではなく、「リアルな問題をどう乗り越えたか」がものを言うからだ。クライアントが「この施策、本当に成功しますか?」と聞いてきたとき、単に「データからすると成功確率は高いです」と答えるのと、「僕も過去にこういう局面で失敗して、そこから学んだんですが……」と語るのでは、説得力が全く違う。結局のところ、言葉の質は、経験の質によって決まる。そして、その経験の質は、「どれだけ難しい状況に飛び込み、そこでもがき苦しんできたか」ということによって決められる。経験の濃度こそが言葉の解像度を決めるのだ。

ところで、AIを使いこなすには、優れたプロンプトを設計するスキルが必要だ。しかし、プロンプトとは、単なる「質問の書き方」の問題ではない。むしろ、その背後にある「問いの解像度」こそが重要になる。

プロンプトの質を決めるのは、その人がどれだけ試行錯誤してきたかだ。複数のプロジェクトを掛け持ちしながら、立ち上げからクロージングまで全フェーズを経験したことがある人は、「この施策は実際に現場で機能するか?」という問いに対して、より解像度の高いプロンプトを投げることができる。

さらに付け加えると、言葉にとって重要なのは、経験の「量」だけではない。その「質」と「多層性」だ。同じプロジェクトマネージャーの経験でも、単にスケジュール管理をしていただけの人と、チームメンバーの成長や組織の文化形成にまで気を配っていた人では、得られる経験の質が全く異なる。後者は、表層的な「タスク管理」という次元を超えて、「人間の成長」や「組織の発展」という深い次元にまで到達している。そして、この経験の多層性こそが、AIに投げかけるプロンプトの質を決定的に左右するのだ。

難しいプロジェクトを立ち上げる経験。炎上したプロジェクトをリカバリする経験。締め切りギリギリの案件をどうにか形にする経験。これらを積み重ねることで、「言葉」は単なる抽象的な概念ではなく、リアルな実感を持ったものに変わっていく。そして、その言葉こそが、AIを駆使する上でも、人間として価値を発揮する上でも、決定的な武器になる。

経験は言葉を生み、それは新たな発想を生むことにもつながるだろう。ミハイ・チクセントミハイは、創造性は既存の領域の深い理解と、その領域を超えた新しい組み合わせから生まれると指摘した。これは経験の重要性を別の角度から示唆している。つまり、多様な経験を重ねることは、新しいアイデアや解決策を生み出す土台となるのだ。AIは既存のデータの組み合わせから新しい表現を作り出すことはできるが、真に革新的なアイデアは、人間の多層的な経験と、そこから生まれる直観的な洞察から生まれる。

多くの経験を得るために必要な実践的な姿勢。それは、「自分の仕事の範囲だけをこなすのではなく、隣のボールを拾いにいくこと」だ。

優れたコンサルタントやエンジニアは、決して「自分だけのロール」や「自分だけのタスク」に縛られない。チームの誰かが手をつけられていない仕事、今やらないとプロジェクトが詰む仕事、誰も気づいていないが長期的に見れば重要な仕事——そうしたものに気づき、拾い、動かし、「なんとかする」。つまり、あらゆるレベルで「マネジメント」をする。マネジメントはとても難しい概念で、日本語に適切に訳すとすれば「なんとかする」としか言いようがない。それは「管理」でも「制御」でもない。それは言葉でありながら言葉ではない。徹底的に経験と実践と現実を志向する、言葉を超えた行為そのものを示している。

禅に「不立文字」(ふりゅうもんじ)という考え方がある。これは、真理は言葉や文字では完全には表現できず、実践を通じて会得すべきものだという教えだ。しかし現代において重要なのは、実践と言葉を対立させるのではなく、実践を通じてこそ真に力のある言葉が生まれるという点を理解することだ。マネジメントとは要するに、そういうものだ。

「隣のボールを拾う」ような行動力、その柔軟性と自律性、あるいはそれを可能にする好奇心と経験的な学びへの憧憬こそが、経験の幅を広げる。そして、経験の幅が広がれば広がるほど、扱える言葉の幅も広がる。「プロジェクトマネジメントとは何か?」という問いに対して、「WBSを適切に作成し、進捗と課題とリスクを管理すること」と答える人と、「何もかもがカオスな状況下で、みんなが見落としているボールを一つ一つ拾い集めて、整理して、動かして、とにかくプロジェクトをあるべき状態に戻すこと」と答える人とでは、どちらが本質を突いているかは明らかだ。結局のところ、AI時代においても、本当に価値を生み出すのは「生身の人間が紡ぐ言葉」なのだから。

だからこそ、難しいプロジェクトに飛び込み、トラブルを乗り越え、隣のボールを拾いに行くこと。そうした行動こそが、未来の自分の「言葉の力」を鍛え、AIでは代替できない価値を生み出すのだ。

この文脈で見落としてはならないのは、経験が持つ「責任」の側面だ。ハンス・ヨナスは『責任という原理』で、技術の発展に伴う人間の責任の重要性を説いた。AI時代においても、最終的な判断と責任は人間が担う。その判断の質を決めるのは、やはり経験の深さだ。AIが提案した施策が失敗したとき、その原因を理解し、次の展開を考えられるのは、類似の失敗を経験し、そこから学んできた人間だけである。つまり、経験は単なる「知識の蓄積」ではなく、「責任を全うするための基盤」でもあるのだ。

私たちは今、AIという強力な道具を手に入れた。しかし、その道具をどう使いこなすかを決めるのは、依然として人間の経験と、その身体感覚に裏打ちされた、マネジメントの叡智なのである。

kyosuke higuchi with ChatGPT4o and Claude 3.5 Sonnet
(本記事は社内ニュースレターからの転載です)

Accenture Japan (有志)

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