ふりかえり手法の功罪 〜リアルを取り戻せ〜
はじめに
本記事は、ふりかえりアドベントカレンダー2025表 10日目の記事です!
ふりかえり手法が溢れ、誰でもふりかえれる理想の世界
世の中には、数多くのふりかえり手法が溢れています。
その数は500種類以上あるらしいですね。
KPTをはじめとして、YWT、Fun/Done/Learn、焚き火など。
多くの組織で、ふりかえりは「当たり前」の儀式として機能し始めたと考えています。
手法を選び、ファシリテーションの技術を駆使し、ゲーム感覚で楽しめます。
「今回はこの手法でやってみよう」「楽しかったね」と終われます。
それは、導入期においては素晴らしいことだと考えます。
チームを形成し、ふりかえりの文化を醸成することに寄与するでしょう。
しかし、ふりかえりが行動として根付いた組織こそ、次に進むべきフェーズがあると考えます。
私、あるいは私たちは、その「楽しさ」の裏に潜む功罪に気づく必要があると考えました。
「ふりかえり」と「振り返り」を別のものとして捉える
この記事では、意図的に言葉を使い分けます。
- ふりかえり: チームで行うイベント、手法、セレモニー。
- 振り返り: 自身やチームの在り方を問う、内省(Introspection)。
これは本記事のみ、あるいはやまずんのみの定義です
多くのチームで定着しているのは、「ふりかえり」です。
しかし、私がここで皆さんに説きたいのは、イベントとしての開催ではなく、「振り返り」です。
私は、手法をこなすこと自体が目的化し、思考停止に陥っている現場をしばしば目にしてしまいます。
私もかつて、そういった状態になっていたことがあります。
しかし、その状態になったからこそ、見えてきた課題があると考えています。
手法偏重の罪:リアルさと集中の喪失
手法を楽しみ、イベントとして消費することには、危険が伴うと考えています。
それは、「いま、ここ」にあるリアルへのフォーカスを失わせることです。
ふりかえりのフレームワークは、楽しいです。
スマートなファシリテートは議論をスムーズにします。
しかし、楽しく、スムーズになりすぎた結果、本来直視すべき「耳の痛い話」や「深刻なコンフリクト」さえも、ワークショップの一部として処理されてしまうのではないかと考えてしまいます。
「この手法、なんだか難しかったなあ」
「いろいろ話せてよかったです。みんなありがとう!」
そこには、痛みや葛藤といった、現実にあったはずの「リアル」がないと感じます。
時には対立すらもエンターテインメントとして消費され、「いい議論ができたね」という満足感だけで終わってしまうことがあります。
これは危険な兆候だと考えています。
綺麗なフレームワークの中で、後ろ暗いドロドロとした、本質的な現実や課題から目を背けているだけかもしれないからです。
習慣化したからこそ、自分たちの「在り方」を問う
ふりかえりが習慣化した組織が次にすべきことがあると考えます。
それは、新しい手法を探すことではありません。
「ふりかえり」というイベントそのものを「振り返る」ことです。
これはいわゆる「ふりかえりのふりかえり」、ふりふりとも違います。
「今回はうまくいかなかったね」「今回は楽しかったね」で終わらせて良いのでしょうか?
自分たちの時間は、単なるガス抜きや、フレームワーク遊びのためにあるのでしょうか?
我々は振り返りを通して、自分自身の「在り方」を再定義する必要があります。
「この時間は、我々に何をもたらしているのか」
「我々は、どうありたいのか」
この問いに向き合うことは、手法を回すよりもはるかにエネルギーを使います。
しかし、それこそが真に強いチームを作るための「振り返り」だと思っています。
誇れる時間になっているか
では、具体的にどうすればいいのか。
自分たちのふりかえりが「イベント」になっていないか。
私は、1つの儀式とタフクエスチョンを提案します。
次回のふりかえりの終わりに、メンバー全員でこの問いを投げかけてみてください。
(儀式)「あなたが最も尊敬する人が目の前にいると仮定してください」
(タフクエスチョン)「その人に恥ずかしくないくらいいまここに集中できていましたか?」
(タフクエスチョン)「今日のふりかえりはリアル(本質)だったと、その人に胸を張って言えますか?」
もし、この問いに即答できないのであれば、あるいは、「ただの作業だった」と感じるのであれば。
そのふりかえりは、手法に溺れ、 「いまここ」にある「リアル」 を失っているのではないかと思います。
おわりに
この記事を見て刺さった人は、ふりかえりを自分ごとにするタイミングに来ていると考えます。
守から破への移行段階だと思います。
手法は道具であり、ファシリテーションは役割・あるいは技術だと思います。
そしてそれらの習熟はとても大切です。
しかし、ふりかえりの本質的な部分に思いを馳せることをやめ、思考停止したままでよいのでしょうか。
私は今まで提示した問いについて、自分なりの答えを出しました。
そしてそれは、漫然とふりかえりやふりかえりの手法を消費することではありませんでした。
皆さんがどのような答えを出すのかは、皆さんに委ねます。
ふりかえりが行動として根付いたその次は、あえて「ふりかえり」を「振り返り」、自分自身がどうあるべきかを考えてみるといかがでしょうか。
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