10年前の今日。僕らはクライアント試写の準備に追われていた。
その編集室は三田にあった。4LDKの1部屋ごとに15畳以上あるような大使館職員向けの物件で、試写室の他にCG部やAEチームの為の部屋もあるようなブティック型のスタジオ。試写にたどり着くまでも紆余曲折あり、プロダクション以下現場スタッフは既に数日前から帰っていない。試写の開始予定時間は確か15:00。代理店もクライアントも、既に会社を出て編集室に向かっているであろうタイミングで、それは起きた。
もちろん、作業は中断。揺れてる最中からクライアントモニターに地上波を映そうとして、アンテナ線が繋がってない、とかなんとか、バタバタした憶えがある。
予定時刻より遅れて、三々五々代理店とクライアントが集まってきた。揺れましたなぁ、とかエレベーターが止まって階段を何百段降りた、とか、着いてすぐはそんなことを言っていた。まだその時点では一応試写をやる気もあったのかもしれない。が、編集室に入ってきて、自分たちのCMが映し出されるはずのクライアントモニターに目を向けた瞬間に皆沈黙する。そこに映っていたのはNHKの緊急報道。
プロダクション、代理店営業は今日の試写をどうするか、確保している媒体枠をどうするかみたいな話から始めたがったが、クライアントとクリエイティブは違っていた。今この事態にあたって自分たちに何ができるのか、海外の本社にできることはなんなのか、みたいな事を大車輪で議論し始めた。特にクライアントは世界有数のIT企業だった為、自分たちの企業の能力として何ができるのか、という実利的な議論を求め、クリエイティブはそのクライアントがそれをすることによる社会的インパクトや価値、効果の最大化についての意見といった、クリエイティブとして提供できるものでそれをサポートしていった。
幸い編集室のネットは生きていたので、当時まだ音声とチャットが主流だったWeb会議の拠点になった。APECとUSの責任者が議論し、時差を利用して24時間開発し続ける話が聞こえてきた。
クライシスレスポンス、という言葉が聞こえてきた。
パーソンファインダー、という言葉が聞こえてきた。
何かが急速に立ち上がりつつあった。
そんな歴史に残した方が良いんじゃないかコレ、みたいな議論の進行を横目に僕ら現場は、始まらない=解放されない試写に憤りを募らせながら、安否確認の電話に追われ、TwitterのTLに張り付いた。みんな薄々気付いている。放送すべき媒体枠は全部キャンセルでこのCMはお蔵入りだ。連絡がつかない家族がいる、自宅の家具が倒れた、まだ事情を知らない知人が海岸沿いの道を歩いている。無力な僕らは自分とその周りのことで精一杯だった。けど、隣の議論はずっと聞こえていた。
ああ、この感覚は知ってる。911の時にたまたま起きていて、リアルタイムで二機目が突っ込むのを見てしまったときの感覚だ。TVの中では世界を揺るがす事態が進行中なのに、親からは貴方には何もできることはないんだから早く寝なさい、と言われたあの時の感覚だ。
翌日、ようやく試写の中止が言い渡された。既に自分の判断で現場を離れたスタッフもいたが、誰も責めなかった。僕は当時はまだ未婚だったこともあり、友人知人の安否確認が終わった後は現場に残っていた。もちろん、正式に中止が言い渡されていないうちは案件進行中というのもあったし。でも少しだけ、隣の議論を聞いていたい気持ちもあったのは否定できない。
その後何の因果か、このクライアントの案件を10年にわたって頂いている。最近僕は広告以外のことをやっているので直接関わることは減ったけど、このコロナ禍においても社会的な責任を果たそうとしている姿を偶に目にする。心の中では彼らを応援しながら、自分にできることはなんだろう、と相変わらず問い続けている。
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