三島由紀夫の「金閣寺」から学ぶ、技術書への向き合い方
このエッセイを書いた動機
- 三島由紀夫の「金閣寺」が面白いと思っており、人にお薦めしたいから。
- 昼休みの雑談でこの話をしらた割と興味を持って聞いてもらえたので、広い場所で公開して反応が見てみたいと思ったから。
- ソフトウェア開発と三島由紀夫の「金閣寺」をリンクさせてエッセイや持論を展開している人いっぱいいるだろうなと思っていたが、思ったよりいなさそうだったので。
本題
「金閣寺」という小説をご存知でしょうか?
この小説は、1950 年に実際に起こった金閣寺の放火事件をもとに、三島が自身の思想を展開する作品となっています。高校生や大学生の時に何度か読もうとしては挫折していたのですが、エンジニアとして働いた経験がきっかけで読み切ることができました。そこで、このエッセイ[1]を通じて紹介したいと思います。
「金閣寺」のストーリーを一言で説明すると、主人公の青年僧が紆余曲折の末、金閣寺を燃やす話です。主人公は父親から金閣寺はこの世で一番美しいと教えられ、彼の中では途方もなく美しいものになっていました。ところが、初めて実際に金閣寺を見ると、あまり美しくなかったことにショックを受けます[2]。失望を抱えつつ郷里に帰ると、心の中の美しい金閣寺のイメージが蘇ります。現実の金閣寺と心の中の金閣寺の乖離が物語を進めていきます。その後、父が亡くなり、主人公は金閣寺の修行僧になります。主人公は金閣寺の老師の計らいを受け、大学進学をします。その進学先の同級生の柏木と出会い、彼の持つ「行動」ではなく「認識」で世界を変えるという思想に大きな影響を受けます。柏木に影響を受けて主人公は、認識を変えることで現実と折り合いをつけようとしますが、心の中の金閣寺が邪魔をしてなかなかうまくいきません。そして、紆余曲折の末、金閣寺を燃やす行動に移して物語は印象的な一節で終わります。
一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、生きようと私は思った。 [3]
「金閣寺」に出てくる金閣寺は、京都の寺院ではなく、絶対的な象徴として解釈すると面白いと言われています。当時、私は技術書に関する設計論をよく読んでいましたが、技術書にある設計論の通りに従わなければならないという強迫観念がありました。[4]
その時、私は「絶対的な象徴」を「技術書」と、また「燃やす」を「目の前のプロダクトと向き合って、技術書に書いてある今できることをやる」と読み替えました[5]。「金閣寺」と同時に、有名なエンジニアの方がツイートした「前に目の前のプロダクトの現実と向き合え。」という言葉もあり、私は技術書に関する悩みから解放されたと感じました。
三島の「金閣寺」と技術書との向き合い方を結びつけることは、正直かなり無理があるとは思っています。しかし、私は「金閣寺」を読んで、技術書を聖典として見るのではなく、あくまで行動を変えるためのツールであるという考え方に変わりました。
技術書の向き合い方に関する悩みを抱えている人は、三島の「金閣寺」を読んでみることをおすすめします[6]。
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ポエムかエッセイかでいうとエッセイだと思っていますが、ポエムのタグの方が活発なのでポエムのタグをつけました。 ↩︎
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今は金ピカですが、1950年当時は金箔がほぼありませんでした。 ↩︎
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三島由紀夫, 「金閣寺」, ISBN: 978-4-10-10504504, p.330 ↩︎
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前任者から引き継いだプロダクトのコードのpublicのメソッドがひどい時だと2,000行くらいあり、ドキュメントもなかったのでメンバーみんなが苦しんでいたので救いを求めていました。 ↩︎
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認識を変えつつ行動するになっていますが、真に対応する行動は何になるのでしょうか? ↩︎
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このエッセイには書かなかった悟りを開いた住職との話や面白い話がいっぱいあります。文体もかっちりしていながらレトリックも美しいです。 ↩︎
Discussion