自律と他律、そしてスラック
本章はマネジメントの章だが、そもそもマネジメントとデフォルト・リモートは相性が悪い。そこでマネジメントパラダイムを比較した上で、脱管理――マネジメントレスを目指そう、そのためのやり方や考え方としてトピック指向を使おう、そしてファシリテーションとスプレディケーションをもって支援しようと述べてきた。
さて、マネジメントレスにするということは、各自が自律的に動かねばならないことを意味する。しかし誰もが自律できるとは限らないし、普段できる人でもできないことがある。自律のフォローも考えなくてはならない。
自律と他律
自律という言葉を使っていくため、本節での定義から始めたい。自律とはベストエフォートが許された状況下で、自分ひとりでも「問題の無いペース」で行動することを指す。ここで行動とは、情報を出したり、タスクをこなしたりといったように他者が絡むものである。つまり問題が生じない程度に他者にパスをする、し続けるということをひとりで行えるのが自律だ。
当たり前の能力に聞こえるが、そうでもない。むしろ自律できる人の方が珍しい。社会人を含めても、自律できている人は 5% もいないだろう。もっと少ないかもしれない。個人的な話になるが、筆者は同僚からよく几帳面だとかレスが早いといわれる。象徴的だったのは「すべてのメッセージに答えてくれるので助かっている」との声だった。社会人なら当たり前ではないか、何を言っているんだとさえ思ったが、そうではなかった。それができるのは、単に私にある種の才能があって、かつ長年培ってきたタスク管理を始めとするスキルもあったからだ。当然ながら誰もができることではない。少し前にタスク管理の本を書いたが、思っていたより大作となってしまったし、これを書きながら、この内容を誰もが当たり前に知っていて実践できているかといわれると、そんなわけないよなぁとようやく腑に落ちたのである。この「世間とのズレ」は本書でも続いており、本書は「リモートワークくらい当たり前にできるでしょう」「むしろなんでできないのかが不思議で仕方がない」などと心底首を傾げる筆者が、腰を上げて言語化したものである。これくらいにしておくが、自慢がしたいのではない。むしろ辟易している。自律やリモートワークができなくても、泥臭く頑張って結果を出せる人達の方がよほど素敵ではないか。私はどちらも容易くできる力を持つかわりに、泥臭く行動して結果を出していく力がない。だからデフォルト・リモートを実現したくても、こうして読み物を書いて届けることしかできないである。そういうものだ。両取りできない力というものがある。
話を戻そう。自律できない人はどうすればいいか。他律するのである。他律とは外部の干渉に頼ることで自律性の無さをカバーすることを指す。人々が出社したがる理由の一つも他律にある。会社の自席につけば、同僚達がいて「場」ができる。自律する力がなくても、場に注目して、従っていけば何とかなる。会社に限らず学校もそうだし、集中するためにカフェや図書館に出かけるのもそうだし、何なら家族やシェアハウスなどで同居人がいることや、ペットがいることもそうである。
別の言い方をすると、他律とは自律性の無さを環境の力でカバーする(してもらう)ことである。環境には人やペットなど生物も含む。朝起きれない人が目覚まし時計をセットするのも他律だし、同居人に頼んで起こしてしまうのも、あるいはペットがうるさくて起きないといけなくなるのも他律だ。この例で自律的と言いたいなら、体内時計に従って何にも頼らず安定的に起きるくらいが必要だろう。あるいは、機械は非常に再現性が高いので、目覚まし時計だけで破綻無く続くなら自律的と言っていい。先述したリマインドも、まさに自律を促すものである。
自律の多様性
デフォルト・リモートにおいて重要なのは自律である。しかし他律的な人もいるため、カバーしなくてはならない。どうやるか。
結論を言うと、自律者(自律的な人)も、他律者(他律的な人)も、どちらも共存できねばならない。別の言い方をすると、自律者向けのマネジメントと、他律者向けのマネジメントを双方共存させる。これを 自律の多様性(Autonomy Diversity) と呼ぶ。
全体像の章でも述べたが、多様性とは n 通りのあり方が共存できることだと思う。単にこのようなマイノリティがあります、と知ってもらうだけでは意味がない。腫れ物になって終わりだ。実際に共存するためには、たとえば問題なくチームで働くためには、マイノリティの事情も踏まえたやり方と考え方の議論にまで踏み込まねばならない。今の文脈で言えば、自律者と他律者が共存できている状態こそが多様である。自律者優先で他律者が苦しむ、あるいは他律者優先で自律者が苦しむのは多様ではない。やり方や考え方を知らないと、どちらか片方に寄せるしかなくて、寄せられなかった側のすべてが割りを食う。日本では平等が好まれるが、平等とは単一の強要にすぎず、多様ではない。秩序や効率のために単一に寄せたがる気持ちもわかるし、状況次第では必要でもあるが、常時使えるほどの汎用性はもはやない。どちらに寄せる、ではなくて、どちらも共存できることを目指すべきである。
そのために、以下の三点を踏まえていく。
- 1: 自律者と他律者それぞれの過ごし方を存分に確保する
- 2: 自律者をデフォルトのあり方にする
- 3: 自律者と他律者間の協調と連携を整備する
この三点は自律と他律に限らず、共存による多様性の実現全般に適用できる。多様性の構成要素をアイデンティティ(この場合は自律者と他律者の二つ)と呼ぶとして、1 はアイデンティティ各々の尊重、2 は総体として何を第一にするかの定義であり、3 は各アイデンティティを損ねないために協調と連携の二つのアプローチから調整することを示している。本質的には役割分担の話であり、後の章で詳しく扱う。
では自律と他律の場合を詳しく見ていこう。
1: 自律者と他律者の尊重
まずは自律者と他律者、双方のあり方をどちらも尊重する。
自律者は非同期的な情報共有で良い。すでに自律的に動けるはずだし、そのためのスキルやリテラシーや習慣がなかったとしても勉強・鍛錬をしていける。むしろ、自律的に動けるのに他律的なあり方を強要される方がストレスとなる。そういう意味で、自律者のあり方とは、他律を課されずに済むあり方である とも言える。たとえばチームで進捗確認のために毎日 10:00 から朝会をやるとして、これの強要も他律的だ。自律者にとって、毎日 10:00 に会議するなど不便な制約でしかない。そんなことをしなくても、主体的に問題のないペースで報連相くらいはできる。
しかし他律者はそうもいかない。自律ができないからこそ、朝会という儀式をつくって、そこに参加しさえすれば済むようにしなくてはならない。会議の場であればメンバーが集まっているし、有限時間内に決められたアジェンダをこなさねばとの雰囲気もあるから、自然と熱も入る。何なら会議中にメンバーが問いを出す(ギビング)ことで、その問いに応える形で情報を出せばいい。場があるとギビングしやすい。マネージャーが n 人のメンバーの進捗を順に聞いていく会議はありがちだが、これはマネージャーが他律的なメンバーの世話を焼いているとも言えるし、他律的なマネージャーが自身の自律性の無さをカバーするための場をつくっているとも言える。そういうわけで、他律者には己の自律性の無さをカバーするための場と役割が必要である。
典型的には、自律者はフルリモート・フルフレックス(4)で済む。あるいは必要に応じてコミュニケーションも注入するが、いつ、どれだけ注入するかはその都度調整する(その結果として定例会議的に行うこともある)。一日一度も会議してません、一ヶ月一度も出社していません等も当たり前にように起きる。逆に他律者は従来の働き方と同様、それなりの拘束を伴う。自律性の度合いにもよるが、弱い場合はフル出社もありえる。ある程度強い場合は、週に一度くらい出社してコミュニケーションを重視するといったハイブリッドなスタイルで済むかもしれない。またハイブリッドであっても、週一で良い人もいれば週二、週三が欲しい人もいるし、普段は週一でもプロジェクトが忙しくて週四になることもある。だからといって週四を強要してはならない。自律性が比較的高い他律者であれば、週三以上は強いストレスになるかもしれない。
整理していこう。原則としてまとめると、次のようになる。
- 自律と他律のバランスは動的(Dynamic)である
- 同上、グラデーション(Gradation)でもある
- 加えて、それ以上は許容できず支障が生じるライン(Line または Limit)がある
バランスは動的なので変えていいし、グラデーションでもあるので同じ自律者でも程度は異なる。しかし守るべきラインを犯してはならない。この三原則を守れるように立ち回れたらいい。
自律と他律のバランスを論じるために、定義を追加したい。時間または場所の拘束が伴う状態を他律的という。出社、会議、イベント、その他通勤を含む移動はすべて他律的である。他律的でないことを自律的という。出社も会議もイベントも移動もなく、各自が自由に過ごせる状態と言い換えても良い。
これでバランスの指標を定義できる。拘束率(Bind Rate) とは、「仕事を行う可能性がある時間帯」における他律的状態の割合を指す。仮に 1 日 8 時間労働で、他律的な状態が 6 時間あるとしたら、拘束率は 75% だ。自律者は拘束率が低い方が望ましく、他律者は高い方が望ましい。また同じ自律者であっても、6.6%(30分/450分)と 23%(90分/390分)とでは全然違うことがわかるだろう。6% の人にとって、20% の拘束率は許容できないか、ストレスが有意に増えるラインかもしれない。逆に 20% の人にとって、6% の拘束率は少なすぎて、やはり支障が生じるかもしれない。
最適な拘束率は個人次第かつ状況次第であり、一律で決めるのは難しい。尊重にあたっては 自らソフトリミットとハードリミットを設定する のが良い。ソフトリミットとは超えてもいいが警戒すべきライン、ハードリミットとは超えてはならないラインを意味する。たとえば自律者としてソフトリミットを 20%、ハードリミットを 50% に置いたとすると、基本的に 20% は超えないよう過ごすべきだがやむを得ない場合は超えてもいい(おそらくパフォーマンスや QoL は落ちる)。それでも 50% は基本的に超えてはならない、とする。イメージとしては、ソフトリミットは「普段は残業しないけど業務上必要になったので仕方なくやる」、ハードリミットは「休日出勤する」くらいで捉えて構わない。いずれにせよ、最適なリミットは本人にしかわからないので、本人が決めるしかない。リミットが緩くてもいい、あるいは設定の必要性を感じない人は、おそらく他律的な人だと思う。適当に設定しておけばよい。極端にはソフトリミットを 100% としておけばいい――これは完全に他律的な状態であり、仕事時間≒拘束時間となる。現代の働き方はこの状態を求めがちだが、本書では見ての通り抵抗している。
話を戻そう。拘束率について議論したが、これだけでは平均的であり扱いづらいため、もう一つ、モードなるものを導入する。バインドモード とは拘束を積極的に使う時間帯や日を指す。ミュートモード とは拘束を使わない時間帯や日を指す。すでにミュートデイを述べたが、これは日中ミュートモードを適用することを意味する。同様の適用をバインドモードで行ったものが バインドデイ だ。モードとしては、一日(デイ)と半日(ハーフ)を使うといい。英語だとわかりづらいので、言い直して終日(デイ)と半日(ハーフ)と呼ぶことにしよう。つまり終日バインド、半日バインド、終日ミュート、半日ミュートが存在する。
このモードをどう使うかだが、自律者はなるべくミュートモードを増やし、他律者はなるべくバインドモードを増やす といい。というのも、拘束率だけでは以下の問題が生じるためだ。
- 拘束率は低いが、拘束のタイミングが細かく散らばっているせいで、自律的な状態でも集中しづらい
- 拘束率は高いが、拘束の時間が短い(自律的な状態になるタイミングが細かく散らばっている)せいで、いいところで中断になる
自律的な状態にせよ、他律的な状態にせよ、まとまった時間を取ることが重要である。別の言い方をすると「30分以上のまとまった時間を取ることができません」制約を課されたとしたらどうか。集中できないし、切り替え(コンテキストスイッチング)にも疲弊する。そうではなく、3時間ひとりで集中できますとか、今日は終日出社してて積極的に話しかけていい・会議していい日です、とした方がやりやすいはずだ。その単位として、半日と終日が使いやすいのではと言っている。別に1時間でも30分でも良いが、切り替えを舐めてはいけない。個人的には最低でも 90 分は欲しいと思う。
最後に、もう一つだけ定義したい。自律者にとってのミュートモード以外の過ごし方、他律者にとってのバインドモード以外の過ごし方を ウェルカム状態 と呼ぶ。ウェルカム状態のときは、基本的に自分の望む過ごし方をするが、他方の過ごし方を要求されたらその都度判断して調整する。自律者の場合、自律的に過ごしてはいるが、他律的な過ごし方も受け入れる余地をつくると言える。たとえば自律的に過ごしているときに、同僚からちょっと会話したいと言われたらその都度判断し、必要なら応じる(他律的な状態に移る)――と、当たり前に聞こえるかもしれないが、逆だとわかりづらいので逆の例も見よう。
他律者の場合は、他律的に過ごしてはいるが、自律的な過ごし方を受け入れる余地を持つ。たとえば、基本的に常に誰かとの会議をしている他律的なマネージャーがいるとして、ある会議でメンバーから「自律的な個人ワークが 30 分ほしい」といわれたとする。これは「自律的に過ごす時間を 30分 ほしい」という意味であり、もっと言えば「この 30 分は自由に過ごします」「そのかわりワークは自律的にやります」だ。マネージャーがこの提案を受け入れたとすると、マネージャーも 会議中でありながら 30 分だけ自律的な状態に移る ことになる。といっても、別の仕事をするのではない(してもいい)。マネージャー自身も、非同期的な情報共有をするのである。この会議に関するトピックがあるはずで、そこで追加の検討を行うなり、メンバーの検討の様子を読んだ上で助言や議論を考えておいたり、もちろんトピック上で非同期的にやりとりをしてもいい。ただし、自律的な時間であるため拘束してはならない。あるいは拘束しようとしても、メンバーはそれを無視できる(無理に無視する必要はない)。たとえばマネージャーがそのメンバーに声をかけても、メンバーは無視してもいい。なぜなら会話は拘束であるが、今現在はミュートモードであるため応える必要がないからだ(もちろん応えてもいい)。
いかがだろうか。拘束の考え方が染み付いている人には、ずいぶんと奇怪に映るかもしれないが、傲慢であると認識してほしい。自律者に歩み寄れていない。自律者に歩み寄るとは、ミュートモードを取り入れるということなのだ。逆の立場で考えてほしい。自律者に対して、ちょっと会話したくて声をかけたときに、「いや非同期的にトピックに書き込んでやりとりできますよね?」「会話する必要ないですよね?」と一蹴されたらどうか。これは自律者が他律者に歩み寄っていない構図であり、他律者のあなたが自律者に歩み寄っていないのと同じである。つまりウェルカム状態のときは、対抗するモードを受け入れる余地を持つ。その名のとおり、受け入れようとする姿勢を持つのである。
定義が続いてしまったが、これで揃った。まとめよう。
自律者と他律者の各々を尊重するために、以下の概念を導入・運用すればよい。
- 拘束率
- 自律者は低く、他律者は高い
- 同じ自律者(他律者)であっても、最適な率は違う
- 自身でソフトリミットとハードリミットを設定し、各々のリミットを尊重する
- モード
- 自律者はミュートモードを、他律者はバインドモードをなるべく使う
- モードとしては終日と半日がある
- まとまった時間を取ることが重要である。拘束率だけではまとまった時間を取れない可能性がある
- ウェルカム状態
- モードでない時間帯も、基本的には自分に合った過ごし方(自律 or 他律)をすればいいが、他方からの過ごし方を提示されれば受け入れる余地を持つ
- 受け入れるとは、自律者にとってはバインドモードに移ること、他律者にとってはミュートモードに移ることである
- 前者はわかりやすいが、後者はわかりづらいので要注意
2: 自律者をデフォルトのあり方に
共存するための第一歩、各々の尊重について見てきた。続いて二点目を見ていく。
組織として機能するためには、ベースとなるテネットを一つ決めねばならない。私たちは人間であり、認知能力に限界があるので、組織として統制と効率を手に入れるためにはテネットを揃える必要がある。二つも三つも存在していては、思うように制御できない。だからこそ、歴史的にも、宗教だろうと会社だろうと国だろうと、組織は必ず単一のテネットをベースに置いてきたし、その座を巡る戦いが常に起きる。戦争もそうである。
デフォルト・リモートとしても、この理から逃れることはできない。そしてリモートを推すあり方なので、ベースもリモートの方に寄せることになる。自律と他律で言えば、自律の方に寄せる。デフォルト・リモートは、デフォルトで(基本的には)リモートであるべきとするものだが、そのためにはデフォルトで自律的でなくてはならない。すでに述べてきたように、リモートとマネジメントは相反するため、マネジメントレスに寄せなくてはならないが、マネジメントしないということは、各々で自律するということである。自律性は避けては通れない。
といっても、他律者をないがしろにするわけではなくて、前節で述べたように各々尊重するバランスは確保している。前章でもコミュニケーションを廃するのではなく、必要に応じて注入するように修正してきた。それでもベースのテネットをないがしろにしていい理由にはならない。他律者も、なるべく自律性を身につけるべきである。
そのためには 鍛錬(Training)を取り入れる。鍛錬とは、スキルや素養を鍛えるために、地道で地味な練習をすることである。反復的な動作で筋肉を壊す筋トレ、タイピングゲームなどによるタイピングの練習などはわかりやすいが、同様の営みを、自律に関してもやる。自然に身につくものではないので、鍛錬の形で身につけてもらうしかないわけである。理想を言えば、鍛錬を意識させず楽しく身につけていければいいが、それは面白いゲームをつくることと同義であり、本書の範疇を超えるため割愛する。
鍛錬の話に戻そう。横暴で時代に逆行するイメージを持つかもしれないが、量と質次第だ。鍛錬という営み自体は、辛くはあるが有益である。組織パラダイムで言えば、ティール組織はオンボーディングの形で積極的に取り入れることが多い。ティール組織では自律的な小集団が自由に連携することでネットワーク構造を形成するが、ネットワーク全体の秩序を保つために、社内憲法のようなガイドラインを周知する。これを周知するために、オンボーディング時にしっかりと叩き込む。横文字的で目新しく映るが、要は研修である。研修というと新人に課すニュアンスが強いと思うが、そうではなく、社員全員に課すのである。あるいは一度課して終わりではなく定期的に課すし、何なら守れていないと思われる人にも課したりする。学校や軍隊での過ごし方に近い。もちろん安易に拘束と負荷を増やして詰め込めば良いというものでもない。
鍛錬を取り入れるためには、自律者が当たり前に行えていることを言語化・体系化した上で、研修や個別フォローとして提供する体制を整えねばならない。テネット、やり方と考え方、ソフトウェアなど道具の使い方まで、鍛錬内容は多岐に渡るはずだ。一週間くらい丸々費やしても不思議ではない。一方で、大企業でもなければ、長期的な集中鍛錬は難しいし、そもそも集中的な鍛錬はそれ自体が他律的なものであり、ともすると本末転倒となる。
つまり デフォルト・リモートをなるべく損ねない形で自律性を手に入れるための鍛錬の体系 が求められる。本書として提案したくもあるが、長くなるため割愛する。いくつかヒントを挙げておきたい。
まずは自律的な鍛錬方法がほしい。鍛錬というと集合的に行うことが多いが、これ自体が他律的であり自律者にそぐわない。たとえば教材を動画で提供して、各自好きなタイミングで鍛錬できるようにするといい。自律者であれば、それだけでも必要な鍛錬を行える。他律者には厳しいだろう。自律的な鍛錬方法は、自律者に他律的な過ごし方を強要しないためのものである。
次に他律的な鍛錬方法は恒常的に確保したい。入社時に一度だけ、ではなく任意のタイミングで使えるようにしたい。もちろん鍛錬を受けるために申請だの費用だのといったハードルがあってはならない。全社員誰でもいつでも自由にいくらでも受けることができる。デフォルト自律は重要なのだから、デフォルト・リモートをやるのであれば、会社として投資しない理由はない。問題は鍛錬の頻度で、わかりやすいのは定期開催だが、これだけだとカバーしきれない。
そこで 鍛錬イベント の開催を開放するといい。社員はいつでも誰でも「今から~~の鍛錬を 20 分くらいします」と鍛錬のための催しを開催できる。開催情報は全社員が見ることができ、誰でも参加離脱は自由に行える。たとえば Cosense や Notion などの同時編集を鍛えたいとして、「Cosense もくもく練習会」や「Notion で会話してみる会」を開催するといい。イベントは開かれているので、いつ誰が入ってくるかはわからないが、それでいい。最悪ひとりで鍛錬することになるが、開かれてはいるので単にひとりでやるよりも気が引き締まる。似た取り組みとして「もくもく会」があり、参考になるかもしれない(7)。
注意点としては、あくまでも鍛錬のためのイベントであって、交流ではない ことだ。自己紹介や雑談は不要どころか、省くべきである。基本的には「ひとりで鍛錬する人」が単に集まるだけの、まさにもくもく会的なスタイルが良い。そうではない協調的なイベントの場合、ファシリテーションを相当きつくしなければならない。おそらく前述した Facilitation As Code が必要になる。人間によるファシリテーターでは難しいだろう。
ここで「別にそこまでストイックでなくてもいいのでは」「それなりに楽しく鍛錬できたらそれでいいのでは」と思われるかもしれないが、良くない。スポーツやゲームなどで鍛錬する人はわかると思うが、鍛錬は短時間で負荷をかけるものだ。そうでなくては身につかないし、身につくにしても時間がかかりすぎる。研修のような強制集合型以外のやり方で、現実的にスキルや素養を上げるには、数十分以内の短時間で高付加なイベントを各自のペースで使う形にしなければならない。鍛錬イベントは娯楽的な部活動ではなく、社会人として仕事に従事するプロフェッショナルのトレーニングなのである。
いったんまとめよう。自律性を鍛錬するためのアプローチとして、以下二点を述べた。
- 1: 自律的な鍛錬方法
- 2: 他律的な鍛錬方法
- オンボーディングや研修等、従来から知られる本格的なもの
- 鍛錬イベント
これらを駆使すれば、自律者にも他律者にも尊重した鍛錬が可能となる。万人が自律性を鍛えていけるはずだ。
しかし適性の壁は無視できない。自律性にはある種の特性や才能が絡む。極端な話、ADHD の多動性など自律と相性の悪い特性があったり、逆に ASD のこだわりの強さが自身のライフスタイルに向いた場合は、アスリート顔負けの自律的な生き方を難なくこなせてしまったりする(才能の域と言えよう)。どちらも発達障害のカテゴリーだが、白黒で論じれるほど単純ではないし、程度の差はあれど割と誰にでも当てはまる。当然ながら定量的に測るのも難しい。難しいが、難しいだけであって、適性というものはたしかにある。できる人は容易くこなせるし、できない人はどれだけ頑張ってもできない。
したがって、体育会的な「やればできる」「できるようになるまで頑張れ」は望ましくない。ベストエフォートでいい。特にデフォルトで自律的にしたいので、他律者たちがどれだけ自律性を身につけられるかが争点となるのだが、これも可能な範囲でいい。そもそもやる気が全く起きなくて鍛錬したくないならそれでもいい。そのような人に鍛錬を強要してはならない。ならないのだが、それでもデフォルトで自律ではあるので、なるべくやってもらいたくはある。
一般化すると、人材は以下の 4 つのタイプに分かれる。
- 1: 自律者
- 2: 他律もできないことはない自律者
- 3: 自律もできないことはない他律者
- 4: 他律者
1 が最も自律的で、4 が最も他律的である。1 と 4 は直接関わるのは難しい。というのも、他律者は自律者が使う非同期的な情報共有を行えないからだ。使うスキルや言語能力があったとしても自律的に動けないので、仕事として成立するレベルでこなせない。逆に自律者は他律者が使う同期的なコミュニケーションを行えない。あるいは行いたくないのでやり方で揉める。そこで、どちらもできる 2 や 3 のタイプが仲介に入ることになる――と、要は 役割分担の話に帰着させて、上手く連携させればいいのである。4 の他律者に、1 の自律者のようになれと強要したり、逆に自律者に他律者を強要したりするのではない。特にデフォルトで自律的だからといって、1 を強要していいものではない(なるべく 3 や 2 になってほしくはある)。できないものはできないと認めて、許容して、その上で連携を考えるのである。
3: 自律者-他律者間の協調と連携
ここまでで自律者・他律者をそれぞれ尊重すること、しかし自律をデフォルトにすることを述べてきた。デフォルトつきの尊重を実現するためには、協調と連携が必要である。
協調とは、相手のやり方に歩み寄ることを指す。また連携とは、役割と仕組みで工夫することを指す。どちらも先述済だ。協調についてはウェルカム状態を取り上げたし、連携については、さきほどかんたんに 4 つのタイプを取り上げた。自律と他律、と単純に二分割するのではなく、グラデーションだと考えてもう少し幅を持たせるとやりやすい。たとえば 4 つにするだけでもだいぶ違う。両極端の 1 と 4 だけでは上手くいかなかったものが、間に 2 と 3 を設けることで連携しやすくなる。自律者と他律者の連携方法に正解はないが、参考までに一つのやり方を述べておく。
非同期的な情報共有を前提とした上で、以下のように分担する。
情報の出し方をタイプ別に定める
1の自律者は、各自で自律的に動いて情報共有をする。場には参加しない。
4の他律者は、従来の働き方と同様、出社や会議といった「場」に参加する形で、その場において情報を出す。場で完結しており、情報共有はしない。
これだけでは両者が歩み寄れないので残りでカバーする。
2の「他律もする自律者」は、基本的に自律者のように振る舞うが、必要に応じて場に参加することもできる。特に、場に参加しながら情報共有をする。たとえば会議に参加しながら、あるいは出社して雑談している最中でもリアルタイムに情報共有をする。
3の「自律もする他律者」は、基本的に他律者のように振る舞うが、必要に応じて自律的に情報共有もできる。ただし 2 と違って、他律がベースなので、場に参加している間はその場に集中する。情報共有は参加後、空いたときなどに行う。
このように分担すると、どのタイプも自分に合った過ごし方ができる。典型的には次のようになるだろう。
- 4の他律者は、作業やタスクといった「典型的な仕事」に集中する
- 1の自律者は、典型的な仕事よりも、改善・新規・整備といった「中長期的な取り組み」に集中する
- 2の他律もする自律者は、自律者から他律者への橋渡しを行う(他律者のために、自律者の情報を届ける)
- 3の自律もする他律者は、他律者から自律者への橋渡しを行う(自律者のために、他律者の情報を届ける)
現状では典型的な仕事をすることがまず絶対条件であり、加えて中長期的な取り組みも片手間でやらされるケースが多い。そうではなく、役割として分けてしまうわけだ。
典型的な仕事は、場に集まりたがる他律者の方が強い。ならば任せればよい。そのかわり、中長期的な取り組みという面倒なことはしなくていい。その分、典型的な仕事を頑張ってもらう。従来どおり会議に、コミュニケーションに、締切に、と疲れるだろうが、仕方がない。逆に自律者は、典型的な仕事が免除される分、中長期的な取り組みにフルコミットせねばならない。典型的な仕事の大変さはないが、かわりに正解がない中、調査や検討、言語化、それらを上手く見せたり整理したりといったことを続ける辛さがある。また出した情報へのフィードバックや議論も多いので、反論や批判に耐えるメンタルも求められる。そして、両者を繋ぐ存在として 2 と 3 を使う。もちろん 1 の自律者が他律的になってもいい(常態化すると 2 になる)し、4 の他律者が自律的になってもいい(常態化すると 3 になる)。また他律者が中長期的な取り組みをしてもいいし、逆に自律者が典型的な仕事をしてもいい。
ただし、他律者は自律的には動けないので、「検討事項が 30 個あって、締切もないけど、自己管理して全部できるだけ検討しつくしてね」なんてことはしなくていいし、逆に自律者も他律的には動けないため、「毎週金曜日は出社日なのでよろしくね、また毎日朝会と夕会があるので参加してね」等には従わなくていい。それでも、非同期的な情報共有が前提であれば、必要な情報は出ているので問題はない。自律的に動けないからダメ、出社しないから・会議に参加しないからダメということではないのだ。そんなものはやり方にすぎず、自分に合うものを使えばいい(というより 合わないものは使わなくていい)。そのための役割分担なのである。
恒常的な余裕
マネジメントするということは、マネジメントするための時間を捻出するとも言える。ここまでマネジメントレスのあり方を整備してきたが、捻出するべき時間がなくなるわけではない。というのも、マネジメントレスとはマネジメントの主体を自分自身にシフトさせただけにすぎないからだ。より正確に言えば セルフマネジメント にすぎない。マネジメント自体は消えていない。マネジメントするための時間の捻出も引き続き必要となる。
スラック
ここでスラックの概念を使う。スラックというと、いくつかの書籍が扱っているテーマでもある(5)が、ここでは別途定義したい。
スラック(Slack) とは、自由に過ごせる余裕時間を指す。できれば拘束が無いのが望ましいが、あっても構わない。たとえば出社している(オフィスという場所に拘束されている)状態であっても、1 時間のスラックを取ることはできる。スラックの間は、いかなる割り込みも発生しないか、しても無視できる。もっと言えば仕事をしなくてもいい。リモートの合間にやるような家事やネットサーフィンや散歩も堂々とできるし、上司やメンバーへの作文も要らない。文字通りの余裕時間だ。資本主義的なテネットでは、空いた時間は少しでも回そうとしがちだが、スラックの考え方では許容しない。従業員の権利として一定のスラックを保証し、かつ、差し込めるなら積極的に差し込んでもいいと考える。先述のモードでいうと、バインドモードとミュートモードの他にもう一つ、スラックモードがあると考えればいい。昼休憩はよく知られたスラックモードだ。
スラックの量だが、昼休憩だけでは到底足りない。昼休憩とは別に、1 日 1~2 時間のスラックが欲しい。昼休憩の 1 時間も含めれば、1 日 2~3 時間のスラックが 業務時間の中に 存在することになる。これだけあれば、自律と他律のバランスは調整しやすくなる。昼休憩のように仕事をしない休憩時間として使ってもいいし、他律者が自律的な鍛錬に充ててもいいし、もちろんバインドモードやミュートモードをして仕事に励んでもいい。特に他律者はビジー――目の前の仕事で手一杯となってしまい、デフォルト・リモートの足を引っ張ってしまうため、スラックを入れてビジーから引き離してやらねばならない。もちろん仕事上、ビジーがやむを得ない場合や、自ら望んでそうありたい場合はそうすればいいが、それは単に自分のスラックを使えばいいだけである。昼時が忙しい場合は、14 時くらいまでバリバリと仕事をして、その後で 1.5 時間のスラックを使って遅めのご飯を取りつつ、ゆっくり休むことも堂々とできるのだ。
ビジーは悪
スラックと聞くと、単に時間の一部を開放したように聞こえるが、少し違う。デフォルト・リモートに必要な諸活動のために、各自に使ってもらうことを期待している。デフォルト・リモートの肝はセルフマネジメント――自律的に情報共有を行うことであり、文字通りの IT リテラシーを用いた、読み書きの営みになる。それなりに疲れるし、切り替えや集中も要る。まとまった時間(モード)でなくてはならず、細切れの時間など論外だ。
また、モードであっても、ビジーであっては意味がない。ビジーな状態では非同期的な情報共有などできやしない。ビジーは敵だ。切り離さなくてはならない。だからスラックを使う。最悪仕事をしなくてもいい余裕時間、という概念を意図的に導入している。こうして半ば無理やりにしてもスラックを確保することで、ようやくスタートラインに立てる。
もう一度言う。非同期的な情報共有という、デフォルト・リモートにおける普段の文脈では ビジーであること自体が間違っている。ビジーに溺れてしまわないように、スラックを確保せねばならない。与えられたスラックを使ってビジーになるのは自由だが、ビジーだからセルフマネジメントできませんという言い訳は(前述の他律者タイプ以外には)通用しない。仮にデフォルト・リモート的なティール組織をつくったとすると、セルフマネジメントができない者は解雇し、セルフマネジメントの余地なくビジーなあり方を強要する顧客やパートナーとは距離を置かねばならない。それほどに重要である。現時点でできないならば、できるよう従業員を鍛錬したり、顧客やパートナーを説得、何なら対峙もする。
「それで仕事が成立するものか」と思う人も多いだろう。する。そもそも仕事に正解などなく、常に決めの問題でしかない。デフォルト・リモートが成立するように仕事をする、と決めればいいだけだ。これができないのは、単に前時代的なテネットにとらわれているからにすぎない。もちろん使い慣れてて成果も出ているテネットに依存するのはわかるし、短期的にはベターなのもわかるが、本書ではそれをよしとせず、第三のパラダイム「リモート」にシフトするべきと述べている。成立する・しないの問題ではなくて、するようにしろ と言っている。そのためのテネット、やり方や考え方、道具を本書にて解説している。
まだ足りないならもう一つ、筆者が タートル・パラドックス と呼ぶ現象を取り上げよう。ウサギとカメは、一見するとウサギが早いし、短期的にはその通りだが、中長期的にはカメの方が早く(長く)なる。カメは持続的だからだ。これを一般化すると、持続するための準備をしっかり行った上で進んでいった方が、すぐに飛び出す短絡的なやり方よりも進めると言える。プログラマーや作家は心当たりがあるだろう。馴染みがないなら旅行や引っ越しでもいい。設計、プロット、計画といったものをちゃんとつくった方が、最初は遅いが後々持続的に進み続けられるはずだ。もちろん当初のとおり進行することはなく、変更は入るが、それもキャッチアップできる。かつ、しっかり準備しておけば破綻せずに変化し続けられる。ビジネスでは品質とスピードはトレードオフというが、違う。単に未熟なだけである。準備して、整備しながら進めば、中長期的に見れば品質もスピードも両立できる。
従来の働き方ではこれができない。本質的に搾取的だからだ。歴史を見てもわかるように格差が生じて緩やかに衰退するか、あるいは格差はあるが、上位側もがんじがらめとなり(恒常的にビジーで)身動きが取れず組織や社会の奴隷になる。少なくともボトルネックになる。デフォルト・リモートは、この前時代的なやり方に終止符を打つ一手でもある。ここまで見てきたとおり、実践していくのは並大抵ではないが、破綻なく持続していけるポテンシャルがある。もちろん、本書の内容が唯一の正解とは思わないし、そんなはずもないが、たたき台にはなろう。何ならハリセンである。前時代的な読者をぶっ叩いて、目を覚ましてもらおうとしている。いかがだろう、覚めただろうか。
もちろん、この主張は今すぐビジーを完全に捨てろと言っているわけではないし、ビジー自体が完全になくなるわけではない。どこかで誰かがやらねばならないときはあるし、やりたい人もいる。それは他律者として尊重すればいい。ただ、ビジー・デフォルトにしてはいけないし、今はなっているので解体するべきだと言っているだけである。
スラックの運用方法
業務時間中に、昼休憩も含めて 1 日 2~3 時間のスラックが欲しいと述べたが、これは一例である。細かい運用方法は各自で調整すればいい。本項でもいくつか述べよう。
たとえば スラックタイム が使える。前章にてコミュニケーションタイムを取り上げた。「何らかのコミュニケーションを行うための時間」を設計して、必要に応じて注入するものだ。これと同じことをスラックでもやる。現状でも、昼休憩はすでにそうなっているだろう。昼休憩はおそらく 12:00~13:00 の 1 時間だと思うが、これはスラックタイムとして 12:00 ~ 13:00 を確保していることに等しい。
となると、スラックタイムの分は給料を出さなくてもいいか、と思いがちだが、そうではない。業務時間の一部ではあるのだから、出すべきだ。そういう意味では、現状の昼休憩は(給料が出ていないという観点では)スラックではない。もちろん、昼休憩も給料を出すからといって、今後はセルフマネジメントを頑張ってね、というのでは意味がない。単に従業員の負荷が上がっただけだ。そういうけちくさい搾取はやめて、やはり 2~3 時間をドンと確保してほしい。とはいえ、労働基準法では所定の休憩時間を一斉に取ることが定められており、スラックタイムを休憩とみなすのは難しいだろう。仮にできたとしても、他律者は自分で休憩を差し込めず過労になりがちだ。スラックの他にレスト(Rest)を設けるといい。スラックは仕事も可能な余裕時間だが、レストは仕事を禁止する余裕時間 である。他律者に休んでもらうための業務命令的な(他律的な)休憩と言える。オフィスでやるなら、たとえば 12:00 ~ 13:00 をレストタイムとみなして、フロアへの立ち入りそのものを禁止するといったレベルの施策になる。効果は高いが、自分で休める自律者にとっては不便な制約となる。
スラックタイムとスラックモードの違いも取り上げておこう。スラックタイムは、スラックするための時間(時間帯)であり、会社やグループや個人が定義した上で、他者に参加してもらう形態を取る。会社として 11:00 ~ 14:00 をスラックタイムにしますと一律に決めることもできる(他律的であるためデフォルト・リモートとしては望ましくない)し、マネージャーがメンバー全員にこのリズムで取りましょうとしてもいい(これも同様に望ましくはない)し、個人がマイルールを運用してもいいし、そのマイルールをスケジューラーで公開して他の人も使えるようにしてもいい。いずれにせよ、スラックするための時間として言語化されており、他者も使えるようになっている。一方、スラックモードは、単に自分がスラックを過ごすだけだ。いつ、どれだけスラックを使うかは自分が適当に決めればいいし、それを公開する必要もない。メリデメを比較しよう。
- スラックタイム
- ⭕ 自分の状態を他者に伝えられる、自分の過ごし方をノウハウとして共有できる(Spend Knowledge)
- ❌ 言語化や共有の手間がある、ともするとマネージャーや経営者が一律に課して他律的になりがち
- スラックモード
- ⭕ 言語化や共有の手間がない、他律に陥りにくい
- ❌ 相手の状況がわかりづらく拘束しづらい、他律的な人は自分でモードをコントロールできない(ので働きすぎてしまう or サボりすぎてしまう)
もう一つ、テネットとして ワーク・ライフ・スラック(Work-Life-Slack) も取り上げておく。
ワークライフ系の用語としてワークライフバランス(ワークだけでなくライフも重視しよう)、ワークアズライフ(6 ワークとライフのバランスではなく報酬とストレスのバランスを主体的に設計する)、ワークインライフ(ワークはライフの一部でしかない)などがあるが、どれも余裕が欠けている。たとえばプライベートも忙しい人は、人生そのものが忙しい状態になる。これではデフォルト・リモートのために時間を使うこともできないし、そもそもテネットややり方や考え方と向き合うことすらできない。余裕を、物理的にある程度確保することがそもそも重要である。ワークとライフの二要素ではなく、ここにスラックという第三の要素も並べるのだ。仕事と私生活、このレイヤーにスラックが並ぶ。
スラックとはそれほどに重要な概念だし、この視座でスラックを採用することによって、人生の捉え方そのものが変わる。スラックを前提とした立ち回りになる(ならざるをえない)。まさにテネットが変わるわけだ。そういう意味では、組織でスラックを導入するのが難しい場合は、まずは個人的な人生に導入して練習してみてほしい。
まとめ
- そもそもリモートとマネジメントは相性が悪い、マネジメントレス(脱管理)を目指すべき
- マネジメント 1.0 から 3.0 へ
- 1.0、やり方の管理
- 2.0、成果物のレビュー
- 3.0、状態のモニタリング(理想状態の維持)
- トピック指向により話題を部品化して扱っていく、積み上げていく
- マネジメントの代わりに意思決定とファシリテーションを使う
- コミュニケーション、ドキュメンテーションの他に、スプレディケーション(発想法的な営み)も使う
- 現状キラーアプリがないのが課題
- 自律の多様性
- マネジメントレスで自律的に動ける人ばかりではない人達も存在する(他律者)
- 自律者も他律者も双方尊重した上で、上手くいく連携を考えねばならない
- 自他のタイプを理解することと、連携するための役割分担を設けること等
- スラックの必要性
- マネジメントレスとはセルフマネジメント(自己管理)であり、自己管理のために使うスラック(時間その他の余裕)が必要
- ワークとライフの二軸で語られがちだが、ワーク・ライフ・スラックの三軸にしてもいいくらいに重要