なぜ私はHHKB Pro2でしか思考できないのか
第0章:初投稿のご挨拶+導入
はじめまして。Zenn初投稿になります。
せっかくなので、自分の思考と切っても切り離せない「HHKB Pro2」という道具について、
20年近く向き合ってきた立場から、真面目に書いてみることにしました。
技術的なレビューではなく、「なぜこの道具でないと思考できないのか?」という視点からの記録です。
第1章:はじめに ― 思考と道具の話
「キーボードなんて、どれでも一緒だろ?」
そう思っていた時期が、私にもあった。
けれど20年が経った今、私はHHKB Pro2でしか思考できなくなってしまった。
これは比喩ではない。実際、他のキーボードを前にすると思考が詰まる。思考の流れが、打鍵の感触と一致しないのだ。
タイピングは単なる入力手段ではない。私にとっては思考の流れそのものだ。
だからこそ、どの道具を使うかは思考そのものに直結する。そして私は、HHKBという“構造体”に思考を委ねている。
本稿では、HHKB Pro2と20年付き合ってきた中で見えてきた、
「道具が思考を形づくるとはどういうことか」について、真面目に、そして少しだけふざけながら書いていきたい。
第2章:HHKB Pro2との20年 — 軌跡と信頼
HHKBとの出会いは、大学院時代だった。
当時は論文と向き合う日々の中で、タイピングの重要性が静かに高まっていた。
アウトプットの速度や正確性だけでなく、「打つ感触が思考を導く」という感覚に気づき始めていた頃だ。
HHKB ProとPro2の両方を手に入れたのは、完全に“沼の入口”だった。
最初はProの潔いデザインに惹かれたものの、Pro2の打鍵感に触れたとき、すべてが変わった。
キーを押すたびに返ってくる“音と手応え”が、自分の中の何かとぴたりと一致した。
打鍵が思考のリズムになった瞬間だった。
その後、Proは先輩に譲ることになる。
退職時に「これはあなたに使ってほしい」と自然に思えた。
Pro2は手元に2台残った。ひとつは無刻印。もうひとつは刻印モデル。
いまでも毎日この2台を、用途に応じて使い分けている。
無刻印モデルは職場で使う。
他人にキー操作を見られない安心感が集中を生む。誰にも見られない、自分だけのタイピング空間。
刻印モデルは自宅用。構造が可視化されていることで、思考を“再設計”したいときに使う。
どちらも、自分の思考にとって欠かせない役割を担っている。
今でも毎日、HHKBに触れている。
キーが壊れたことは一度もない。むしろ、馴染みすぎて手が先に動いてしまう。
この20年、思考に詰まったときも、言葉が出ないときも、HHKBだけは変わらずそばにあった。
だから私は思う。「信頼できる道具」とは、機能でも価格でもなく、沈黙の対話が成立する相手のことなのだと。
第3章「なぜ他ではダメなのか」
選り好みしているつもりはない。
でも正直に言うと、HHKB Pro2以外で「思考が流れた」と感じたキーボードは、いまだに存在しない。
RealForceは、惜しかった。
作りは素晴らしい。信頼性も高い。なのに…軽い。どこまでも軽い。
打鍵時の指先の跳ね返りが、どうしても私の思考とズレていた。
考えるという行為は、ある程度の抵抗と摩擦が必要なのかもしれない。
指が“するん”と滑ってしまうと、思考も一緒に滑ってどこかに行ってしまう。
そして配列。
私は完全な英字配列原理主義者である。
日本語配列に対しては、ほぼ宗教的なレベルで拒否感がある。
JIS配列を使うと、頭の中で「なぜここにこのキーがある?」という構造的ツッコミが止まらなくなってしまう。
その混乱は、思考のリズムを確実に断ち切る。
思えば、HHKBのキー配列は私にとっての“思考構造そのもの”だ。
ホームポジションからほとんど手を動かさずに済む配置。無駄なキーを削ぎ落としたミニマリズム。
あれはただの物理的配置ではなく、自分の中にある思考回路の地図と対応している。
他のキーボードを試しても、「このキーにアクセスするのに一瞬迷う」──それだけで、思考のテンポが壊れる。
その“ほんの一瞬”が、思考を逃してしまう感覚は、使っている人間にしかわからない。
だから私は、HHKB以外では思考できない。
それは機能やスペックの問題ではなく、「身体感覚としての思考」が成立しないからだ。
道具は思考の延長である
打鍵は、ただの入力ではない。
それは自分の内部で生まれた思考が、物理世界に着地する「最初の接点」だ。
だから私は、タイピングの感触にこだわる。
HHKB Pro2の打鍵音、跳ね返り、キーのストローク──それらすべてが「考える」という行為の延長になっている。
スペースキーとコントロールキーを押すときに感じる、あの指先の快感は、
もはや思考のリズムと一体化していると言っても過言ではない。
特に無刻印モデルは、自分だけの思考空間を保つための道具だ。
キーに文字が印字されていないというだけで、外部からの視線が排除される。
視線が入らないことで、思考が純粋に内向きになる。
見えないという状態が、むしろ思考の深さを引き出すのだ。
刻印モデルは逆に、可視化された構造を使って思考を再整理したいときに使う。
可視化された配列が、構造的な発想やドキュメント作成時の“構造意識”を高めてくれる。
これはまるで、「見える思考」と「見えない思考」をモードで使い分けているようなものだ。
つまり、HHKBは道具であると同時に、「思考状態のトリガー」でもある。
打鍵感・視覚性・身体の反応、そのすべてが思考の品質に直結している。
そしてその連動性の高さこそが、20年経ってもHHKBを使い続ける理由であり、他では代替できない核心でもある。
考えるという行為が、道具とこれほどまでに結びついていること。
それを知ってからというもの、私は「どんなツールを使うか」に対して、少しだけ慎重になった。
ツール選びは、思考構造のデザインである。
第5章:おわりに — HHKBから見えてきた、自分の思考のかたち
ここまで読み進めてくださった方は、
「この人、キーボードに人生かけすぎでは?」と思われたかもしれない。
でも私にとって、HHKBはただの道具ではない。
これは、自分の思考そのものに近い。
言い換えれば、「HHKBを通してしか見えない景色」と言うものが確かに存在するのだ。
20年前にPro2を選んだとき、そこまでの意味はなかった。
けれど長く使い続け、日々の思考をそこに通すことで、HHKBはただの道具を超えて、
私の「思考の輪郭」を写し出す鏡のような存在になった。
日本語配列を前にすると思考が乱れることも、RealForceが“惜しい”と感じたことも、
実はすべて、「自分の思考の特性がどこにあるか」を教えてくれた体験だった。
そして今でも、Ctrlキーとスペースキーを押した瞬間に「あ、今日は考えられる」という感覚がある。
それはもはや、私にとっての思考のトリガーなのかもしれない。
HHKBが未来永劫使えるかどうかはわからない。
けれど、「自分の思考と本当に相性のいい道具は、何にも代えがたい」という感覚は、今後も大切にしたいと思っている。
これが、なぜ私がHHKB Pro2でしか思考できないのか——その理由である。
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