プロジェクト引継ぎマニュアル:まずはプロジェクトを引き継げるという幻想を捨てろ
はじめに
この記事ではシンプルな前提から、現実的な引継ぎのプロトコルを導出する。
結論だけ見たい人は『ではどうすればプロジェクトをうまく引き継げるのか』をご覧ください。
前提
引継ぎという行為を以下のように定義する。
【定義】
業務(task)の引継ぎ(handover)とは、前任者が行っていた業務を後任者が十全に行える状態にすること、またはその状態にしようとする行為を指す。プロジェクト(project)とは複数の業務からなる集合で、プロジェクトの引継ぎとはプロジェクト内で前任者が担当するすべての業務を後任者に引継ぐことを指す。
より抽象的には、引継ぎとは時間を隔てた作業者(worker)間の情報の伝達である。過去における業務
すなわち、タスク
逆に
作業者
情報量条件をもう少し深く解釈する
情報量は負になることはない。
また、過去の作業を再現する場合、未来でも同じだけの情報量が必要になると考えるのであれば、以下の条件は仮定してよい。
未来時刻
したがってプロジェクトが引継ぎ可能であるかどうかを決める変数のうち、プロジェクト側でコントロール可能なものは引継ぎ情報
一般に情報は
- 変換
- 伝達
などによって失われる。ゆえに
であると考えたほうがよい。より具体的には、
-
とA が同一人物であればB - タスク
の情報をメモに変換する過程で情報が失われるx _ s - 過去の自分から未来の自分に記憶を介して情報伝達するとき、忘却することで情報が失われる
- タスク
-
とA が異なる人物であればB - タスク
の情報をドキュメントに変換する過程で情報が失われるx _ s -
からA に情報を伝えるとき、伝え忘れたり誤った情報を伝えることで情報が失われるB
- タスク
といった伝送ロスが発生する。
これがどういうことかを解釈すると、
- 作業者
が言われたことを十分にこなす能力さえ持っているならばB - 作業者
は作業者B の指示通りに業務を行い、その業務を完了できるA
という状態である。この条件が満たされているかをもっとも簡単に確認する方法は、実際に作業者
むしろそれ以外の手段では確認が難しいことから、実際に作業者
この前提を認めるならば認識を改めるべきこと
まず引継ぎという作業自体に成功と失敗が存在し、無条件に成功するものではない。明確に成功条件を満たさなければ失敗するものである。引継ぎが成功する前提に計画を立ててはいけない。
引継ぎのための仕組みが作られていない組織での引継ぎ成功率は、体感5割程度である。
私が引継ぎを命じられた業務は歴戦のサラリーマンに比べれれば少ないかもしれないが、通常の苦労の範囲で引継ぎが可能であった業務は5割程度に留まる。3割程度は作り直しが必要、2割程度は再現が不可能であると上司に進言することになった。
引継ぎの責任は誰にあるべきなのか
引継ぎが失敗した場合、その責任は誰にあるのか?
一般に、労働者は自分に責任のない業務はやらなくてもよい。責任という言葉をどう捉えるかは人によると思うが、この記事では責任を以下のように定義する。
【定義】
責任者(person in charge)とは、業務に対して割り当てられるものであり、以下の条件のうち1つ以上を満たすものである。
- その業務に対して主体的に取り組むことを命じられている。
- その業務を正常に提供し、または改善することを期待されている。
- その業務の継続可能性について判断する権限を持つ。
- その業務が停止または継続不可能となった場合に不利益を被る。
- 不利益とは、復旧措置を実施する、代替手段を探す、異動や処罰の対象となるといった、当人にとっての負担の増加を指す。
責任(responsibility)があるとは、その業務の責任者であることを指す。
つまりその業務について責任がない者とは、言われたことさえやっていればよくて、業務の継続や改善を誰からも期待されておらず、業務の継続可能性について意見できる立場になく、業務が停止したり継続不可能になっても何の不利益もない者である。
その業務に対して責任がない場合、一般に労働者は自分に責任がある別の業務を優先する。また、労働者が自分が行う全体的な業務量を最小化したい場合は、自分に責任のない仕事を行わないことで達成される。逆に言えば、労働者の裁量で実施しない判断ができる業務がその労働者にとって責任のない業務である。
引継ぎの文脈に戻ると、一般に前任者はその業務を後任者に引き継いだ時点でその業務への責任を解除される。したがって引継ぎが完了した時点でその業務の責任者は後任者となる。
ここまでは明確であるが、問題は「引継ぎという業務自体の責任は誰にあるのか」という点である。
引継ぎが行われなかった場合に不利益を被るのは後任者である。一般に引継ぎが失敗と言える状態であっても前任者は引継ぎ完了後はなんら追及を受ける立場にはないことが多い。
しかし引継ぎ業務のすべての責任が後任者にあると定めた場合、前任者にとって労働量を最小化する最適戦略は一切の引継ぎ業務を行わないことである。現実的な解としては、前任者の善意、誇り、義務感や打算によってある程度の引継ぎがなされることが多いが、大抵は不十分な状態で引継ぎのタイムリミットに至る。
『情報量条件をもう少し深く解釈する』でも述べたが、プロジェクトの引継ぎにおいてその成否を決めるのは前任者から後任者へ伝達される引継ぎ情報
つまり引継ぎにおける前任者の責任や、前任者から後任者への責任移行の手順が明確化されていない組織は、プロジェクトを引き継げる仕組みになっていないのである。
ではどうすればプロジェクトをうまく引き継げるのか
ここまでの議論で、少なくとも
- 業務に関する情報
- 業務に対する責任
の2つの要素が引継ぎにおいて重要な項目であることが分かった。
プロジェクトの引継ぎを行う場合には、この情報と責任を適切な手順で前任者
ここでは議論をスムーズにするためにプロジェクトマネージャー
M は後任者B を引継ぎ業務の責任者とする
手順1. 前任者
同時に前任者
プロジェクトマネージャー
B は前任者A に引き継ぐべき業務の列挙を命じる
手順2. 後任者プロジェクトは複数の業務からなる集合であるから、後任者
したがってまずは後任者
ここで作成したリスト
一般に人間は漏れなく列挙することが苦手であることから、このリスト
引継ぎ期間終了後には責任境界を明確にするため、このリスト
引継ぎ期間終了後にこのリスト
このリスト
は前任者 L 、後任者 A 、プロジェクトマネージャー B 全員の合意に基づいて作成されたものであるから、その責任は全員にある。ゆえに全員に以下の義務を課する。 M
B は前任者A に引継ぎ優先順の決定を命じる
手順3. 後任者リスト
どのように優先順をつけるかについては自由度があるが、一般にあとから復元できない情報ほど優先順が高い。すなわち、以下の順で優先順が高い。
- 前任者
自身が決めたことA - この宇宙で
しか知らない情報なので、引き継がれなかった場合、復元することは不可能である。A
- この宇宙で
- 前任者
が試行錯誤によって手に入れた情報A - 後任者
も試行錯誤によって同じ情報を手に入れられるかもしれないが、まず不可能で、よくても前任者B がかけたのと同じだけの労力を必要とすることが予想される。A
- 後任者
- 前任者
が長時間の調査によって手に入れた情報A - 後任者
も調査によって同じ情報を手に入れられるかもしれないが、情報源が失われる可能性があるため、復元不可能となる可能性もある。B
- 後任者
引継ぎに使える時間は有限であることから、この優先順に応じて可能な範囲で引継ぎが実施される。
A と後任者B は業務の引継ぎ可能性を判断する
手順4. 前任者前任者
前任者
前任者
引継ぎが不可能であると判断された業務はプロジェクトマネージャーに報告の後、リスト
B は前任者A に引継ぎ計画の作成を命じる
手順5. 後任者この時点でリスト
この手順は技術的には引継ぎ可能であっても時間的な制約により引き継ぐことができない業務を洗い出すものである。
引継ぎ計画
- 前任者
:引継ぎ資料を作成するのに必要な時間A - 後任者
:引継ぎ資料に記された業務手順を追試するのに必要な時間B
したがってこの計画書
後任者
- 引継ぎ可能な業務が優先度順に並べられたリスト
。L - 手順4においてリスト
から削除された、引継ぎが不可能であると判断された業務。L - 現実的な時間内に引継ぎ可能な業務がスケジュールされた引継ぎ計画
。P
B は前任者A に引継ぎ資料の作成を命じる
手順6. 後任者後任者
前任者
引継ぎ計画
と列挙されるとき、引継ぎ資料
である。
B は前任者A の引継ぎ資料を追試し加筆修正する
手順7. 後任者引継ぎ成功の情報量条件に基づき、調査
であった。これをもっとも簡単かつ確実に確認する方法は、実際に作業者
そして逆に、実際に作業者
したがって引継ぎは後任者
A から後任者B に業務の責任を移譲する
手順8. 前任者手順7までで、前任者
以上をもって前任者
再掲しておくと、責任者とは以下のような立場の者である。
責任者(person in charge)とは、業務に対して割り当てられるものであり、以下の条件のうち1つ以上を満たすものである。
- その業務に対して主体的に取り組むことを命じられている。
- その業務を正常に提供し、または改善することを期待されている。
- その業務の継続可能性について判断する権限を持つ。
- その業務が停止または継続不可能となった場合に不利益を被る。
- 不利益とは、復旧措置を実施する、代替手段を探す、異動や処罰の対象となるといった、当人にとっての負担の増加を指す。
責任(responsibility)があるとは、その業務の責任者であることを指す。
後任者
引継ぎに備えたチーム運営を行う
上記のような引継ぎ手順を書くと「理想的にはそうだけど現実的にはそんな工数取れないよね」などと下らないコメントが届きそうなのでその点についても対策しておこう。
まず、いざ引継ぎを行うことが分かってから上記のような手順を始めても遅いのである。引継ぎとは前任者の異動や退職に伴って発生するものであり、そうであるがゆえに知らされるのはギリギリになってからであることが多い。だがそうであるならば引継ぎとは将来的に発生することが確定している事象なのである。
そもそも担当者が突然死んだらどうするのだ。チームメンバーの死亡リスクに備えたチーム運営を行うのであれば、引継ぎとは本来工数 0 で完了できなければならない業務である。
『ではどうすればプロジェクトをうまく引き継げるのか』の章で説明した手順のいくつかは、あえて引継ぎ期間を設けなくとも、平常時の業務中に準備しておける部分が多くある。
平時からその準備をしていないのであれば、単に無計画であるか、引継ぎが失敗するリスクのヘッジよりも他の作業を進める判断をしたプロジェクトマネージャーの責任であって、要するにプロジェクトをマネジメントできていないだけである。
行われた意思決定に関する情報は可能な限り残しておく
引き継ぐべき情報の中でもっとも重要度が高いのは意思決定に関する情報である。
意思決定とは自動的に判断することができない不確定な状況に対して、人間が無理やりにでも判断を下して状況を確定させる行為である。したがって「なぜその意思決定をしたのか」は後任者が過去の状況を振り返っても復元することが不可能な情報であり、また引継ぎが始まってから過去のすべての意思決定について思い出して列挙することはほとんど不可能である[7]。
ゆえに重要な意思決定の記録はあとから参照できる形式で可能な限り記録しておくことが望ましい[8]。
業務の再現手順書は常に作成しておく
あなたがプロジェクトマネージャーであれば、プロジェクトメンバーにはチェックポイントごとに業務の再現手順書を作成するよう指示すべきである。
プロジェクトメンバーには業務の再現手順書を作成する動機は存在しないので、明確にルール化して責任を与えない限り、作業手順書(≒将来の引継ぎ資料)が作成されることはない。
同一の業務に対して複数の担当者を割り当てて冗長化しておく
重要度の高い業務に対しては主担当と副担当のように最低でも2名以上の担当者を割り当てる。業務の実施は主担当の判断で副担当とローテーションを組み、どちらの担当者でも同様に業務を実施できる状態を常に維持するべきである。
同じ業務を行えるメンバーが2人以上いるのであれば、うち1名のプロジェクト離脱に対して引継ぎにかかる工数は 0 である。
以上の手順や準備を実施できないのであれば、引継ぎは諦める
ここまでに述べたような手順や準備を実施できない、そしてその代替案すらも用意できないのであれば、引継ぎは担当者間の運ゲーであって失敗はやむなしである。
泣いても騒いでも引継ぎの失敗が帳消しになることはない。誰を咎めても失われた情報が蘇ることはない。潔く諦めよう。血は流れ続けるかもしれないが切り替えて次に行こう。次からは突然の引継ぎに備えてプロジェクトを運営しよう。
おしまい
責任の所在が明確でない業務は必ずなぁなぁになる。この記事はほとんど当然のことしか言っていないと思うが、この記事に価値があるとすれば、責任の境界と誰がどんな作業をするかを明確にしたことである。
引継ぎの悲劇が少しでも減りますように。
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この関係は数学的にもかなり厳密に成り立つ。たとえば作業者
のもとでタスクA を行うプログラムがx _ s 900MB であったとして、引継ぎ時に作業者I(x _ s) = に手渡されたプログラムB が 700MB しかなければ、おそらく 200MB 分のモジュールを引継ぎ忘れている。この 200MB 分のモジュールがネット上からダウンロードできるプラグインであれば作業者H(x _ s) の業務を復元することが可能だが、作業者A 自身が作成したもので引継ぎ漏れしていた場合、作業者A は作業者B の作業を復元することは不可能である。 ↩︎A -
労働者は法律や倫理に反する場合を除き、業務上の必要性に基づく業務命令には従わなければならない。従わない場合は業務命令違反や債務不履行により懲戒処分の対象となることがある。 ↩︎
-
すなわち引継ぎ情報量が
となるから、このリストH(x _ s) = 0 に存在しない業務は、あとから調べて分かる情報L のみから構成できる業務でなければならない。 ↩︎H(y _ t) -
前任者
にとってアンフェアな状況は、引継ぎを行なったはずの業務に関して引継ぎ後も問い合わせが来ることである。 ↩︎A -
後任者
にとってアンフェアな状況は、引継ぎが行われていない業務に関してその責任を追及されることである。 ↩︎B -
プロジェクトマネージャー
は管理者であるから取りこぼしたすべての事象の責任を自動的に負う。管理者はこのアンフェアを受け入れねばならない重い責任がゆえに大きな意思決定権を持つのである。大いなる力には、大いなる責任が伴う。 ↩︎M -
それができる天才的な記憶力を有しているものを除く。 ↩︎
-
私は GitHub の issue に書いてから
decision_making
というタグをつけてクローズしている。後任者はあとからdecision_making
タグで検索すれば時系列に意思決定の記録を検索することができる。 ↩︎
Discussion