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おでんくんに学ぶニヒリズム

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はじめに

まずこの記事自体、全くの無意味である。そしてあなたがこの記事を読むこと自体も無意味である。
なぜこのような記事を書いたのかというと、幼児向けのアニメである「おでんくん」のある巻を見たからである。要はただの読書感想文です。

おでんくんのある巻

こちらの動画を見ていただきたい。

あらすじは以下の通り。

ある日おでんくんは蜘蛛の巣に捕まった蝶を助けます。

しかしそれを見たニセおでんくんはこう言い放ちます。
「蝶々を助けた行為、それは無意味だ。雲は蝶を食べて生きている。君は蝶を助けたつもりかもしれないが、食べ物を奪われた蜘蛛は良い迷惑だ。」と。

おでんくんはこれに反論します。
「だって、蝶が可哀想だから」と。

これに対してニセおでんくんはこう続けます。
「そんな同情が無意味だ。あの蝶は雲に食べられる運命だった。君がその運命を変える権利はない。それは傲慢というものだ。」と。

そして別の日。
なんとニセおでんくんが飛行機に乗っている時に不慮の事態に見舞われます。あと少しで飛行機が墜落してしまうというときに、なんとおでんくんがニセおでんくんを助けます。

ここでニセおでんくんが冷徹な言葉を投げかけます。
「おでんくん、僕を助けるなんて君は本当に無意味なことばっかりするやつだな」

そのまた別の日。
ニセおでんくんがたまごちゃんを縛り付けました。たまごちゃんが助けを求めると、おでんくんがすかさず駆けつけてきます。

すぐにおでんくんがニセおでんくんを成敗しますが、実はニセおでんくんはおでんくんとたまごちゃんの距離を近づけるためにわざと悪役を買って出ていたのでした。

最後にニセおでんくんは独りでポロッとこぼします。
「おでんくん、僕を助けてくれたお礼だよ。でも僕が君のためにこんなことをするなんて無意味だったかな」

ここでこの回は終わります。

ニヒリズム

おでんくんは蝶を助けたつもりだが、同時におでんくんは蜘蛛を迫害しました。
この行為に整合性のかけらもありません。蜘蛛が蝶を食べるという決定的な未来に介入したおでんくんは傲慢であると。

おそらくおでんくんが蝶を助けた理由は蝶は次の通りでしょう。

  1. 蝶の見た目が可愛くて綺麗だから
  2. 蜘蛛の見た目が怖いから

非常に短絡的な考え方と言えるでしょう。古来から地球上の生物は皆、自然界のシステムの上で成り立ってきました。おでんくんはそのシステムに対して無闇に介入し穴を開けました。

そうであるにも関わらず、蝶を助ける行為を善であると疑いもしない態度を「傲慢」だと言い放ったのです。

ニセおでんくんは蝶や蜘蛛を生き物の一つとして見ており、それらを区別していません。
おでんくんの行為は、ニセおでんくん的には「Aが餓死する。代わりにBが生きる」というように見えると。もしおでんくんが介入しなかった場合は「Bが捕食されて死ぬ。代わりにAが生きる」という結果になっていたわけですから、全体で見ると介入しようがしまいがどちらも同じわけです。

このことからニセおでんくんは物事を論理的に考える具材であり、逆におでんくんは非論理的に考える具材であると言えるでしょう。

飛行機が墜落した日も、ニセおでんくんはおでんくんに命を救ってもらったのにも関わらず無意味と言い張ります。
これも同じように、ニセおでんくんが不慮の事故によって死ぬという決定的だった未来に対して、おでんくんが介入したわけであり、その行為を無意味と位置付けるのは一貫して整合性があります。

ニセおでんくんの思想をこれをニヒリズム (虚無主義) というらしい。そしてそれを信仰する人のことをニヒリストと呼ぶそう。

ニヒリズムとは「今生きている世界や、我々という存在になんら本質的な価値がない」という極めて冷徹な立場のことを指すそうです。

「意味」そのものについてもう少し考えてみましょう。

意味とは

ここで意味について考えてみる。
我々はなぜ我々生物は生きていくのかという極めて一般的な問いに対してどう答えますか?
生き物の究極の主目的は種の存続にあります。これはどの生物も例外はありません。

では一体なぜ種を存続する必要があるのでしょうか。

きっとこのまま探してみてもおそらく見つからないと思うので、これを一旦絶対的なものと仮定して、もう少し身近な話としてスポーツとしてのサッカーを挙げてみます。

サッカーとはどのようなものでしょうか。大人数でボールを追いかけ回して網に蹴り入れるスポーツですよね。
ではなぜ大人数でボールを網の中に入れたり入れなかったりするのでしょう。宇宙人から見たら「なんか有機生命体が円形の何かを転がして網のような何かに入れて盛り上がっているけどなんで?」となりますよね。その問いに論理的に回答することはできないはずです。その行為を"広く"客観的に見ると非論理的で無意味なのです。

なぜなら種の存続に一切の寄与をしていないためです。

そんな無意味なサッカーですが、サッカーのために人生の大半を捧げる人も多くいます
(注: サッカーに向き合う人を貶める意図は全くありません。)
多くのプロサッカー選手は幼少期から長い時間の努力を重ねて晴れてプロとして活躍していると思いますが、なぜ無意味なサッカーにそれほどの情熱を捧げることができるのでしょうか。

占いだってそうです。血液型占い、星座占い、手相占いなどいろいろなものがありますが、どれをとっても科学的な根拠はなく、非論理的な詭弁を並べているに過ぎません。
これも不慮の事態から自分の命が救われるわけでもなく、種の存続に全く寄与していません。

話の原点に立ち返ります。こららを踏まえるとそもそも種の存続そのものも論理的な意味はないと考えられます。そもそも種の存続に意味すらないのだとしたら、私たちが毎日仕事や勉強に勤しんでいる意味もないはずです。

では無意味なものは無価値なのだろうか。ニヒリズムの元にはひとさじのモチベーションすらないのでしょうか。
否、無意味が意味を作り出すと言えるでしょう。

サッカーでいうと、網の中にボールを入れる無意味な行為に対して得点という概念 (ルール) を持ち込むことで、「なんかよくわからないけど一体感があって盛り上がる」という非論理的な楽しさが湧き上がってくるわけです。この非論理的な楽しさこそが意味であり、無意味が意味を作りだす構図といえます。

占いでいうと、ランダムな結果を生み出すなんらかの無意味な操作に対して「未来のあなた自身を体現するもの」という概念を持ち込むことで、「なんかよくわからないけど自分にはこんな未来が待っているらしい」という非論理的な楽しさが湧き上がってくるわけです。これも同様の構図ですね。

意味のある行為は無意味の中にあることがよくわかります。
勉強や仕事も究極的には意味のない行為です。なぜ勉強や仕事をするのかというと人それぞれかもしれませんが、おおまかにはお金を稼いで無意味なことをするためです。

余談にはなるが「蕩尽」という言葉がある。これは徹底的な消費を指す語であるそう。
バタイユという人物は消費を「意味のあるもの」と「意味のないもの」に分類した。意味のないものは、言葉通り何の意味もなさない行為のことだが、人間の生の全体性を回復させるものとして位置付けている。まさにこれと同じ話であろう。
効率的な消費ばかりが正しいのではなく、エネルギーを無駄に使うことこそが人間を人間たらしめる至高の行為であるとしている。

おでんくんに学ぶ、自分への戒め

これまでの感想を踏まえて自分への戒めとする。

意味とは無意味の上に成り立つ。
無意味が意味を作り出す以上、自分から見た他人の行為を無意味と一蹴するのは下劣で"非論理的"であるということ。

例として、「なぜあなたはゲームばかりするのか?もっと勉強して自己研鑽しようよ」とか「MBTI なんてやってるやつは暇なのか?」などなど、たまーに見かけるが、きっと彼らは自身無意味の中に意味があることを知らない上に、その指摘こそがまさに無意味であるということは知る由もないだろう。

他人が見いだした意味のある無意味を無下に扱わぬようにしようとおでんくんを見て感じた。

気をつけよう。

そしてこの記事の戒めも無意味であるが、同時に誰かにとって意味があるものであることを願う。

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