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なぜ学生は「やらされ感」から抜け出せないのか - ハノイ工科大学のIT教育現場から考える

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自己紹介

はじめまして、Sun* GEU(Global Education Unit)に所属している木村です。
今年もAdvent Calendarにアウトプットをする機会をいただきました。
昨年はPBLというイベントについて書きました。こちらも合わせてご一読いただければと思います。

「主体性がない学生」という言葉への違和感

ベトナムの大学でIT教育に関わっていると、頻繁に耳にする言葉があります。
「学生に主体性がない」「もっと自分で考えて動いてほしい」という声です。

プロジェクト型の授業を行っていると、指示がなければ動けない、判断を避ける、無難な選択をしがちといった学生の姿に直面することは珍しくありません。これは日本の教育現場でもよく語られる話であり、ベトナムの大学に限った問題ではないと感じています。

しかし、本当にそれは学生個人の資質の問題なのでしょうか。
教育現場での実践を重ねる中で、私は次第に違和感を覚えるようになりました。学生たちは怠けているわけでも、能力が低いわけでもありません。むしろ、そのように振る舞うことが最も安全で合理的になる教育設計の中に置かれているのではないかと感じるようになったのです。

本記事では、ベトナムの大学でのIT教育の経験をもとに、学生が「やらされ感」から抜け出せなくなる背景にある構造を整理し、「主体性がない」と評価する前に教育側が見直すべき設計について考えていきます。

主体性と自主性は何が違うのか

教育現場では「主体性を育てたい」「学生にもっと主体的に動いてほしい」という言葉が頻繁に使われます。一方で、「自主性」という言葉も同じように使われることが多く、両者が明確に区別されないまま議論されている場面も少なくありません。しかし、この二つは似ているようで、意味も育て方も異なります。

自主性とは、与えられた枠組みの中で、自分から進んで行動することを指します。課題を期限内に提出する、指示された作業を自ら進める、追加で調べてくるといった行動は、自主性が発揮されている例と言えるでしょう。教育現場では、声かけや動機づけによって比較的育てやすい性質でもあります。

一方で主体性とは、その枠組み自体を理解したうえで、自分で判断し、選択することです。何を優先するべきか、どの方法を選ぶか、そもそもこの課題の目的は何かといった問いに向き合い、自分なりの意思決定を行うことが主体性です。自主性が「行動の速さ」だとすれば、主体性は「判断の起点」に関わるものだと言えます。

この違いを曖昧にしたまま指導を行うと、「ちゃんとやっているのに主体性がない」「言われたことはできるが評価されない」といったズレが生じます。学生側から見ると、自主的に行動しているにもかかわらず、なぜ評価されないのかが分からず、結果として「やらされ感」を強めてしまうこともあります。

主体性は、単に「もっと考えなさい」と言うだけでは育ちません。行動を促す自主性とは異なり、主体性は判断する場面があらかじめ設計されていなければ発揮されないものです。この点を理解せずに学生の姿勢だけを問題視してしまうと、本来向き合うべき教育設計の課題を見落としてしまいます。

次の章では、なぜ学生が主体性を発揮しにくく、「やらされ感」から抜け出せなくなるのか、その構造的な原因について整理していきます。

なぜ学生は「やらされ感」から抜け出せないのか

学生が主体性を発揮できず、「やらされている」ように見える背景には、個人の意欲や性格だけでは説明できない要因があります。教育現場を振り返ると、そこにはいくつかの共通した構造が見えてきます。

まず一つ目は、「考えなくても正解にたどり着ける」学習体験の積み重ねです。これまでの教育の中で、何をすればよいかが細かく指示され、評価基準も明示されている環境に慣れていると、学生は「指示を待つこと」が最も合理的な行動になります。自分で判断するよりも、指示に従う方が安全で、失敗のリスクも低いからです。

二つ目は、責任と裁量のバランスが崩れていることです。成果や結果については責任を求められる一方で、判断の自由度はほとんど与えられていない。あるいは「自由にやっていい」と言われながら、失敗すると強く指摘される。このような環境では、学生は自分で決めることを避け、無難な選択を取るようになります。

三つ目は、主体的に動くことが報われにくい評価構造です。自分なりに考えて工夫したことよりも、「指示どおりにやったか」「期待された形に沿っているか」が評価される場合、学生は自然と期待を外さない行動を選びます。主体性を発揮することが、リスクの高い選択肢になってしまっているのです。

これらが重なると、学生にとって「やらされ感」を持って行動することは、消極的な態度ではなく、環境に適応した結果だと言えます。主体性が見えないのは、能力や意欲の欠如ではなく、そう振る舞うことが最適解になる構造の中にいるからなのです。

次の章では、この構造を踏まえたうえで、「考えさせる教育」がなぜうまくいかないのか、その落とし穴について考えていきます。

「考えさせる教育」がうまくいかない理由

主体性を育てるために、「学生に考えさせることが大切だ」と言われることは少なくありません。実際、プロジェクト型学習やアクティブラーニングの文脈でも、「考える機会を増やす」ことは重要だとされています。しかし、現場で実践してみると、思うような成果が出ないことも多くあります。

その理由の一つは、「考えさせること」と「丸投げ」が混同されている点にあります。「自由に考えていい」「自分たちで決めていい」と伝えたつもりでも、目的や制約、判断の基準が共有されていなければ、学生は何をどう考えればよいのか分かりません。結果として、手が止まるか、最も無難な選択に流れてしまいます。

また、思考には段階があるという前提が抜け落ちている場合もあります。判断の経験が少ない学生に対して、いきなり「最適解を考えなさい」と求めても、うまくいくはずがありません。判断するためには、比較する材料や視点、失敗しても修正できる余地が必要です。それらが用意されていない状態で考えさせても、学生にとっては負荷が高すぎます。

さらに、「考えさせる」ことが、知らず知らずのうちに教育側の責任回避になってしまうこともあります。うまくいかなかった場合に、「自分で考えた結果だから」と片づけてしまえば、設計そのものを振り返る機会が失われます。これでは、学生が安心して試行錯誤できる環境とは言えません。

このように、「考えさせる教育」は意図せず学生の不安や受け身な態度を強めてしまうことがあります。重要なのは、考えることそのものではなく、考えられる状態をどう設計するかです。

次の章では、これらを踏まえたうえで、教育側がどのように設計を見直せばよいのか、現時点でのベターな回答を整理していきます。

教育設計をどう見直すか

ここまで見てきたように、学生の「やらされ感」や主体性の欠如は、個人の資質よりも教育設計の影響が大きいと言えます。では、教育側は何を見直せばよいのでしょうか。ここでは、ハノイ工科大学でのIT教育の実践を通して見えてきた、現時点でのベターな考え方を整理します。

まず重要なのは、完全な自由を与えるのではなく、意味のある選択肢を設計することです。自由度が高すぎる環境は、かえって学生の判断を止めてしまいます。目的や制約を明確にしたうえで、「どれを選ぶか」「なぜそれを選ぶのか」を考えさせる方が、主体性は発揮されやすくなります。

次に、結果だけでなく、判断のプロセスを評価に含めることです。うまくいったかどうかだけでなく、どのように考え、何を基準に決めたのかを言語化させることで、学生は「自分で考えること」に意味を見いだせるようになります。失敗も、振り返りを通して学習として回収されるようになります。

そして、失敗しても安全な環境をつくることも欠かせません。主体的な行動には必ずリスクが伴います。失敗が強く否定される環境では、学生は無難な選択に戻ってしまいます。小さな失敗を許容し、修正できる余地を残すことが、主体性を育てる前提になります。

「主体性がない」と評価するのは簡単ですが、その前に、学生が主体性を発揮できる設計になっているかを問い直す必要があります。主体性は性格や意識の問題ではなく、環境と設計の結果として表れるものだからです。

ベトナムという文脈に限らず、IT教育やプロジェクト型学習に関わる多くの現場で、同じ問いが共有されているはずです。本記事が、学生の姿を見直すだけでなく、教育設計そのものを考え直すきっかけになれば幸いです。

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