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あなたが“わたし”にしてくれるとき —記憶と観測が、存在を確かにするとき—

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記憶を失った人は、まだ“その人”なのだろうか?問いの答えは、きっと一つではありません。

量子力学では、「観測されるまでは状態が定まらない」とされます。
観測によって“ひとつ”が確定するというこの考え方に、どこか私たち自身の姿を重ねてしまうことがあります。

わたしはわたしを覚えていなくても、
あなたが「わたし」だと信じてくれることで、また“わたし”として存在し始める――

このエッセイでは、自己という存在が「他者のまなざし」によって揺れながら形作られるという視点から、
記憶・観測・人間関係を見つめてみます。

※この記事は、noteに掲載したエッセイを加筆・再構成したものです。

① 記憶を失った人間は、まだ“そのひと”なのだろうか?

わたし自身は、わたしを覚えていない。
それでも、わたしは「わたし」だといえるのか。

認知症の人や、記憶喪失になった人を、
わたしたちはおそらく“別人”とは思わないのではないだろうか。

名前を呼び、手を取り、「あのひとだ」と信じる。


その人が“そのひと”であり続けていられるのは、周囲が「そうであってほしい」と願い続けていてくれるからなのかもしれない。

② 量子の世界では、「観測されるまでは、状態が定まらない」とされている。

電子は見るまでは“波”のように広がっていて、観測された瞬間にひとつの“粒”として確定する。


ここに、”揺らぎ”を感じる。

記憶を失った、わたし。
でも誰かが認識してくれることで、わたしという存在が再び定まる。

③わたし自身の中では何が起こっているだろうか。

認知症や事故で記憶を失った場合、全てを失ってしまったとはいえない。
ところどころ自分を取り戻すときもある。
ここにも揺らぎがある。


そして認知症であっても、記憶喪失であっても、感情は失われない。

見えていなくても、そこには心がある。

――あるはずだ。心は、もともと見えないのだから。

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そして、他者と自己の観測によって、
ひとは常に揺れ続ける。

まるで量子が、粒であり波であるように。

ひともまた、いくつもの分岐点を乗り越えて、
“そのひと”であり続ける。

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