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混ぜたい、考えたい。混乱。― テセウスの船に見る、視点のすれ違いー

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“同じもの”って、どうやって決まるんだろう?
入れ替えられたパーツ、変わってしまった身体。
それでも「これはあの人だ」と信じたい気持ちがある。

このエッセイでは、テセウスの船という古典的な問いを通して、
「同一性とは何か?」「本物とは何によって決まるのか?」を考えます。

科学的な視点と、感情的な視点。
この2つを混ぜてしまうことで生まれる“混乱”そのものが、問いの本質かもしれません。

※この記事は、noteに掲載したエッセイを加筆・再構成したものです。

「交わらないものを混ぜようとするから混乱する」
それが、テセウスの船の問いが終わらない理由だと思う。

① テセウスの船って、そんなに難しい話だろうか?

ひとつひとつ部品を取り替えていった船は、もはや“同じ船”?
もう一度元の部品で作り直したら、そっちこそが“本物”?

……いや、実はそれほど複雑な話じゃないんじゃないかと思う。

なぜなら、人が混ぜちゃいけないものを、混ぜて議論しているから。

② テセウスの船が“同じかどうか”という問いには、そもそも2つの視点が混ざっている。

• 「部品が変わった」という物理的な事実(客観的)

• 「それでもこの船だと思いたい」という人の思い入れ(主観的)

この2つは、そもそも交わらないもの。
なのに、多くの議論はこの2つをごっちゃにしてしまう。

たとえば、道具として船を見ている人にとっては、同じ形で同じように動けばそれでいい。

でも、船に思い入れがある人にとっては、“部品が全部または一部変わった”という事実だけで、「それはもう違う」となる。

③ この混乱は、人間にも当てはまる。

たとえば、「身体の一部が義体になったら、もうその人じゃないのか?」
極端な話、「全身義体になったら、“わたし”は失われるのか?」

でも多くの人は、たとえ外見や機能が変わっても、「あの人はあの人」と感じる。

なぜなら、そこには思い出と感情の蓄積=物語があるから。

「この人を“この人”だと思いたい」という気持ちがある限り、人は“同じ”であり続ける。

それはわたしが「わたし自身」であることの証明にもつながる。


もちろん、わたしが「わたし」を信じるだけでも良い。

📖結局、「本物かどうか」という問いに絶対的な答えはない。

あるとすれば、それはただひとつ:
そこに“思いを馳せる誰か”がいるかどうか。

道具だって、人が大切に使い続ければ「本物」になる。

人間だって、どれだけ変わっても「あなたはあなただよ」と言ってくれる誰かがいれば、ずっと“本物”として在り続ける。

それは他の誰かでなくてもいい、自分自身が信じていればいい。
「物理的変化」と「感情的つながり」を同じ土俵に並べること自体がナンセンスなのではないだろうか。

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テセウスの船に限らず、「何が本物か」を探して見失うときはある。

でもそれってもしかして、
見失ってるんじゃなくて、問いのほうが混ざっているだけなのかもしれない。

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