【入社エントリ】長年勤めたメーカーを辞めて松尾研究所に入社した話
はじめに
松尾研究所に2026年4月からジョインした具利晟(ク リソン)です。愛称はドラゴンボールでお馴染みのクリリンです。由来はお気づきの通りです。現在はデータサイエンスチームのシニアデータサイエンティストとして、金融領域のLLM活用に関する開発寄りのPJT(プロジェクト)や、Agentic RLについての探索的な研究寄りの活動等に参画しています。
気がつけば入社から約2ヶ月、激動の期間が閃光のように過ぎ去りました。まさに「光陰矢の如し」です。松尾研究所では、皆さん色々なタイミングで入社エントリを書いているようですが、私がこのタイミングでの執筆を決意したのは、同チームの太田幹さんとの立ち話がきっかけでした。幹さんから「自分は8ヶ月くらい経って書いたけど、いつ書くかで感じ方が変わると思う(幹さんの入社エントリ)」という話を聞いた時、入社間も無い時期に書くべきと考え、筆を取ることにしました。それは、今書く入社エントリが、松尾研キャリアの原点回帰のベースになることと、キャリア選択で一歩踏み出す勇気が持てない人達への後押しになるかもしれない、と考えたからです。松尾研究所入社までの人生のヒストリーを、思いの丈のままに書きました。かなり長文になりますが、最後までお付き合い頂けますと幸いです。
※ 前職に対するネガティブな記載が一部ありますが、その当時のありのままの気持ちを書いているだけで、批判する意図は一切ありません。今でも前職の職場、お世話になった皆様には感謝していますし、その前提で読んでいただきたいです。
私のバックグランド(学生時代)
幼少期〜高校生
私の生い立ちについて簡単に紹介します。私は在日コリアン3世です。朝鮮半島が植民地支配下にあった当時、祖父母の代で生きる道を求め朝鮮半島から日本に渡ってきた歴史的経緯から、私は日本で生まれ育ちました。学生時代(幼稚園〜大学)は日本国内の朝鮮学校で学びました。そこでは、私と似た境遇の在日コリアンの友人達と、朝鮮半島の歴史・文化・言語を中心に、日本の文化や言語に加え、世界史や英語等も学びました。そんな背景と社会人になって語学の勉強を続けたこともあり、日本語、朝鮮語・韓国語、英語のトライリンガルです。
在日コリアンコミュニティに深く根を貼りながらも、地域コミュニティ等で日本人の方々と交流し、当然ながら日本の食文化や娯楽に親しむという青年期を過ごしました。そんな少しスペシャルでハイブリッドな生い立ちからか、良くも悪くも周囲と違いを感じることは当たり前で、「違うことは個性」であり「みんな違ってみんな良い」という、ある意味でグローバルな感覚が身に付いたかもしれません。
そんな私は幼い頃、漠然と医者・研究者・エンジニアへの憧れがありました。その背景には、「知を探求すること」と「探求した知を社会に還元すること」に対しての強いリスペクトがありました。その理由は、幼い頃から「なぜ?」を掘り下げていく知的探究心が強かったことと、教師だった両親をはじめお世話になった多くの人達の背中から、「社会をより良くするために自分の才を生かす」生き様の素晴らしさ、尊さを感じ取っていたからだと思います。高校時代は特に数学や物理、中でも電気回路に面白みを感じていたこともあり、もの作りの道を志し大学に進学しました。
大学生〜大学院生
大学時代の専攻は電子情報工学科で、秋葉原に通い電子工作に勤しむ毎日でした。学部2年生くらいの頃から、大学院進学の研究室選択に真剣に悩み始めました。あまり明確な根拠は無かったように思いますが、なんとなくロボットがもの作りの最先端というイメージがあり、ロボット系の研究室をたくさん訪問していました。そんな中、「フィードバック制御入門」という制御工学の入門書に出会い感動した事をきっかけに、制御理論の研究を志すことになりました。私が魅力を感じたのは、家電、自動車、人工衛星など、世の中のありとあらゆる機械の裏側に「対象を思い通りに制して御するための理論」がひそんでいて、それらが数学的に美しく理論化されるという事に神秘的な魅力を感じたからです。
(私がどれだけ感動したかを裏付けるエピソードがあります。「フィードバック制御入門」の著者であり制御工学の大御所である当時の東工大藤田教授に、外部生の私が急に会いに行って感動を伝え、研究室の皆さんを困らせました。笑)
そんな経緯から、修士課程は制御理論系の研究室に進みました。当時は制御対象の入出力間の関係性(数学的には関数、制御工学的には伝達関数)を維持して低次元にモデリングするモデル低次元化という研究を行っていました。研究テーマは「大規模動的ネットワークシステムの低次元化」でした。遺伝子系や電力システムといった複雑系は、個別要素と要素間の相互作用のダイナミクスがあり、系全体を大規模な微分方程式で表現できるのですが、それらのネットワークトポロジーを維持しながらいかに低次元に近似するか、というリサーチクエスチョンです。
研究自体はとても楽しかったのですが、理論の有効性を示すために適当な(現実的な制約をとっぱらった)シミュレーションモデルや実機を作るというスタンスの研究が多く、研究成果が社会実装につながるイメージが持てませんでした。多くの先輩方の進路や経験談からもこの事実が読み取れ、研究の専門性を生かすことと、工学の使命を達成することの両立が難しい現実から、進路選択にとても悩みました。最終的に専門性を生かすことは諦め、「暮らしの当たり前を作りたい」という思いから電機メーカーに進むことになりました。
松尾研究所に入社するまでの道のり(社会人生活)
前職(電機メーカー)での仕事
新卒入社時は、主に社内の事業部門から依頼を受けシステム開発を行う部署に配属されました。ここは私がインターンを経験した部署で、専門性を生かすことを諦めざるを得なかった私は、「人柄と雰囲気が良い」という理由から選択した結果でした。いま振り返ると、この曖昧なモチベーションの選択がまずかった。当時の開発スタイルはシステムの要求仕様や方式設計を検討し、開発は外部業者に委託するというスタイル。当時の私は、自分が作れないものを外部に開発委託して、手を動かさずにマネジメントするだけ、というスタイルに強く違和感を覚えていました。また、実務面での成長実感が薄く、悶々とした日々を過ごしていました。
一方、当時は画像分野を中心にDeep Learningが大きく注目されていた時代でした。そんな中、Deep Learningの実践力を養うための社内研修に参加したことが、AIとの初めての本格的な接点でした。「対象を数理モデルで表現し、表現しきれない現実との差分を推定・補償する」という制御工学の演繹的なアプローチに対して、「データから特徴表現を自動抽出してパターン認識する」という帰納的且つデータドリブンなアプローチは、当時の私にとって衝撃的なパラダイムでした。AIを独学で勉強し始めてからは、AI系の仕事をしたいがために、アングラ活動として商品企画部門の方を巻き込み、勝手にPoCを進めたりしていました(後で当時の上司にめっちゃ怒られ、ストップされましたが。笑)。とにかく理解が浅いながらも「AI好きです」「AI作れます」をPRしていました。こんな私のPRの甲斐もあってか、とある部長にお声がけいただき、データ分析とML開発業務を主とする部署に異動することになりました。
その部署に異動してからは5年半に渡り、R&DのRとD両方のプロジェクト推進を担当しました。具体的には、電力・エネルギーマネジメント(エネマネ)領域に特化したMLモデル開発・データ分析といったD寄りのPJT、某大学との共同研究や東大ESIという産学連携講座での共同研究といったR寄りのPJTなどです。
前者のPJTでは、低圧需要家の電力データ分析、HEMS(Home Energy Management System)やFEMS(Factory Energy Management System)向けの電力需要予測アルゴリズム開発、あるいは需要家1軒または需要家群のエネマネを模擬するためのシミュレーター開発等を担当しました。
一方、マクロ環境としてカーボンニュートラル(CO2排出収支ゼロ)の必要性について世界的なコンセンサスが形成され、脱炭素化と電力安定供給の両立が求められていました。そのためには、従来の大規模集中型の電力システム運用から、再エネや蓄電池等の分散電源と協調した分散協調的な電力システムへのシフトが重要となります。したがって、分散電源の技術を電力システム視点で価値評価し、技術・制度設計する事の重要性が増していました。このような背景から、後者のPJTでは将来の電力システムのシナリオ分析(再エネが大量に増えると運用コストがどれぐらい増えるか、安定供給がどれだけ難しくなるか等)や、需要側技術(予測や制御など)を将来の日本全国大で社会実装した場合の社会的便益シミュレーション(CO2削減効果、電気代削減効果など)等の学術的研究を通じ、需要側技術の社会的価値を政策視点で訴求するという活動を行っていました。参考情報として、PJTの成果の一部を記載しておきます。
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AiSEG3
- 家庭向け電力需要予測アルゴリズムの方式開発を担当
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蓄電池等を活用したエネルギーマネジメント実証
- 非住宅施設向け電力需要予測アルゴリズム方式開発を担当
- 東大ESI
この期間に経験した研究、技術開発の進め方、技術スタック等が今の自分のベースになっています。
転職を考えたきっかけ
前置きが長くなりましたが、そんな傍から見れば順風満帆な会社生活を送っていた私が、なぜ長年勤めたメーカーを辞め、松尾研究所への転職を決意したのか。それには大きく3つの理由がありました。
- 成長の鈍化を感じたこと
転職を考え始めたきっかけは、年次を経るにつれ成長曲線が緩やかになっていくのを感じた事です。私にとって「成長」は仕事の一番の原動力なのですが、同じドメインで技術開発を長く続けていると、「こうすれば上手くいきそう」という勘所が掴めてくる一方、「過去の仕事の焼き増し」のように感じる仕事が増えてきたのも事実でした。
- スペシャリスト、ジェネラリストとして生きるかの選択
30代になってから、ジェネラリストとして役職付きのマネージャーを目指すのか、役職にこだわらずスペシャリストとして生きるのか、の二択が中長期的なキャリア方針として頭をよぎるようになりました。前職だけでなく、多くの日経大企業ではこのような二択を迫られるのではと思います。でも本当は、もっとキャリア選択のグラデーションがあるはずと信じていました。私の30代のキャリアの理想像は、スペシャリストとして専門性を持ちつつ、マネージャーもこなす、いわゆるプレイングマネージャーです。これは仕事の裁量が大きく、少数精鋭の会社じゃないと実現が難しいと感じました。
- AI領域の無限の可能性を感じたこと
ChatGPT等でお馴染みの大規模言語モデル(LLM)のサービスに初めて触れた時、体が震える程の衝撃を覚えました。ディープラーニングに続くAIブームにとどまらず、LLMをはじめとする生成AI技術が日常生活、働き方、ひいては人間の価値観そのものを変え、世の中に激震を与えるだろうという確信を持ちました。その後、生成AIに使われる側では無く、生成AIを作り、育て上げ、使いこなす側に回りたい、ひいてはAIで社会にインパクトを与える仕事に本気でチャレンジしたいと思うようになりました。
松尾研究所との出会い
そんな中とあるきっかけで、当時採用を担当されていた開原さんとカジュアル面談をしたことが松尾研究所との初めての接点でした。
実はその当時、松尾先生は知っていたものの松尾研究所の存在を認知していませんでした。カジュアル面談では、事業領域、MVV、社内カルチャー等の紹介をいただいたのですが、「1. アカデミアの成果と社会実装の両輪を重視するビジョン, 2. 個人・組織の志の高さ、3. 対象ドメインの広さ」に感銘を受けました。この3つどれもがとても魅力的に映った一方、「自分に務まるのか」というのが第一印象でした。その根源は、未経験のドメイン知識や技術力が求められるのに加え、ハイレベルな環境についていけるのか、期待されるアウトプットが出せるのか、といった類の不安からでした。
率直なところ、はじめから松尾研究所ありきの転職活動ではなく、他にも何社か並行で進めてはいました。ですが、松尾研究所のエンジニア、マネージャーの方々と面接を進める中で、志と技術力の高さ、データサイエンティストチームの相互協力的なカルチャー等の魅力から「ここで決断しなければ自分は一生後悔しそう」と感じ、飛び込む決意をしました。
入社前の覚悟
私の前職と松尾研究所の企業規模、カルチャーの差異に加え、新しいスキルが求められる大きなキャリアチェンジである事を踏まえ、入社前にいくつか覚悟していたことがあります。それは以下の3つです。
- スピード感の差
- 担当する仕事の裁量とカバー範囲の広さ
- 厳しい要求と成果へのコミット
これらの覚悟を持ちつつ、良い意味で新入社員のような謙虚な気持ちで周囲から学ぼう、盗んでやろうという気持ちで入社しました。
実際に入社してみてどうか
実際に入社してみてどうだったかというと、覚悟していたことのジャンルは概ね予想通りでした。ですが一つ見込みが甘かったとすれば、その度合いです。
1つ目のスピード感についていうと、前職では1年かけてやっていたことが、松尾研究所では2, 3ヶ月、つまり体感では4〜6倍ぐらいのスピード感で色々なことが決まっていきます。しかも、一人が複数のプロジェクトを担当するのは当たり前なので、色んなことが並行して進んでいきます。この目まぐるしくおこる変化に、日々乗り物酔いを起こすような感覚で過ごしています。強化学習で例えるなら、非定常環境で環境と報酬がコロコロ変わって、学習が安定しないような状態です。
2つ目の仕事の裁量とカバー範囲の広さも面食らいました。PMクラスの方は、PJTのスコープ決め、クライアントとの折衝、インターン生の採用、日々のプロジェクトマネジメント、インターン生の教育、実際に手を動かして開発するまで、本当になんでもやる。「PMがこんなに全部やるの?」と素朴に驚きました。
3つ目の観点が、ある意味一番驚きが小さかったと思います。松尾研究所が成果主義且つ高い目標を掲げているというのは認識していましたし、自分もそういった環境を求めていたので。ただ、クライアントの期待を大きく上回る目標設定をしたり、その目標に対して必ずコミットするんだという高いプロ意識は、松尾研究所ならではのカルチャーであり、差別化要素なのではと感じています。
こんな感じなので、まだ十分に慣れた感覚は無く、質の高いアウトプットをもっと早く出したいのに、なかなか結果がついてこない現状に歯痒さを感じています。ですが、学びとやりがいを感じる毎日です。
理想と現状のギャップにもがいているものの、私は自分が「大器晩成型」と信じています。これに関連し、松尾先生が新入社員歓迎会でおっしゃっていた話で、感銘を受けたエピソードがあります。以下、記憶に基づく要約です。
入社してきた時に凄そうに見えたが数年経つと目立った結果が出ない人と、入社した時は 大したこと無さそうだったが数年経って目覚ましい結果を出す人がいる。この違いは何か。それは「自分で自分の限界の線を引くかどうか」である。
私は定期的に環境を変え、その環境で爪痕を残したり頭一つ出る経験を積んできた自負があります。初期値は大したことないかもしれません。ですが「自分に限界の線を引かず」、何度も壁にぶつかり挫折しながら貪欲に環境から学び、三角関数+指数関数の成長曲線(短期的には浮き沈みしながら、長期的には成長するイメージ)を描いてきたのがこれまでの人生だと思っています。
松尾研究所はそんな成長し続けたい私にとって、絶好の環境だと感じています。これにまつわるエピソードとして、マネージャーの長谷さんがチームの特徴を「コンフォートゾーンにとどまらず成長し続けようとする人達ばかり」と表現されていたのを思い出します。本当にその通りだと思います。皆さん専門性の高さもさることながら、常に努力を厭わず、楽しみながら、貪欲に学び続けている印象です。
さらに、良い感じの人達ばかりです。私がこれまでいた環境では、「この人頭は良いし能力は高いんだけど…」な人が少なからずいました。ですが松尾研究所のデータサイエンスチームの皆さんは、「頭が良くて仕事も出来るし感じの良い人」ばかりです。なぜそうかは色々な理由があると思いますが、私の考察は「志が高い人は必然的に謙虚になるから」です。仕事でも学びでも、志が高ければ必然的に自分の至らなさを知る機会が必ずあります。上には上がいるし、学びには終わりが無いからです。この性質が、コンフォートゾーンにとどまらないカルチャーにもつながっているのではと思います。
また、皆さん良い意味で役割に垣根を設けず、建設的且つ協力的に仕事をします。周りに困っている人がいれば助ける、詳しそうな人に聞けば快く教えてくれる、そんなカルチャーが当たり前にあります。明確な仕組みがあるわけでも無いのに、成果主義でありながらもお互いを蹴落としあったりせず、メンバーが相補的に協力しあって仕事が回っているのは、不思議とさえ思います。でもだからこそ、一緒に働いていて気持ちが良く、自分も積極的にgiveしなければと前向きになれます。
まとめ
かなり長文になってしまいましたが、松尾研究所に入社するまでのヒストリーと、入社して約2ヶ月の会社生活の所感を書きました。まだまだ道半ば。自分を高めながらも空き地を見つけ、コミットしていけるよう今後も日々奮闘していきます。
技術トピックのテックブログも書いていきたいですし、一定期間経ってからふり返りの記事も書きたいなぁと思っています。これからもクリリンと松尾研究所のウォッチ、どうぞよろしくお願いいたします!
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