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論理から消し去られる時間とその影

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結構自信がないのですが、エイヤーといきます。よろしければどーぞ!
毎度のごとくnoteからの転載です。
https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/nf7d1c9d4154a

論理から消し去られる時間とメタレベルの差

ある種の論理学や意味論では、集合をすべて含む集合などが引き起こすパラドックスをさけるために、メタレベルを導入することがあります。

例えばそれに準じるものとして、ラッセルのタイプ理論やタルスキの意味論が挙げられます。集合の階層を区別することで、論理的な破綻を回避するのです。

ただし、この世界を生きる限り、人はメタレベルに立つことができず、ある種のパラドックスは避けられないということが言えます。この世界を認識する人はこの世界の一部であり、その外側には立てないからです。ある視点からすれば人はこの世界では、このようなパラドックスと共存するほかありません。

しかし、別の視点からすればその不可能性は絶えず回避されており、そして、設定されたそのメタレベルが破られていると言えます。

どういうことかと言うと、人の情報処理には時間がかかるため、前後を分ける時間の後に立てば前の状況に対してメタレベルに立つことができ、そのことによって、この世界のメタレベルの設定不可能性をすり抜けられるのです。時間が続く限り、より前に存在している認識の世界に限って、それを俯瞰し続けることができます。

さらに、人は常にその時間の差を利用して論理を生み出しています。逆に言えば時間のないところには情報とその伝達が存在しえないので、論理も存在し得ないのです。

人の情報処理が時間によってメタレベルを設定し、それを破っていることは次のように最も基礎的な数学の演算とラッセルの確定記述の理論を考えれば理解できます。

つまり、例えば時間の差、演算の操作と解の間にある差を無視しなければ、1+1=2が等号で結べません。これがメタレベルを設定し、その後にそれを破っているということに等しいのです。

このような演算の操作がメタレベルの操作であることは、ラッセルの確定記述から考えられます。確定記述は「あるxについて〇〇のもの」というかたちを取りますが、これは集合の定義を述べているのに等しいものです。

例えば、「現在のフランス国王」のような確定記述 ɩx(Fx) は、「x という要素が存在し、かつそれは唯一である」という集合の定義(メタレベル)を記述しながら、同時に特定の個体(要素レベル)を指し示します。

ここで起きているのは、以下のプロセスです。

  • メタレベルの設定
    「〇〇という性質を持つもの」という枠組み(メタレベル)を作る。

  • 同一視
    その枠組みに合致するものを「これだ」と指し示す(メタレベルを破って要素レベルに降りる)。

そして、その結果として要素を一つ取り出します。

このようなラッセルの確定記述は指示行為というよりは論理演算と言ったほうが正確です。実際のところラッセルの確定記述は Fx という関数で記述されます。そして、この演算、確定記述はメタレベル(集合の定義)と要素を同一視しているのです。

演算が集合の定義であることはチューリングマシンによる演算を見てもわかります。

チューリングマシンによる演算手続き、規則・アルゴリズムは (入力、出力) の組の集合の定義です。アルゴリズムが決めるのは「どの入力で停止し、どの結果を出すか」であり、これはそのまま計算可能関数(あるいは計算可能集合)を定義しています。

停止する入力の集合と特定の出力を返す入力の集合は、アルゴリズムそのものと同一であり、演算は集合の定義です。そして、具体的な入力のあったアルゴリズムはさらにそのなかの特殊な部分集合を指定していることになります。
※これが部分集合の定義だというのは、個別の値の入力がされた関数も計算の結果(=解、要素)そのものではないからです。

つまり、演算における結果と操作の同一性はシンプルなメタレベルの取り違え、集合の定義とその要素の取り違えを、等号という演算規則のなかに引き受けていることによって成立します。

そして、この同一視はあらゆる演算で欠かせないということが、例えば y = f(x) というような関数をみればわかります。

ここで演算の操作である f(x) は、それが数字である y と同一であるとされています。これは最も基本的な演算 2 = 1 + 1(= f(1,1) と記述される)も変わりません。

人は常にメタレベルを設定し、それを破る。そうでなければ、何かを論じることができないのです。そして、そのとき時間の差は消し去られる。あらゆる論理はこのメタレベルと要素の取り違え、時間(演算操作と解の差)の消去によって成立します。

実際その差を消去しない演算は演算の主体にとって意味のある演算とは言えません。たとえば、f(x) = f(x) も、y = y も何も新たな情報を生まないからです。この操作と解の取り違え、時間の消去は論理が論理であるための、演算が演算であるための必然的操作なのです。

※逆に言えば、停止性問題などの停止することのない演算は時間の消去に失敗した演算であると言えます。

数につきまとう時間の影

そして、この時間の消去のうちには情報量の減少の論理が隠れています。

現代の情報理論における最も基礎的な意味での情報量とは、集合のなかから何かが選択される確率として表現されます。それは集合からなにかを選ぶときの外れやすさの量であり、その意味で答えのわからなさの量です。逆に言えば、集合のなかから何かが選択されたとき、そこに情報量の減少が起こります。

上に見たように値を代入した関数はそれ自体が集合の定義であると見なせます。そして、そこから解が算出され、等号で結ばれたとき、要素が選択されたことになります。つまり、ここに集合からの選択、情報量の減少が発生します。

時間の消去、操作から解を生み出すこと、メタレベルと要素の混同はここでは情報量の削減と同じものです。直感的にも時間の中で行われる関数の演算によって、何かわからなかった状態から、何かが選ばれ、答えがわかるということが理解できると思います。あるいは、当然のことですが演算における等号は未知性の解消の操作であるのです。

そして、その結果得られた解、数からはそれ自体として、どのような演算から得られたかという情報が消去されます。先に見たように、それが数に残っているならば、演算は完了していないためです。

このような観点は情報理論的な観点からみた、そこから要素が選ばれる有限に閉じられた集合の要素が、現実に実際にすべて揃っている必要がないことを示しています。なぜなら演算操作と集合を同一視できるために、実際にそこから要素が選ばれる集合の要素はまだ存在しなくても、演算操作の可能性さえあればいいということになるからです。あるいは、これはなぜ人間が無限の集合を扱えるのかということへの一つの答えです。

ここにウィトゲンシュタインの言語ゲーム論とシャノン情報理論の接合可能性をみることもできます。つまり、人は柔軟にその都度その都度従う規則体系(個別の演算操作、集合の定義)を選びその振る舞いと言語でコミュニケーションをとるのであり、そこに常に情報の送受信(選択)が発生しているのだと。

そしてあるいは、逆に言えば、数、記号には消し去られた時間の影が常につきまとっていると言えます。

なぜなら、例えば 1 が 1 であるのはそれが 1 を足せば 2 になるから、1 を引けば 0 になるから……そういった規則関係の集合が成立するからであり、数は操作のネットワークの結節点であるからです。

これは公理にも言えます。それは他の関係すべてにささえられ、ある演算の途中のどこかで何かを間違えると、その演算においては従う体系そのものが変わってしまうからです。

あるいは別の観点からいうなら、チューリングマシンにおける数がまさにそれを示しています。チューリングマシンは磁気テープに 0 と 1 を磁気で記録、書き換えをする最も基礎的な計算機の原理ですが、そのテープの磁気が数になるのは、アルゴリズムによってであるためです。

チューリングマシンでは、テープ上にあるのは単なる物理的状態(磁気・記号・0/1・空白)であり、それ自体には数的意味は一切含まれていません。

テープ上の「1」が 1 という数であるのは、その記号がチューリングマシンの遷移規則(アルゴリズム)に従って反復的に操作されるという文脈においてのみ数になります。なぜなら、ある演算を終えたあとのテープに全く別種のアルゴリズム規則を持ったマシンを持ってきたのなら、そのテープの数の同一性は保証されないからです。

未来の他者から贈られる情報

つまり、数や記号はそれが持つ時間の影、未来に開かれた可能性によって数になるのだと言えます。1 が 1 である、という同一性は「足せば 2 になる」、「引けば 0 になる」、「常にそう振る舞い得る」という可能性に支えられています。これらはすべて、実際に操作していなくても、操作が可能であることに保証されています。数の同一性は、潜在的な操作列(=時間)によるのです。

これは数と貨幣が全く同じ性質を共有していることを意味しています。経済学者である岩井克人は貨幣が貨幣であるのは、未来において他者がそれを貨幣として受け取るからだと論じました。貨幣は貨幣として扱われるがために貨幣である、人間の貨幣に関する振る舞いへの期待と信用によって貨幣は貨幣となると。

重要なのは、貨幣の現在における同一性が未来の反復可能性によって支えられているという時間構造です。貨幣は「いま貨幣だから貨幣」なのではなく、未来の行為が遡及的に現在を成立させているのです。なぜなら未来で誰も受け取らない貨幣は交換に使用できる期待と信用が消失して、現在も誰も受け取らないので、貨幣ではなくなるからです。

これは先に見た記号と数の性質と同じです。貨幣がそうであるように記号と数もまた、未来における振る舞いの反復可能性により現在が支えられるという意味で、未来の他者からの贈り物なのです。

それを信じれずに貨幣から逃走をした場合、数と記号から逃走した場合、それぞれハイパーインフレーション、クリプキのクワス算のような懐疑論に陥るということになります。なぜこのような共通性があるかというと、岩井克人の貨幣論は情報の論理について述べているのであり、数、記号、貨幣はすべて情報という集合の要素であるからです。それにまつわる形式的な振る舞いが情報を情報(information、形作ること)として成立させるのです。

ここには、知の存続と発展をめぐるアポリアがあります。なぜなら情報に完全なる信用をおけば(今ここにある情報は絶対正しいとすれば)、批判的知性が失われ、すべての情報を懐疑すれば、情報は何事も伝えることがなくなり、知そのものが崩壊するためです。知はその正確性と存続のために閉じられていると同時に、その批判的発展のために未来に開かれていなければならないという緊張のうちにあるのです。

ベイトソンは論理には時間がないと言いました。しかし、論理は現実の演算主体に流れる時間の痕跡を完全に消し去ることはできません。そしてあるいは数と記号につきまとう時間経過の可能性の影こそが、論理学と数学の体系と演算そのものを成立させるのであり、そこにおいては時間により設定されたメタレベルの差が常に破られているのです。

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