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資本主義経済の論理学と推論の起源

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またまたnoteからの転載です~。

https://note.com/kasamaru_hatsuka/n/n1b8e8ce182ec

10年くらい前から、ベイトソンの本を読んだり、新しい体系的な理論を作るにはどうすればいいのか、ということについて考えていたりするなかで、アブダクションにつきあたったことがあった。それで、アブダクションに関する本を何冊か読んでいた。

ここ数年は情報や集合の概念について考える中で抽象-具体(演繹-帰納)の軸について考えることが多くなった。それはそれで実りあるものだったと思っているのだが、やはり、アブダクションを知りながら、帰納と演繹だけについて考えるのも微妙で、アブダクションと情報の概念はどうかかわっているのか、漠然と考えていた。

そんな中、アブダクションの論理はプログラミングの世界や、資本主義経済の中に埋め込まれているのではないかということについて思い至り、ここ数日でその考えをある程度はっきりとまとめることができた。それで今回推論の形式が資本主義経済の中にどう生きているか、そして、三つの推論の形式は情報の構造の中に胚胎しているということをここで論じることにした。そんなお話です。

3つの推論形式

よく知られている推論の方法に演繹と帰納があります。ごく簡単に言うと、前者は規則から具体例を導くもので、後者は複数の具体例から一般的な規則を導くものです。例えばそれは次のようなものです。

演繹(三段論法)

  • すべての人間は死すべき存在である
  • ソクラテスは人間である
    → ソクラテスは死すべき存在である

これは必然的に正しい結論が出ます。つまり演繹は「確実性」を重視する推論です。

帰納

  • 今まで見たカラスはすべて黒い
    → おそらくカラスは黒い

これは白いカラスが見つかれば崩れます。つまり帰納は蓋然的な推論です。

これらは集合とその要素と同一な抽象-具体という関係性を持つものになります。

以上を整理したのは古代ギリシャのアリストテレスですが、近代においてアメリカの記号学者であるパースはこれに加えて、アブダクション(abduction)という推論を付け加えました。

アブダクションとは、観察された結果から、それを最もよく説明する仮説を立てる推論です。

これは次のような基本構造を持ちます。

  • 驚くべき事実Bがある
  • もしAが真なら、Bは当然説明できる
    → よってAかもしれない

例えばそれは次のようなものです。

  • 地面が濡れている(事実)
  • もし雨が降ったなら、地面が濡れるのは自然
    → 雨が降ったのかもしれない

ここで重要なのは、これは演繹のように必然ではなく、帰納のように統計的集積でもない、「最も説明力の高い仮説」を採用するものであるということです。

いわば、演繹と帰納が抽象-具体、集合とその要素、情報の垂直の軸を行き来するのに対し、アブダクションは情報と他の種類の情報という、斜めないし水平の軸を行き来するという違いがあります。

しかし、この3つの推論の形式は単に人の持つ推論の形式ではありません。それはむしろ現実の世界、社会の世界、そして、情報の世界の形を反映した原理、あるいはそれを形作ってさえいる原理であると言えます。

現実と情報の世界を織りなす推論形式

例えば、オブジェクト指向プログラミングでは、クラスという構造を用いて、コードを記述します。例としてあるゲームの登場人物のキャラクターをプログラムで表現するとします。

その時、登場人物の数だけコードを書くと非常な手間になります。そこで、プログラマは人の動作を抽象化してクラスとして定義し、種別化した単位で機能を記述します。そうすれば、共通化されたクラスに個別の特徴(データ、パラメーター)を流し込むだけで、複数人の個々の登場人物(オブジェクト)を表現できます。

クラスは集合であり、個々の登場人物、オブジェクトはその要素であると言えます。ここに演繹や帰納のような抽象-具体の軸を見ることは容易でしょう。個々の人物の動きは演繹的に導き出され、動きの機能自体は帰納的に定義されるのです。

加えて、このようなプログラミングはアブダクションの形式も持つことになります。なぜなら、例えば登場人物がそれ自体存在して動くだけで、他の事物と全く相互作用しないゲームはまず存在せず、そして、オブジェクトとオブジェクトがあるコンテクストのなかで相互作用する方式を作ること、それはアブダクションに相当するためです。

アブダクションはしばしばある事象からコンテクストないし、バックグラウンドを推測する推論です。それは情報(事象)と情報(事象)の相関がいかに存在するのかを探る推論と言い換えられます。

先ほどの例ではアブダクションは二項B(濡れた地面)→A(雨)という形をとっていましたが、実際のところBが「驚くべき事実」であるのは「今雨が振っていない」という状況と相関しているからです。その「今雨が降っていない」という事実と「濡れた地面」という事実の相関が「雨が降っていた」という推論を駆動させます。

※アブダクションが驚きの事実を要するということは、それが反実仮想と深い関わりがあることを示しています。おそらくは、むしろ現実と反実仮想の関係(相関)こそがアブダクションの前提条件なのです。

アブダクションはこのような相関の意味を問う推論であるといえます。それは抽象度の階梯のみを生き来する演繹と帰納と異なり、情報と情報を結びつける、新しい知識を創造する推論です。

翻って、プログラマはオブジェクトとオブジェクトをあるコンテクストのなかで関わりづけをさせます(さもなくば登場人物が他のものと全く無関係に一人で動くだけのナンセンスなゲームになってしまいます)。いかにオブジェクトとオブジェクト、クラスとクラスを相関させるか、それを考えるのもまたプログラマの仕事、設計の仕事なのです。実際のところうまく種々のクラスを関連付け実装するというところにはプログラマの設計者としての腕が出ます。

故にオブジェクト指向プログラミングの世界にはそのコードが表現される形式のうちに、推論形式もまたコーディングされていると言えるのです。

そして、このようなことが見られるのは、プログラミングの世界に限りません。それは資本主義経済の一つの形式ですらあります。

例えば、ビジネスの世界にはプロダクトアウト、マーケットインという考え方があります。

プロダクトアウトは企業側の「作りたいもの」や「持っている技術」から出発して商品を開発、販売します。自社の技術・アイデア・強みが起点であり、「良いものを作れば売れる」という製品開発主導型の手法です。これはある原理から結果を演繹することに相当します。

マーケットインはその逆で顧客のニーズや市場の声から出発する考え方です。顧客調査・データ分析が起点であり、「売れるものを作る」ために市場の声を聞いて製品を開発、販売します。これは帰納的な考え方だと言えます。

これら演繹と帰納に相当する手法に加えて、私はイノベーションがアブダクションに相当すると考えます。なぜならそれは既存需要や技術体系では説明できない組み合わせを生むものであり、新しい「意味の枠組み」そのものを発明するものであるからです。

イノベーションの概念を生んだシュンペーターは、それを「新結合」と呼んでいます。それは新しい意味を持った相関を生み出すものなのです。ただし、これらは実際の演繹-帰納-アブダクションがそうであるように、互いに排他ではありませんが。

さらに、この関係性は次の産業資本主義の例をみれば理解しやすいと思います。

工場は集合(設計図-普遍)から製品(個物)を作る場所であり、演繹の装置であると見れます。そして、実際の使用の現場から改善点が収集され、帰納的に製品に改良が加えられます。

アブダクションが何に対応するかといえば、現実の世界のあるコンテクストや状況から新しい製品の設計図の発明を考え、状況を変化させることに対応します。これはまさにアブダクションそのものであり、イノベーションです。それがラディカルなものであればあるほど、より上位のコンテクストから下位のコンテクストを創造的に破壊することになります。

このように、資本主義経済の世界、情報の世界は推論形式の物理的実装の世界であり、あるいは、推論の形式はそれ自体がある種の世界の写像であるのです。

経済学者である岩井克人は、資本主義とは自己差異化していくシステムであると言いました。また、機械や生物を情報の観点から分析するサイバネティクスの影響を受けたグレゴリー・ベイトソンは情報とは差異であるといっています。この推論形式から見た世界には、貨幣の表示する価値情報を処理するシステム、資本主義の情報化社会としての本質が映し出されているともいえます。

推論形式の起源

そして、上に挙げてきた3つの推論は情報の構造から生まれてくると私は考えます。

現代の情報理論における最も基礎的な意味での情報とは、ある母集団の事象の集合の中から一つの事象(要素)が発生する確率として表現されます。情報理論における情報がなぜこのように表現されるのか、それは情報の量とは「予測のしづらさ、わからなさ」によって定義できるためです。

例えば、私たちがある出来事について全知である状態を考えます。その時、私たちはその出来事のうちある状態から次の状態に遷移するとき、何が起こるか、100%の確率で選択できます。

逆に何も知らないときはどうなるでしょうか。その時は次の状態が何か全く分からない、選択を行っても外す確率が極めて高いということを意味します。

このとき私たちが次の予測の答えを教えてもらうとして、その情報に高い価値があるのは、もちろん後者です。情報の量はこのようにして定義されます。1の確率で起こることを知っているとき、その時得られる情報量は0であり、後者は外す確率が得られる情報の量ということになります。

このため、情報の量は確率によって定義されるということになります。それは「わからなさ」の量的表現と言っていいと思います。

そして、この情報量という構造は、集合と要素の選択確率、これらが組み合わさることで、演繹と帰納、アブダクションの3つの推論形式を生み出す母体となっているのです。

例えば、1の確率で要素が選択できるとき、確率は論理に変わり、演繹が生まれます。

つまり

p(x) = 1 ⇛xは必然

これは演繹の構造そのものです。なぜなら、前提が真であり、規則が確定し、結論は必然となるためです。このとき、情報の確率空間は論理空間に変容します。かくして、情報の概念から演繹が生まれます。

そして、情報量を決定するためには集合を作り、出現確率の分布を測定しなければなりません。それには個々の観測をし、その頻度から分布の推定が必要になります。これは帰納の操作そのものです。

また、このような情報量は常に何かと何かの相関の度合いの量となります。なぜなら、どのような場合でも現れるものは常に確率が1で出現するために、情報量をもちません。その意味で、あらゆる意味で全く自明なものは情報として表現されることがなく、情報は常にある特定の状況における何かの出現確率であるからです。情報は前提として、ある状況の中で認識する一者にとって情報量が0にならないかもしれないという、可能性との比較のうちに存在するのです。

先に述べたようにアブダクションとは、相関を説明する情報を求めるものです。情報量の概念は相関の程度であるがゆえに、それ自体が自身の説明としてアブダクションを誘引することとなります。そして、それは尽きることなく次の理由、次のアブダクションを招くこととなります。なぜなら相関を埋めた情報もまた相関を持っているからです。

かくして、情報にはその概念の構造のうちに推論形式の起源が存在しているのです。
そして、このなかでも、人間にとって最も基礎的な推論機構はアブダクションだと私は考えます。例えば私たちが火を認識する最初の過程を考えてみます。単純に言えばそれは次のステップになるでしょう。

  • 赤い光を見る
  • 熱いと感じる
    →火がある

このステップは推論として見たならば、アブダクションです。このとき人は「光」と「熱」というデータを見ているのではなく、それらを統合する生成原因を推定している、つまり、相関の背後にある統一原理の仮定を行なっているためです。

このようなことを述べた哲学者にヒュームがいます。ヒュームは因果は論理的に導けず、帰納は合理的に正当化できないこと、それらが習慣であることを指摘しました。人は相関しか知ることができず、人の見るその背後の因果はモデルでしかないと。

これによりヒュームは経験主義の祖となりましたが、上記のような視点からはヒュームが人間の知というものが本質的にアブダクションで出来上がっていることを示していたと解釈できます。人間の現実に対する知は論理的演繹ではなく、常にアブダクションという「飛躍」を含んでいることを。ゆえに、アブダクションが相関しかない世界、現象の世界に、もの(それ自体)や因果を導入すると言えるでしょう。それはおそらくは、言葉の意味の誕生にも関連しています。

推論の形式はこのように深く人間の認識、人間の社会、人の自然の世界にその構造を見せています。それがカントの言うような人の認識の形式が見せるものなのか、ベイトソンやサイバネティシャンが見るような自然の世界そのものの形なのかは私にはわかりません。

このような事態が示すのは人間存在が情報を道具のように自由自在に操り、自らのために情報の環境を築く存在でありながら、自らの本能が生み出した情報になすすべなく操られ、翻弄される、遺伝情報の運び手たる生物一般の本質を固有の形態で体現する一つの種であるということなのかもしれません。

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