「止まれないAI」が本当の脅威だ ― 経理判断を守るStop-first設計
「止まれないAI」が本当の脅威だ
AIの自動化で、本当に経理の現場は楽になるのでしょうか?
経理マンである筆者の回答は、ある問題を解決できれば「はい」です。
問題は「AIが間違える」ことではありません。「AIが止まらない」ことです。
そのため私は、意図的に止まるAIを作りました。
デモ動画
このプロダクトを作った理由
筆者は経理の実務者です。毎月約300枚の請求書に対して、資本的支出か修繕費かの判定を行っています。
この判定が確定しないと決算が先に進みません。繁忙期のなかで速く、正確にこなすことが求められますが、「空調設備の更新工事」のような案件は一筋縄ではいきません。フロンガスの撤去費用の扱いや、建物附属設備か工具器具備品かの区分など、明確なルールがないまま判断を迫られます。
いざ後輩に聞かれても、恥ずかしながら明確なロジックを断言できませんでした。そこには自身の「経験則」という判断がありました。
ただ、人間の判断も、結局は経験に基づく膨大なフローチャートの蓄積です。
ならばAIにもできるのではないか。経理マンである自身ではコードが書けなくとも、AIエージェントを指揮すれば一人でも本格的なプロダクトを作れるのではないか——その仮説が、このプロジェクトの出発点でした。
本業の決算と並行しながら、友人の会計士の知見も借りつつ開発を進め、自分が日々直面している課題を、自分の手で解決するプロダクトとして形にしています。
背景:月末の経理部門で起きていること
月末の経理部門。机には未処理の見積書が山積みになっています。
「この工事、資本的支出? それとも修繕費?」
この判定が確定しないと決算が先に進みません。しかし繁忙期に時間をかける余裕はなく、速く、正確にこなすことが求められます。結局、「去年と同じ処理でいいか」と決めてしまうこともあります。
そして数年後、税務調査で「なぜこの処理にしたのですか?」と問われます。
「空調設備 更新工事 一式 1,200,000円」
更新って、新規購入? それとも既存設備の修繕?
「一式」の中身が分からないと判断できない...
AIによる自動化が進む今、こんな声を聞くようになりました。
「AIが判定してくれるなら、そのまま採用すればいいじゃないか」
その考えが、誤った判断を高速に通過させてしまいます。
Stop-first設計とは
私たちが提案するのは「Stop-first Agentic AI」という設計思想です。
| 従来のAI自動化 | Stop-first AI |
|---|---|
| 「速さ」が正義 | 「正確さ」が正義 |
| エラー時にアラート | 曖昧な時点で停止 |
| 人間は事後確認 | 人間は事前承認 |
| 自動化率が目標 | 判断品質が目標 |
核心はシンプルです:
AIが「わからない」と言える設計にします。
自律 ≠ すべてを自動で処理すること
自律 = 判断を「行う」か「止める」かを選択できること
3値判定モデル
Asset Agenticは見積書の明細を3つの値で判定します。
| 判定 | 意味 | AIの行動 |
|---|---|---|
| CAPITAL_LIKE | 資産計上の可能性が高い | 自動判定 |
| EXPENSE_LIKE | 経費処理の可能性が高い | 自動判定 |
| GUIDANCE | 判断が割れる | 判定を停止し、人間に委ねる |
GUIDANCEは「誤判定」ではありません。判断すべき箇所を人間に示すための意図的な停止です。

なぜ「止まる」を選んだのか
全自動で判定してくれるAIのほうが便利に思えるかもしれません。しかし経理実務では、一か所の誤りが後工程すべてに波及します。なぜなら、決算は全ての数字がつながっているからです。判定を間違えれば、その先の説明資料が全て作り直しになり、影響がないかを一つひとつ確認し直す羽目になります。
ver.1の資料がver.2になり、2.1になり、2.1(最終)になり、2.1(最終)_修正版になる...
繁忙期にこれを掘り返してやり直す精神的な疲弊は、経験した人にしかわかりません。
経理という分野を超えて、この感覚に共感して頂ける方は案外多いのではないかと勝手ながら思っております。
だからこそ、「間違えて走るくらいなら止まってくれ」というのが現場の本音です。AIが自信を持てない案件は、根拠を添えて人間に判断を返す。確信度の高いものだけを処理し、曖昧なものには手を出さない。Asset Agenticの3値判定(資産/費用/要確認)は、この「止まる勇気」を設計に組み込んだものです。
止まる条件
Gemini 3 Proに税法知識を注入し、書類全体の文脈から判定しています。以下の条件で自律的に停止します:
- 曖昧なキーワード: 「一式」「移設」「更新」を検出
- 競合キーワード: 資産キーワードと経費キーワードが混在する場合
- 金額閾値: 10万/20万/30万/60万の境界で安全側に倒す(キーワード判定がない場合のみ)
- 書類全体の矛盾: 明細の合計と個別判定が食い違う場合
- 信頼度不足: Geminiの判定確信度が70%未満
明細ごとの自動処理:
- 運搬費・搬入費・据付費: 取得価額に自動算入(緑色表示)
- 撤去費・廃棄費・除却費: 経費として処理(青色表示)
- 諸経費・一般管理費: 資産/経費の金額比率で按分(緑または青色表示)
- 混在・不明: 要確認(黄色表示)
AI参考判定(GUIDANCE項目への補助情報)
GUIDANCEで停止した明細には、AIによる参考判定(ai_hint)が付与される場合があります。判定はしません(GUIDANCE維持)が、AIの見解は参考として提示する設計です。Gemini APIによる推定を第一候補とし、タイムアウト時はキーワードヒューリスティックにフォールバックします。UIでは「AI参考判定: 費用寄り (信度60%)」のように青色バッジで表示され、ユーザーが判断する際の補助情報として機能します。
止まる→聞く→変わる:5ステップのAgenticループ
ここがAsset Agenticの核心です。
ステップ1:止まる
AIが「判断が割れる」と判定し、自動処理を停止します。

ステップ2:理由を示す
なぜ止まったのかを具体的に提示します。
- 「購入目的が不明です → 目的によって資産計上か経費処理かが変わります」
- 「撤去費が含まれている可能性 → 撤去費は取得価額に含めません」
ステップ3:聞く(2段階の対話)
ユーザーに2段階で質問します。
1回目: 「この支出の目的を教えてください」
→ [修繕・維持] or [新規購入・増強]
2回目: 選択に応じた追加質問
→ 修繕の場合:「修繕の頻度を教えてください」 [定期的] or [今回が初めて]
→ 新規の場合:「既存設備の入替ですか?」 [はい] or [いいえ]

ステップ4:再実行
ユーザーの回答を踏まえてAIが再判定します。
ステップ5:差分を見せる
Before → After で何が変わったかを明示します。

この差分は監査時の説明資料として利用できます。
判定が変わった理由が、証跡として自動記録されます。税務調査で「なぜこの処理にしたのですか?」と問われた時、この記録が回答になります。
似た事例の提示(セレンディピティ)
GUIDANCEで止まった時、AIが似た実務事例を1つ提示します。
似た事例: 空調設備の更新工事で撤去費を含むケース
結果: 撤去費を除外し、資本的支出80万円+修繕費40万円に分離
教訓: 「一式」の中に撤去費が含まれる場合、分離計上が有利なことがある
ユーザーが自分では気づかなかった視点を、AIが提供します。判定だけでなく、判断の質を上げる支援です。
システム構成
Google Cloud AIの活用
| サービス | 役割 | 用途 |
|---|---|---|
| Gemini 3 Pro Preview | 分類判定・耐用年数推定 | 税法知識を注入し、全明細を一括判定。thinking_level=HIGH
|
| Gemini 2.0 Flash | PDF読み取り・文書分割 | Vision APIで手書き対応の高精度抽出 |
| Document AI | PDF構造解析(拡張) | 高精度OCR・テーブル抽出(USE_DOCAI=1で有効化) |
| Vertex AI Search | 法令エビデンス検索 | GUIDANCE時に関連通達を自動検索 |
| Cloud Run | デプロイ(2サービス) | API + UI を分離してホスティング |
Cloud Run デプロイ
| サービス | 役割 | URL |
|---|---|---|
| API | バックエンド(FastAPI) | fixed-asset-agentic-api |
| UI | フロントエンド(Streamlit) | fixed-asset-agentic-ui |
税務知識の注入
Gemini 3 Proのプロンプトに、以下の税法知識を体系的に組み込んでいます。
取得価額の範囲
| 含めるもの | 含めないもの |
|---|---|
| 購入代価、付随費用(運賃・保険料) | 撤去費用、廃棄費、処分費 |
| 設計費、据付費、試運転費 | 解体費、除却費、原状回復費 |
| 購入手数料、運搬費、搬入費、配送費 | 不動産取得税、登録免許税 |
| 荷造費 | 借入金利子、引越費用 |
キーワードによる自動分類:
- 運搬・搬入・据付などは取得価額に自動算入
- 撤去・廃棄・処分などは経費として処理
- 諸経費・管理費は資産/経費の金額比率で按分(端数は経費側に寄せる)
金額閾値と処理方法
| 金額 | 取扱い | 根拠 |
|---|---|---|
| 10万円未満 | 消耗品として一括経費 | 法人税法施行令第133条 |
| 10万〜20万円 | 3年均等償却の選択可 | 施行令第133条の2 |
| 20万〜30万円 | 中小企業特例の対象 | 租税特別措置法第67条の5 |
| 30万円超 | 固定資産として減価償却 | 基本通達7-8-4, 7-8-5 |
税ルールとキーワード判定の関係:
- キーワードで明確に判定できる場合(「購入」「保守」等): 税ルールは参考情報としてフラグに記録
- キーワードで判定できない場合: 税ルールに基づきGUIDANCE(要確認)に設定
- これにより、明確な経費(「撤去」等)が金額閾値で誤って資産扱いされることを防ぎます
資本的支出 vs 修繕費
| 条件 | 判定 | 根拠 |
|---|---|---|
| 3年以内の周期で実施 | 修繕費 | 通達7-8-3 |
| 20万円未満 | 修繕費 | 通達7-8-4 |
| 60万円未満 | 修繕費として処理可 | 通達7-8-5 |
| 用途変更・増設 | 資本的支出 | 通達7-8-1 |
これらの閾値に該当する場合、キーワード判定に関わらずGUIDANCEで安全側に倒します。
Before / After
Before:従来のAI自動化
見積書 → AIが自動判定 → 結果を採用 → (数年後)税務調査で否認
↑
「なぜこの処理にした?」
「AIが判定したから...」
- AIの「断定癖」 ― 不確実でも何かしら答えを出してしまいます
- 責任の曖昧さ ― AIが判定したのか、人間が判断したのか不明確です
- 判断根拠の消失 ― 後から「なぜ」を説明できません
After:Stop-first設計
見積書 → AIが分析 → GUIDANCE → 人間が判断 → 証跡を保存
↓
「判断が割れる可能性」
「追加情報が必要」
「似た事例はこちら」
- 3値判定 ― **GUIDANCE(判定しない)**という選択肢
- 明確な責任分界点 ― AIは「要確認」を出し、人間が最終判断
- 完全な証跡 ― 判定根拠・ユーザー回答・差分を自動記録
まとめ
「AIが賢くなる」ではなく「AIが止まる」ことに価値があります。
決算は全ての数字がつながっています。一か所の誤りが後工程すべてに波及し、繁忙期に掘り返してやり直す精神的な疲弊は、はっきり言って味わいたくありません。だからこそ「自信がなくて間違えるくらいなら止まってほしい」——これが現場の本音です。
Asset Agenticは、判断が割れる場面で自律的に停止し、
人間に確認すべきポイントを明示します。
経理実務者が、自分の課題を自分で解決するために作ったプロダクトです。
これが「Agentic AI」の新しい定義 ―
判断を行う/止めるを選択できる自律性。
| 観点 | 従来のAI自動化 | Stop-first設計 |
|---|---|---|
| 判定方式 | 全自動(強制判定) | 3値判定(止まれる) |
| 責任境界 | 曖昧 | 明確(人間/AI分界点) |
| 監査対応 | 事後説明困難 | 判定根拠トレース可能 |
| 導入リスク | 高(誤判定リスク) | 低(不明時は停止) |
参考リンク
補足資料
実務で使える機能
明細の蓄積とCSVエクスポート
- 1インポート = 1判定 で明細を蓄積
- 複数のPDFを次々と判定し、すべて履歴に記録
- CSVエクスポートでExcelにダウンロード
資産種類・耐用年数の自動表示
CAPITAL_LIKE判定時に、国税庁「減価償却資産の耐用年数等に関する省令」に基づく資産区分と法定耐用年数を自動表示します。
導入効果
| 工程 | 従来 | 導入後 |
|---|---|---|
| 見積書の確認・読み取り | 担当者が全文精読 | PDF自動抽出で要点のみ確認 |
| 資本的支出/修繕費の判断 | 全件を人が精査 | AI判定+GUIDANCEで要確認のみ人が判断 |
| 勘定科目・耐用年数の確認 | マスタを手動検索 | マスタ自動照合で候補提示 |
| 起票・承認申請 | 手作業 | 手作業(変化なし) |
現在の制限事項と今後の課題
制限事項
| 制限 | 理由 |
|---|---|
| 1PDF = 1書類を推奨 | 複数書類のページ分割が未実装 |
| 高精度モードは5ページまで | Gemini Vision APIの処理負荷 |
| CSVは判定結果のみ | 原本PDFは別途保管が必要 |
今後の課題
| 課題 | 概要 | 優先度 |
|---|---|---|
| 複数書類PDF対応 | サムネイル俯瞰方式で境界特定 | 高 |
| 資産名類似度学習 | 過去台帳から類似資産を検索・提案 | 高 |
| 履歴の永続化 | DB連携でセッション超えの履歴保持 | 高 |
| 会計ソフト連携 | 弥生会計・freee等へのAPI連携 | 中 |
| 原本添付機能 | CSV+PDFのZIP同梱出力 | 中 |
本記事は、第4回 Agentic AI Hackathon with Google Cloud への参加プロジェクトとして執筆されました。
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