社会科学にCI/CDを導入してみた話 ― 理論仕様書という発明
はじめに:エンジニアとしての10年と、大学院での違和感
10年間エンジニアとしてシステム開発をしてきた。
コードを書き、要件を整理し、バージョン管理をして、少しずつ改善を回す。
それが「ものづくりの当たり前」だと思っていた。
ところが、今年から社会科学系の大学院に入って、最初に感じたのは――
「 学問にはバージョン管理がない 」という違和感だった。
理論は“完成品”として語られ、再現もアップデートも難しい。
どれだけ優れた仮説でも、書かれてしまえば固定化される。
これはまるで、巨大なモノリシックシステムを誰もメンテしていない状態だった。
そこでふと思った。
「もし理論をCI/CDで回せたらどうなるんだろう?」
「知を“継続的にデプロイ”できたら、学問はもっと生きたシステムになるんじゃないか?」
この問いから生まれたのが、「 理論仕様書(Theory Specification Document) 」という考え方だ。
社会科学に“仕様書”が存在しないという問題
エンジニアにとって仕様書は“再現可能な約束”だ。
プロセスを明示し、誰でも同じ結果を再構築できるようにするためのもの。
だが社会科学では、多くの理論が 個人の経験と文体 に依存している。
理論の「作り方」が明文化されておらず、
同じテーマを扱っても、研究者が違えば理論そのものがまったく別物になる。
それはまるで、
「ドキュメントがない状態でプロダクトを保守している」
ような世界だった。
再現性の危機という言葉があるが、それは自然科学だけの話ではない。
社会科学もまた、理論の再現性を失っている。
AIや情報技術がこれほど進んでも、知の生成過程だけがブラックボックスのままだ。
理論仕様書という発想:思考の設計図を作る
理論仕様書は、学問における“開発ドキュメント”のようなものだ。
目的はシンプル――理論を構築するプロセスを明示的に設計すること。
その基本構造は次の通り。
| フェーズ | 内容 |
|---|---|
| 1. 理論目的 | 何を、どの文脈で説明するか |
| 2. 前提条件 | 経済的・社会的・心理的な前提を明記 |
| 3. 主要変数 | 因果構造を成す変数と関係性 |
| 4. 仮説群 | 現象に対して立てる複数の仮説 |
| 5. データ仕様 | 検証に用いるデータ構造の定義 |
| 6. 検証フロー | 思考サイクル(仮説→検証→再構築)の設計 |
| 7. 再構築ループ | 差分を抽出し、前提を再設計する手順 |
この構成を見ればわかる通り、
「理論を書く」のではなく「理論を設計して動かす」ための枠組みになっている。
AIを組み合わせれば、仮説の自動展開や反例探索も可能になる。
つまり、学問の思考プロセスを自動テスト化できる。
きっかけになった実験:AIリストラ分析
この考え方を最初に試したのが、
2025年に起きた「AIリストラ」現象――
米国企業がAI導入を理由に大量の人員削減を発表した出来事だ。
通常の経済分析では、
「AIが生産性を高め、不要な職種を減らす」という因果で説明される。
しかし実際にデータを見てみると、
AI導入が直接の原因であるケースは全体の4%程度に過ぎなかった。
つまり「AIによるリストラ」は、実体よりも“語り”として使われている。
企業がAIを正当化の物語として利用しているのではないか?
この仮説を理論仕様書に沿って検証していった結果、
次のような構造が見えてきた。
AI導入の現実
│
▼
「AIによる効率化」という正当化ナラティブ
│
▼
経営判断(リストラ)
│
▼
短期的な株価上昇(市場の承認)
│
▼
内部信頼の低下(従業員の不安・批判)
│
└───> 再びAIを理由に改革を正当化(循環)
このループ構造は、単なる経済現象ではなく、
「AIという言葉が社会的機能を持つ」ことを示している。
結果的に、
「AIは雇用を変える技術ではなく、雇用を変える“理由”を供給する社会言説装置である」
という新しい理論――AI正当化フィードバック理論が生まれた。
理論仕様書の力:学問を“回す”仕組み
このとき感じたのは、
理論仕様書が単なる整理ツールではなく、
理論を自動的に再構築する思考エンジンになっていたことだ。
仮説をAIに投げ、結果を見て前提を修正し、
再びAIに問いを投げる。
このサイクルを回すたびに、理論の構造が深まっていく。
まさにこれは、
「社会科学のCI/CD」
と呼べるプロセスだった。
コードのテストが自動化されたように、
思考の検証も自動化できる。
理論仕様書はそのパイプラインの設計図だ。
この発想が生まれた背景
ここまで来てようやく気づいた。
これは「私が10年間エンジニアで、今年から大学院に入った」からこそ出てきた発想だ。
エンジニアとして身につけたのは、
- システムを分解して設計する力
- 再現性を担保するドキュメント文化
- 継続的改善(CI/CD)の発想
大学院で学んだのは、
- 理論とは何か
- 仮説と前提の関係
- 社会の中で“知”がどう機能するか
この2つの文法が頭の中で衝突したとき、
「理論を設計できるのでは?」
という閃きが生まれた。
つまり、技術と学問の文法が干渉して生まれた副産物。
エンジニアリング的思考が、社会科学のブラックボックスを照らした。
これからの展望:理論を「運用」する時代へ
理論仕様書はまだ試作段階だ。
けれど、この仕組みをもう少し磨けば、
理論そのものを継続的に運用する研究基盤にできる。
再現性が高まり、複数の研究者が同じ仕様書をForkして検証できる。
それは、学問の「共同開発化」とも言える。
社会科学の次の時代は、
「論文を書く」から「理論を運用する」へ。
コードをリポジトリで管理するように、
理論もバージョン管理され、改良され、テストされる時代が来る。
おわりに:学問と開発のあいだで生まれるもの
この発想は特別な才能からではなく、
エンジニアとして培った構造思考と、研究者としての問いの交差点から生まれた。
社会科学が「設計可能」になるという発想は、
技術と知の新しい融合の始まりだと思う。
いまは小さな試作だけど、
いずれ「理論を設計して運用する」ことが、学問の新しい日常になるかもしれない。
理論仕様書は、知を静止させないための装置だ。
学問を語る時代から、学問を“回す”時代へ。
それが、私の見ている次の景色である。
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