「恐竜は、化石になるために生きていたわけではない」 ─ 誰にも読まれないドキュメントに価値はあるか?
「これ、ドキュメントに残しておかないと…」
そう思った瞬間、手が止まったことはありませんか?
ドキュメントがないと困るのは、わかっている。でも、書こうとすると手が止まる。
書いても、誰も読まないかもしれない。
読まれたとしても、いつか化石のように古く風化して、役に立たなくなってしまう。
私自身、ドキュメントをTODOリストに追加したまま、そっとしておいたことが何度もあります。
なぜ私たちは、ドキュメントを書くことに対して、これほどまでに複雑な感情を抱いてしまうのでしょうか?
はじめに
本記事では、ドキュメントに対して誰もが抱く複雑な感情の正体を「ドキュメントの本質」という視点から考えてみます。
そして、「今この瞬間のために書く」という視点を持つことで生じる、向き合い方の変化をご紹介します。
ドキュメントを「伝達の道具」だと思い込んでいる
ドキュメントを書こうとすると手が止まる。その最大の原因は何でしょうか?
それは、「うまく書けない」ことではなく、もっと根源的な問題 「私たちがドキュメントを『誰かに伝えるための道具』と思い込んでいる」 という事実にあるのではないでしょうか。
この前提に立つと、すべてが不安になります。
読まれなければ、意味がない。古くなれば、トラップになる。
だから、書いても虚しく感じます。
なぜ「伝える道具」と思い込んでしまうのか
この「伝達価値」だけを重視してしまう背景には、2つの理由があるように思います。
理由1: 人数の非対称性
書く人は大抵1人ですが、読む人は5人、10人になることも珍しくありません。
この人数の非対称性があるからこそ、私たちは無意識に 「書く側」ではなく、「読む側」の視点で価値を測ってしまうのかもしれません。
理由2: 頭の中で考えられるという錯覚
私たちは、普段、頭の中だけで十分に考えられていると思いがちです。
しかし、実際には、いざ言語化して書き出そうとしてみると、「あれ、これでいいんだっけ?」「この考慮が漏れている?」となることがよくあります。
この書かなくても考えられているという錯覚によって、「書く側」としての価値を、知らず知らずのうちに過小評価してしまっているのかもしれません。
化石という名のドキュメント
「伝達価値」のためだけに書かれたドキュメントは、ある宿命を抱えています。
- 時間が経ち、情報の渦へと埋もれていく
- 「どうせ古い」と敬遠され、存在自体が忘れられる
- 後で発掘されても、当時の文脈が失われ、理解することが難しい
まさに、「化石のようなドキュメント」 です。
「伝わるかどうか」を前提にしている限り、私たちは「読まれるか」「古くならないか」という、自分ではコントロールできない不確実性に振り回され続けます。
しかし、ドキュメントの価値は、本当に「伝達価値」だけなのでしょうか。
課題の再定義:「伝達価値」から「生成価値」へ
ここで、ドキュメントの価値そのものを捉え直してみましょう。
そもそも、「書く」という行為の本質は何でしょうか。
それは、突き詰めれば 「曖昧な思考を、外の世界に固定する活動」 です。
頭の中にある思考には、厄介な性質があります。
- 曖昧で、境界がはっきりしない
- 複数の要素を長時間同時に、正確に保持できない
- そして、自分の考えは正しいと思いたがる
書くという行為は、この曖昧な思考を外の世界に固定します。
固定された思考は、もはや 「自分の一部」ではありません。
客観的な対象として、観察し、評価できるようになります。
この視点に立つと、ドキュメントの価値は「伝達」だけではないことが見えてきます。
ドキュメントを書く行為そのものから得られる 「生成価値」 こそが本質ではないでしょうか。
書かなければ、思考できない
ドキュメントを書き始めると、不思議なほど頻繁に手が止まります。
それは手が動かないのではなく、脳が「考えていなかった事実」に直面しているからです。
- 「背景」を書こうとして、なぜこの機能が必要なのか、自分でもわかっていなかったことに気づく
- 「理由」を書こうとして、なぜこの方法を選んだのか、言葉にできないことに気づく
- 「手順」を書こうとして、自分でもステップが曖昧だったことに気づく
書くことで、はじめて気づけることがあります。
TDDでテストを先に書くことで設計の質が向上するように、ドキュメントを書くことで思考の質を上げることができます。
思考の証を刻み込む
ただ、こんな疑問が浮かぶかもしれません。
「でも、ドキュメントはいつか古くなる。化石になる。それでも価値があるのか?」
確かに、化石化したドキュメントは厄介です。ときに害悪ですらあります。
ですが、こう考えることはできないでしょうか。
恐竜は、化石になるために生きていたわけではない。
化石は「生きた証」です。
恐竜が懸命に生きた、その証です。
私たちも同じです。
なぜその判断をしたのか。どんな制約の中で考えたのか。
それは、私たちが本気で思考した証です。
たとえそれが化石になろうとも、書くことで限界まで考え抜いた「今この瞬間」に価値があるのではないでしょうか。
今この瞬間から始める具体的な第一歩
思考の証を刻むといっても、難しいことは何もありません。
次に出すPRの説明欄を「今この瞬間の自分のため」に書いてみましょう。
Before:伝えるためだけに書く
- 「〇〇機能を実装しました。△△ライブラリを使用しています。」
- AIに書かせた詳しい説明をコピペして終わり
After:今この瞬間の自分のために書く
「なぜ△△ライブラリを選んだのか」を書こうとした瞬間、手が止まる。
——あれ、なぜこれを選んだんだっけ?
書こうとして、はじめて気づく。「なんとなく」で選んでいたことに。
さらに書き進める。「エラー時の挙動は…」
——あれ、この条件のとき、どうなるんだ?
書こうとしたから、気づけた。
読まれる前に、設計の穴を見つけられた。
この小さな変化が、私たちとドキュメントの関係をより良い方向へと導いてくれます。
読まれなくても、古くなっても、書いた瞬間の価値は、私たちのものです。
まとめ
ドキュメントを書くのは、誰のためでしょうか?
他の人のため?
将来の自分のため?
それだけではありません。
今この瞬間の自分のために、書く。
自分のために書くならば、誰にも読まれないドキュメントにも価値はあります。
思考の証を、その軌跡を、化石のようにドキュメントに刻み込む。
その瞬間にこそ、価値が生まれているのではないでしょうか?
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