モチベーションという言葉の耐えられない軽さ
「モチベーションが大事だ」「モチベーションが下がっている」「どうやってモチベーションを上げるか」。
仕事の話をしていると、こうした言葉はごく自然に使われる。あまりに自然なので、その言葉が何を指しているのかを、あらためて考える機会はほとんどない。
だが、私はこの言葉に、ずっと引っかかりを感じてきた。
軽すぎる言葉
モチベーションという言葉は、とても軽い。
軽いというのは、いい加減だとか、無意味だということではない。むしろその逆で、この言葉は説明としてあまりにも便利だ。状態を手短に言い表せて、話を前に進めやすくしてくれる。
だからこそ、多用される。
だが、その便利さゆえに、この言葉は人の内面で起きていることを、あまりにも雑にまとめてしまう。
雑なモデルとしてのモチベーション
人の頭の中では、常にさまざまなことが起きている。集中できたり、散漫になったり、気が重くなったり、妙に冴えたりする。
それらを一つひとつ正確に捉えるのは難しい。そこで人は、「眠気」「疲労」「気分」といった言葉を使って、内側で起きている状態に名前を与える。
モチベーションも、その延長線上にある言葉だろう。
それは、人の内面で起きている複雑な事象に対して与えられた、ひとつの解釈であり、雑なモデルにすぎない。
そこに何かが「ある」前提
ところが、モチベーションという言葉は、いつの間にか、そこに何かが「ある」ものとして語られるようになる。
モチベーションがある、ない。上がる、下がる。
こうした言い回しを重ねるうちに、モチベーションは、人の内面にひとつの状態として存在しているかのように扱われていく。
しかし、人の内面で起きていることが、本当にそのような単純なモデルとして捉えられるものなのかは分からない。
疲れは活動量に比例して直線的に溜まるわけではないし、「疲れを吹き飛ばす」と言ったからといって、何かが実際に吹き飛んでいるわけでもない。
それでも、そうした言い方が繰り返されるうちに、私たちは、そこに何かがあるのだと考えるようになってしまう。
行動は、やる気を経由しない
例えば、私は釣りが好きだ。
寝ても覚めても釣りのことを考えている。潮回りやタックル、ポイントの地形、次に試したいルアー。気づけば、頭の中はいつも釣りで埋まっている。
この状態を指して、「モチベーションが高い」と言うことはできる。
だが、その言葉は、私の実感とはあまり噛み合わない。
私は「やる気を出そう」と思って釣りのことを考えているわけではない。ただ、そうなっているだけだ。
人を助けるときも、似たようなものだろう。
目の前で困っている人がいれば、考えるより先に体が動くことがある。そこに「やる気が湧いた」という感覚が挟まる余地は、ほとんどない。
行動は往々にして、モチベーションのような何かを経由せずに、ある種の必然として立ち上がる。
軽い言葉が納得を生む陳腐さ
行動の背景には、習慣や判断の癖、自分はこういう人間だという感覚、その場の文脈など、さまざまな要素が絡み合っている。
だが、それらは断片的で、輪郭がはっきりしない。正面から言葉にしようとすると、どうしても回りくどくなる。
そこで、モチベーションという言葉が使われる。
その一語が置かれた瞬間、「なるほど」と言える感じが生まれる。細かい話をしなくても、何となく分かった気になる。理由が説明されたような手応えだけが残る。
だが実際には、何かが明らかになったわけではない。複雑だったはずの背景は、そのまま見えなくなり、話はそこで終わってしまう。
軽い言葉が、軽いまま納得を生んでしまう。その感じが、どうにも陳腐に思えてしまう。
おわりに
モチベーションという言葉には、耐えられないほどの軽さがある。
それは、この言葉が悪いからでも、間違っているからでもない。ひとつの言葉でまとめてしまえるほどには、人の内面で起きていることは単純ではないという、ただそれだけのことだ。
Discussion