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移民として生きる中で、「自己」が一度壊れた話

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アゴタ・クリストフの『悪童日記』を読み終えたとき、私は言葉にできない戦慄とともに、ある種の「納得」を覚えた。戦時下、過酷な環境を生き抜くために、双子の兄弟が自らに課す訓練——痛みに耐え、感情を殺し、事実のみを記述する。彼らの営みは、単なる生存戦略を超えて、それまでの「自分」を一度完全に殺し、機能的な「自己」へと作り変える作業だった。

この物語に強く惹きつけられたのは、私自身が「移民として生きる」という経験の中に、同様の自己解体と再構築のプロセスを見出していたからだと思う。

アゴタ・クリストフは1956年のハンガリー動乱をきっかけに亡命し、その後スイスで暮らした作家である。
母語であるハンガリー語を日常的に使えない環境に置かれ、彼女はフランス語という「自分の言葉ではない言語」で書くことになった。
感情を排し、事実のみを簡潔に記述する『悪童日記』の文体は、文学的な技巧というよりも、異国で生き延びるために獲得された、極めて実践的な表現だったと考えられる。

過去の自分との決別、あるいは解体

移民として生きることは、単に住む場所を変えることではない。それは、それまでの自分を支えていた文脈、言語、人間関係、そして「自分はこういう人間である」という緩やかな合意から切り離されることを意味する。私は30代で家族とともにアメリカへ渡り、そこで10年ほど働いた。その経験は、生活環境の変化以上に、自己の前提そのものを揺るがすものだった。

20代のころ、日本にいた私は、周囲からの期待や社会的な枠組みの中に、自分の輪郭を預けていた。それは明確な根拠があるというより、「自分はこういう立場で、こう振る舞えばよい」という了解の集積によって成立していた自己像だった。

しかし、異郷の地では、その前提は一切通用しない。言葉が不自由で、文化的な文脈を共有していない私は、そこでは「何者でもない」。かつての自分が持っていた自信や自尊心は、新しい環境の中で少しずつ削られていく。

移民として生きることは、望むと望まざるとにかかわらず、過去の自分を一度解体しなければならない作業なのだ。

「演技」の蓄積と、その先にある空虚

新しい社会に適応しようとするとき、私たちは必然的に「演技」を始める。その社会が期待する振る舞い、適切な表情、求められる反応。それらを注意深く観察し、模倣し、演じる。適応がうまくいくということは、つまるところ、その「演技」が上達するということだ。

私の場合、この演技性が高まるにつれ、心の中に奇妙な空虚が蓄積されていった。鏡の中にいる自分は、現地の言葉を話し、現地の作法に従って微笑んでいる。しかし、その内側には、その言葉と結びついた実感がない。私はただ、記号化された「正しい振る舞い」をトレースしているだけではないか。このまま適応を続ければ、本当の自分はどこかへ霧散してしまうのではないか。そんな恐怖に、時折襲われた。

しかし、この空虚な状態を抱えたまま日々を重ねる中で、ある変化が起きた。

手触り感のある自己の獲得

期待される振る舞いを自分に課し、内側で折り合いをつけ続けるような環境で生きる中で、私は「日本では得られなかった自分」に出会い始めた。それは、かつての曖昧な自己イメージとは異なる、重みと質感を持った「手触り感のある自己」だ。

皮肉なことに、社会に馴染もうとする過程の中にこそ、剥き出しの自分がいた。期待に沿えない自分、それでも何かを伝えようとする自分、違和感を抱えながらも関係を続けようとする自分。そうした内的な調整の積み重ねの中で、私は次第に「自分は何者なのか」を考えざるを得なくなっていった。

それは単に年齢を重ねたことによる成長、という言い方では足りない気がする。異国の地で、違和感を抱えながら適応を続けるうちに、私はそれまでの振る舞いをそのまま続けることができなくなり、そこから一歩踏み出そうとした。その過程で初めて、自分なりの仕方で他者と向き合う、という感覚が立ち上がってきたのだと思う。

人生の難所と、想像力の救い

言うまでもなく、この自己再構築の作業はしんどい。それは人生における大きな「難所」であり、下手をすれば自分自身を見失ってしまう危うい道だ。この難所を乗り越えるために、私が必要だと感じているのは「他者の内面化」という力だ。

それは、今の自分とは別の、しかしあり得たかもしれない自分——例えば日本に残り続けていた自分や、全く異なる適応を遂げた自分——を心の中に住まわせ、対話させることだ。あるいは、私を見つめる現地の他者が、私の背後に何を見ているのかを想像することだ。

自分を単一の「固まった正解」として定義しようとすると、再構築の重圧に押し潰されてしまう。そうではなく、複数の可能性や他者の視点を自分の中に内包し、それらを統合していく力。それは「豊かな想像力」と言い換えてもいい。

アゴタ・クリストフが、あの感情を抑えた文体で過酷な運命を描いたのも、物語という想像力の力によって、解体された自己を繋ぎ止めようとしたからではないだろうか。移民として生き、自分を解体していく過程は、確かに容易ではない。けれど、その過程の中から、他者と向き合うことのできる、より嘘のない自分が立ち上がってくるのだと、私は信じたい。

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