矯正型育成が思考を奪う
育成は矯正になっている
多くの組織で行われている「育成」は、実質的には「矯正」かもしれない。
先に「望ましい型」がある。そこに到達していない状態を「未熟」と定義する。本人の現在の思考や判断は「まだ正解に達していないもの」として扱われる。マネージャーやリーダーは、部下をその型に近づけることを自分の役割だと信じている。
この構造では、本人がどう認知しているか、何を考えたか、どう判断したかは、本質的には問題にならない。それらは「修正されるべき対象」だ。正解は最初から外部にあり、本人はそこに到達するために自分を変えなければならない。
これは育成ではない。矯正だ。人を伸ばすのではなく、人を型にはめる行為だ。
矯正が思考を奪うメカニズム
矯正を受け続けた人間は、ありのままの自分が受け入れられない。常に「まだ足りない」というメッセージを受け取る。自分の認知、自分の判断、自分の言葉は、いつも「修正されるもの」だ。
すると何が起きるか。
人は自分の認知を起点に考えることをやめる。「自分はどう思うか」ではなく、「どう評価されるか」を先に考えるようになる。思考の出発点が、自分の外側に移動する。
自分で判断する前に、他者の評価基準を内面化する。自分の言葉を発する前に、それが「正しいとされる言葉」かどうかを検閲する。思考のプロセスそのものが、他者依存になる。
結果として作られるのは、自律的に考える人間ではない。評価に依存し、指示を待ち、自分の判断に自信を持てない人間だ。自分の認知を信じられず、常に外部の承認を必要とする。
組織に何が起きるか
矯正型の育成を続けた組織に残るのは、思考の主体性を失った個人の集合だ。
彼らは問題を自分で発見することができない。なぜなら問題とは「誰かが定義するもの」だから。判断することができない。なぜなら判断とは「誰かが承認するもの」だから。責任を引き受けることができない。なぜなら自分で判断する主体として扱われてこなかったから。
すべては「誰かが決めるもの」になる。思考は常に上へとデリゲートされ続ける。個人は判断を放棄し、承認を待つ。
本人は自分の認知ではなく、他者からの評価を基準に動くようになる。「自分はどう考えるか」ではなく「これは評価されるか」が意思決定の軸になる。内発的な動機は失われ、外部評価への依存が残る。
結果として組織は、指示がなければ動けない集団になる。誰もが「正解」を待ち、誰もが「承認」を求める。思考することが、組織から消える。
何を変えるべきか
育成する側は、相手を思考する主体として扱うべきだ。
正解を教えるのではなく、自分の認知と判断のプロセスを開示する。相手の思考を修正するのではなく、異なる視点を提示する。本人の認知を尊重し、別の可能性を並べて置く。
本人が自分の認知を起点に考え、自分の判断に責任を持ち、自分の言葉で語れるようになること。育成とは、本来そうあるべきだ。
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