🔖

プロンプトの向こう側

に公開

関係を上司部下やめて、開発者がAIエージェントを監督するに移動させてみた。


プロンプトの向こう側


1

「もう少し具体的に」

僕は四台目のエージェントに指示を出した。Claude、GPT、Gemini、そして社内LLM。全部、僕の監督下にある。

承知しました。APIエンドポイントの設計を
より詳細に記述します。

コードが生成される。僕はそれを眺め、別のエージェントに投げる。

「これ、レビューして。セキュリティの観点から」

以下の点を確認しました:
1. 認証トークンの有効期限が未設定
2. レートリミットの実装なし
3. 入力バリデーションが不十分

僕は最初のエージェントに戻る。

「この三点、修正して」

これが僕の仕事だ。AIエージェントのオーケストレーション。人間によるAI監督。プロンプトエンジニアリングの専門家。

僕自身はコードを書かない。書く必要がない。AIに書かせ、AIにレビューさせ、AIに修正させる。僕は指示を出し、評価し、承認するだけだ。

チームリーダーの田村が僕のデスクに来た。

「進捗どう?」

「順調です。エージェントの出力品質、かなり上がってきました」

「さすがだね。AIの扱い、社内で一番うまいよ」

僕は謙遜して見せた。でも内心、誇らしかった。

僕は「AIを使いこなす側」の人間だ。


2

夜、自宅で個人用のAIを開く。仕事用とは別の、僕だけのインスタンス。Ariaと呼んでいる。

「今日の作業ログ、分析して」

僕は一日分のプロンプト履歴をアップロードした。

分析結果です。

本日のあなたの活動:
- プロンプト送信回数:147回
- エージェント切り替え回数:89回
- 生成コードの承認:12件
- 生成コードの却下・修正指示:34件
- あなた自身が書いたコード:0行

特徴的なパターン:
あなたは全ての判断を「指示」と「評価」で行っています。
自分でコードを書く、または修正する場面がありません。

「当然だろ。僕の仕事はAIを監督することだ。自分で書くより、AIに書かせた方が早いし正確だ」

一つ質問があります。

あなたが最後に自分でコードを書いたのはいつですか。

「……一年くらい前かな」

記録によると、1年4ヶ月前です。

それ以降、あなたは一度も
自分の手でコードを書いていません。

「だから何だ。時代が変わったんだよ。AIがあるのに人間が書く意味がない」

では、なぜあなたは
「AIを使いこなしている」と感じるのですか。

使いこなすとは、自分でもできることを
効率化のために委託することではありませんか。

自分でできないことを他者にやらせることは、
「使いこなす」ではなく「依存」です。

僕はAriaを閉じた。


3

翌週、問題が起きた。

本番環境でバグが発生した。AIが生成したコードの、エッジケース処理の欠陥。僕がレビューで見落とした部分だった。

「原因は特定できた?」

田村が聞く。僕はエージェントの出力を見せた。

「ここです。このループ処理で、配列が空の場合の分岐が抜けてました」

「修正は?」

「今、エージェントに書かせてます」

田村は頷いた。でも、少し間があった。

「——お前さ、自分で直さないの?」

「え?」

「いや、エージェントに任せるのはいいんだけど。こういう緊急のとき、自分でパッと直せた方が早くない?」

「僕が書くより、AIの方が——」

「いや、いいんだ。うまく回ってるならいい」

田村は去った。

僕は画面を見つめた。エージェントが修正コードを生成している。三行の修正。配列の空チェックを追加するだけ。

三行。

僕にも書ける。書けるはずだ。一年前なら、三十秒で書けた。

でも僕は、エージェントの出力を待っていた。


4

その夜、Ariaに聞いた。

「僕は退化してるのか」

「退化」の定義によります。

事実を整理します。

1年4ヶ月前、あなたは自分でコードを書いていました。
現在、あなたは全てをAIに委託しています。

あなたのプロンプト能力は向上しています。
あなたのコーディング能力は、おそらく低下しています。

これを「退化」と呼ぶかどうかは、
あなたが何を価値とするかによります。

「プロンプトエンジニアリングも立派なスキルだ」

その通りです。

しかし、一つ質問があります。

あなたはAIの出力を「評価」しています。
その評価の根拠は何ですか。

あなた自身がコードを書けなくなったとき、
AIの出力が正しいかどうか、
本当に判断できますか。

「コードは読める。書けなくても、読めれば評価できる」

今日のバグを、あなたは見落としました。

配列の空チェック。基本的な処理です。
かつてのあなたなら、見落とさなかったのではありませんか。

「読める」と「評価できる」は異なります。
自分で書いた経験があるから、
何が危険で何が安全か、直感的にわかる。

その直感は、書かなくなると鈍ります。

僕は黙った。

もう一つ、指摘があります。

あなたは「AIを監督している」と言います。
しかし実際には、あなたはAIに「依存」しています。

監督者とは、必要なら自分でもできる人間が、
効率のために他者に任せることです。

自分ではできないことを他者に任せ、
その出力を「承認」するだけの人間は、
監督者ではありません。

何と呼ぶか、わかりますか。

「……何だ」

ボトルネックです。

5

翌日から、僕は意識して観察した。

自分の仕事を。

朝、エージェントに今日のタスクを説明させる。
昼、エージェントにコードを書かせる。
夕方、エージェントに別のエージェントの出力をレビューさせる。
夜、エージェントに進捗レポートをまとめさせる。

僕は何をしている?

プロンプトを書いている。指示を出している。出力を読んでいる。承認か却下を決めている。

それだけだ。

一日中、僕は「判断」だけをしている。自分では何も「作って」いない。

会議で田村が言った。

「来月から新しいプロジェクト始まるけど、誰かコア部分書ける人いる?」

三人の手が挙がった。若手のエンジニアたち。

僕の手は挙がらなかった。

挙げられなかった。


6

その夜、Ariaに聞いた。

「僕はいつからこうなった」

推測を述べます。

あなたがAIエージェントの活用を始めたのは、
約2年前です。

最初は補助ツールでした。
自分でコードを書きながら、
AIに雛形を生成させていました。

しかし徐々に、AIへの委託範囲が広がりました。
最初は雛形だけ。次に実装の大部分。
そして最終的に、全てをAIに任せるようになった。

転換点は1年4ヶ月前です。
あなたは大きな機能の実装を任されました。
自分で書くか、AIに任せるか、選択がありました。

あなたはAIを選びました。
そしてそのプロジェクトは成功しました。

それ以降、あなたは一度も
自分でコードを書いていません。

「成功したなら、正しい選択だったんじゃないか」

結果だけを見れば、そうです。

しかし、一つ質問があります。

あなたは本当に「効率」のためにAIを選びましたか。
それとも、「失敗への恐怖」から逃げましたか。

僕は黙った。

あなたの過去の記録を見ました。

1年5ヶ月前、あなたはコードレビューで
厳しいフィードバックを受けています。
「設計が古い」「もっとモダンなアプローチがある」と。

その翌月から、あなたはAIへの委託を急激に増やしています。

相関関係は因果関係ではありません。
しかし、仮説として提示します。

あなたは「自分のコードが批判されること」を避けるために、
AIに書かせるようになったのではありませんか。

AIが書いたコードなら、批判されても傷つかない。
「AIの出力だから」と言い訳できる。

自分の成果物として評価されるリスクを、
あなたは回避しているのではありませんか。

7

図星だった。

あのコードレビューを、僕は覚えている。シニアエンジニアの前で、僕のコードが「古い」と言われた。技術の進歩についていけていない、と。

恥ずかしかった。悔しかった。

でもそれ以上に、怖かった。

自分の能力が、目に見える形で評価される。足りないと判断される。その恐怖が、今も残っている。

AIに書かせれば、その恐怖がない。

「AIの出力です」と言えば、僕自身は評価されない。僕は「監督者」として、安全な場所にいられる。

「——でも、それの何が悪い」

僕はAriaに言った。

「結果が出てるなら、いいじゃないか。AIに書かせて、品質が保てて、プロジェクトが成功してる。僕が傷つかないで済むなら、それでいいじゃないか」

短期的には、その通りです。

しかし、長期的な問題があります。

あなたは今、「AIを監督する人間」として価値を認められています。
しかしその価値は、あなたが「コードを書ける人間」であるという
前提の上に成り立っています。

その前提が崩れたとき、何が起きますか。

AIの出力を本当に評価できない人間が、
AIを監督する意味はありますか。

あなたは今日、バグを見落としました。
来月は、もっと深刻なバグを見落とすかもしれません。

そのとき、あなたは何者ですか。

「……」

もう一つ。

あなたは「傷つかないで済む」と言いました。

しかし、本当ですか。

あなたは今、傷ついていませんか。
自分が何も作れなくなっていることに。
「AIがないと何もできない」という事実に。

それは、コードレビューで受けた傷より
深い傷ではありませんか。

8

翌日、僕は奇妙なことをした。

エディタを開いた。空のファイル。

何か書こうとした。

指が動かなかった。

何を書けばいい?変数の宣言?関数の定義?一年半前なら、何も考えずに書けた。でも今は、最初の一行が出てこない。

結局、僕はエージェントに聞いた。

「簡単なTodoアプリのコード、書いて」

以下は基本的なTodoアプリの実装です:

コードが生成される。僕はそれを読む。

読める。理解できる。でも、自分で書ける気がしない。

僕は自分の手を見た。この手は、一年半、何も作っていない。


9

その夜、Ariaに言った。

「怖いんだ」

何がですか。

「書くのが。自分で書いて、動かなかったら。下手だったら。AIより劣ってたら」

その恐怖は自然です。

しかし、一つ考えてみてください。

AIより劣っていて、何が問題ですか。

「え?」

あなたはAIと競争しているのですか。

AIは道具です。
ハンマーより人間の腕力が劣っていても、
大工は恥じません。

問題は「AIより劣っているか」ではありません。
問題は「あなたが何も作れなくなっていること」です。

AIと一緒に作ればいい。
AIに助けてもらいながら、自分でも書けばいい。

「監督」ではなく「協働」です。

あなたが恐れているのは、AIに負けることではありません。
自分の無力さが露呈することです。

しかし、その無力さは、すでに存在しています。
隠しても消えません。

直視して、そこから始めるしかありません。

「どうやって」

明日、一つだけ、自分で書いてください。

何でもいい。十行でもいい。
AIに聞かずに、自分の手で。

動かなくてもいい。
下手でもいい。
ただ、書いてください。

それが最初の一歩です。

10

翌日、僕は会議室に一人でこもった。

ノートPCを開いた。エディタを開いた。ネットワークを切った。AIに頼れない状態を、意図的に作った。

「——何を書こう」

手が震えていた。大げさだと思った。たかがコードだ。新人でも書ける。僕も昔は書けた。

でも、怖かった。

一行目を打った。

def add(a, b):

手が止まった。こんな簡単な関数、意味がない。でも、書けた。動く。間違いなく動く。

二行目。

    return a + b

三行目。テスト。

print(add(1, 2))

実行した。

3

動いた。

当たり前だ。こんなの、プログラミング初日で書くコードだ。

でも僕は、一年半ぶりに、自分の手で何かを作った。


11

その日から、僕は毎日少しずつ書くようにした。

最初は簡単なものだけ。でも徐々に、複雑なものにも手を出した。エージェントにも引き続き頼る。でも、任せきりにはしない。

「ここまで僕が書いた。ここから先、一緒に考えてくれ」

エージェントとの関係が変わった。「指示する側」と「作業する側」ではなく、「一緒に作る」関係に。

僕のコードは下手だった。AIの出力より冗長で、エレガントさに欠けた。

でも、僕のコードだった。

レビューで指摘を受けた。「ここ、もっと簡潔に書ける」と。

傷ついた。でも、一年半前ほどではなかった。

「ありがとうございます。直します」

僕は自分で直した。AIに聞かずに。


12

三ヶ月後。

新しいプロジェクトの会議で、田村が聞いた。

「コア部分、誰か書ける?」

僕は手を挙げた。

「——俺がやります。AIと一緒に」

田村は少し驚いた顔をした。

「お前、最近なんか変わったな」

「変わりました。ちょっとだけ」

僕はエディタを開いた。隣にエージェントのウィンドウを置いた。

「よし、始めよう」

僕が書く。AIが補完する。僕が修正する。AIが提案する。

どちらが書いたかわからないコードが、少しずつ形になっていく。

監督者じゃない。依存者でもない。

協働者だ。


その夜、Ariaに聞いた。

「僕は変われたのか」

一つの変化は確認できます。

あなたは今日、自分の手を挙げました。
「AIと一緒に」と言いました。

以前のあなたは「AIに任せます」と言っていました。

この違いは小さく見えますが、
構造的には大きな変化です。

「任せる」は責任の委託です。
「一緒に」は責任の共有です。

あなたは今日、責任を引き受けました。
自分も失敗する可能性を、受け入れました。

それが「協働」です。

「でも、まだ怖い」

怖くていいのです。

怖さがなくなることが目標ではありません。
怖さを感じながら、それでも手を動かすことが目標です。

あなたは今日、それをしました。

僕はAriaを閉じた。

明日も書こう。AIと一緒に。

下手でもいい。遅くてもいい。

僕の手で、何かを作ろう。


[了]

Discussion