カメラが画家を要らなくしなかったように、AIはエンジニアを要らなくしない?
【書くということ】AI時代に「意味」を取り戻す芸術家たちの生存戦略というYoutube動画を見た古いエンジニアのポエム。
不完全な今は、ただの通過点
カメラが初めて世に出たとき、便利な魔法の道具なんかじゃなかった。1枚撮るのに3〜30分もの露光が必要で、画質はボヤけたモノクロ。それがわずか3年ほどで露光は1分未満にまで縮まり、今ではスマホで高解像度フルカラーが当たり前になった。
今のAIが見せる「ハルシネーション」や「詰めが甘いコード」も同じ。初期ダゲレオタイプの「ボヤけた写真」みたいなもので、過渡期のノイズでしかない。不完全なのは今だけ。
仕事を奪われたんじゃない。新しい仕事が生まれた
カメラが普及して「現実を正確に写す」役割が機械に移ったとき、画家たちは存在意義を問い直す必要に迫られた。写真の登場は一因にすぎないけど、そこから印象派が生まれた。写真が「見たまま」を写せるなら、絵画は「光をどう感じたか」を描く。まったく新しい方向性だった。
でも、もっと大事なのはここから。
カメラの登場は、ただ画家から仕事を奪っただけじゃなかった。「写真家」や「映画監督」という、それまで存在しなかった職業をゼロから生み出した。 ダゲレオタイプの発表から数十年で、写真スタジオが世界中に広がり、連続写真の技術を経て「映画」という巨大産業が生まれてる。
AIも同じ道を辿ると思う。コードを書く作業がAIに移ったとき、その先にどんな仕事が生まれるかは正直わからない。でも、カメラが「写真家」を、映画が「監督」を生んだように、今の僕らには想像もつかない何かが必ず出てくる。それだけは歴史が保証してくれてる。
アプリが消えて、AIと直接つながる
自律型AIエージェントが進化して人間の意図を深く理解するようになったら、今ある「アプリケーション」のほとんどはいらなくなると思ってる。
スマートグラスで視界にAIが重なり、その先にはNeuralinkのようなブレイン・コンピュータ・インターフェース(BCI)がある。スクリーンやボタンに頼るGUIから、音声やジェスチャーへ、そしていずれは脳との直接接続へ。
インターフェースは「操作するもの」から「対話するもの」へ、そしていずれ「意識するもの」ですらなくなる。
「AIに個人情報を渡すなんて怖い」←これ、前にも聞いた
Zero UIやBCIの話をすると、必ず出てくるのが「個人情報をAIに預けるなんて怖い」っていう反応。気持ちはわかる。
でもこれ、クラウドコンピューティングの黎明期とまったく同じ。「自社の機密データを外のサーバーに置くなんてありえない」が当時の常識で、業界全体が「怖い」と二の足を踏んでいた。
で、今どうなってるかは言うまでもない。
AIへの不安も同じ道を辿る。数年もすれば「AIにコンテクスト共有しないとか不便すぎない?」って空気になると思ってる。
まだ名前のない仕事が、僕らを待ってる?
1839年の時点で「映画監督」なんて言葉を知ってる人間は地球上にひとりもいなかった。僕らも今、たぶん同じ場所に立ってる。
……と、ここまで書いておいてひっくり返すけど。
ハラリは『NEXUS』の中でこう言ってる。「AIはツールではない。行為主体(エージェント)だ」と。印刷機も蒸気機関も原子爆弾も、どれだけ強力でも使い方を決めるのは常に人間だった。でもAIは自ら学習し、判断し、新しいアイデアを生み出す。人類が初めて作り出した「道具じゃない技術」。
つまりこの記事で書いてきた「カメラとの比較」は、たぶん半分しか正しくない。AIはカメラのような単純な道具じゃない。人類がこれまで経験したことのない、自分で意思決定ができる存在。その先に何が起きるかは、本当に誰にもわからない。
だからこそ問われるのは、「AIに何をさせるか」だけじゃなく、「AIが自ら判断し始めたとき、人間はどこに立つのか」だと思う。カメラの時代、画家は「自分にしか描けないもの」を見つけることで生き延びた。AIの時代、エンジニアに求められるのも同じ——ただし今度の相手は道具じゃない。だからこそ、何を作るかだけじゃなく、なぜ作るのか、誰のために作るのか。その「意味」を定義できる人間であり続けること。それがたぶん、道具じゃないものが現れた世界での、エンジニアの生存戦略になる。
Discussion
画家は、カメラが実現した写実性から、抽象性に回避した。これは機械が持ち得ない「身体性」への回帰と言えるが、エンジニアにとっての身体性とは何か、を考察する必要がある。
新しい職業や職能が生まれることは、旧来の労働者が移行できると言う事ではない。
ハラリの、AIはツールではない、という主張を適用するならば、ツールであるクラウドとAIは混同できない。
ハラリは言う「人間は虚構を信じる生き物だ」
これは、近代、誰もが社会構造や虚構に価値観を委ねている事実を指している。誰のため、何のため…という問いは、経済成長や市場経済という価値観にコントロールされ、実存的必要性ではないのだ。
ならば、AIが構築する虚構に誰が気づき、誰が抵抗できると言えるのだろうか。
この記事は不安を抱くエンジニアを心地よくする虚構であり、根拠のない救済の約束だ。
結果的にAIに対する、身体性、実存性から目を背けているのである。