🛀

どこからでもAIで仕事をできるようにしたけど、疲れてやめた話

に公開

お風呂から始まるエンジニアリング

きっかけはお風呂でした。私はお風呂が好きで、毎日湯船に一時間は浸かっています。お風呂でのんびり小説や漫画を読む。熱でも出ない限りは、そうやって湯船に浸かってのんびりとする時間は欠かさずとっていました。

AIがまだそこまで長時間稼働できなかった今年の初め。お風呂に入る前に、ふとPCの前に引き寄せられるようになりました。これから一時間以上、自分は席を離れる。その間、AI はタスクを中途半端なところで止めてしまうかもしれない。動かせるのに動かさないのが、なんだかもったいない気がしました。

そして、長時間タスクを安定して実行させたい、ゴール(Definition of Done)だけ示したら勝手に AI がタスクをこなしてほしいという思いが強くなり、その頃から Kiro CLI(※私はAWSの社員です)の外側にプロンプト注入やループを回す仕組みをPythonで仕立てて、いくつかのツール、スキルなどなどを追加していくことで、今で言うハーネスエンジニアリング+アプリのようなものを自前で作り始めました。

これが意外とうまく行って、行き着くところまで行った結果、スマホでタスクの進捗を見られるようになりました。その結果、お風呂でも、外出先からでもタスクの状況を監視できるようになりました。

それだけでは飽き足らず、スマホからAIお仕事エコシステムに対してチャットで依頼ができるようにしました。

速くなったのに疲れる

便利は便利でした。お風呂でも移動中でも、思いついたらタスクを投げておける。タスクが終わったらその場で確認できる。ゴールさえ書いておけばリサーチから実装までやってくれるし、途中経過を見て気になるポイントがあったら、修正依頼を出すと勝手に取り入れてくれる。生産性は正直とても上がったと思います。

それで、前より圧倒的に疲れるようになりました。それが数日続くと、集中力に影響が出て、些細なミスが発生するようになりました。

効率化されて仕事が楽になったはずなのに疲れるのは、おそらくいくつかの理由がありました。

単に休んでいた時間が労働に置き換わっていたためということはあるでしょう。お風呂も移動も、もともとは仕事とは切り離された時間だったのが、スマホでAIに依頼ができることで仕事の場になってしまっていました。

同時に、止めどきが消えていました。AIの結果には、はっきりした「完成」がありません。返ってきたものは、もう一回指示すればもう少し良くなる。その「もう少し」がいつも残っているし、どこからでも「もう少し」をつっつくことができる仕組みを作ってしまった以上、どこで切り上げるかは自分で決めるしかない。でもそこで意思を強く持って作業を切り上げられる人間は、最初からお風呂でSlackを通じてAIに命令なんか出しません。

以前は、仕事の区切りは外側から来ることが多くありました。複数人で作業すれば、明確な終了ラインを引く必要が出てきます。あるいは単純に、期限が、退勤時間が、強制的に作業を打ち切ってくれます。自分ひとりでは仕上げきれないと察して、一旦諦めて翌日人に聞こうとなったこともありました。

しかし、仕組みを作ったことで、AIがそういった区切りをまとめて取っ払ってしまいました。AIがいれば一人でもタスクは進むし、限界も感じにくいし、待つ時間もありません。命令して、結果が出て、また命令して、修正された内容に満足して、という手応えが間を置かずに続く。SNSやショート動画が人を離さないのと、たぶん同じ仕組みです(ドーパミンがどうという話に近いのかもしれません)。結果が返るとすぐ次を打っている自分がいて、生活がどんどんそれに引っ張られている自覚がありました。

正しさは結局自分で担保する

疲れる理由は、あと一つありました。AIが出してきたものが正しいかどうかを、結局は自分で判断しないといけなかったからです。AIの発言や成果物を鵜呑みにして、そのまま自分の成果として出すこともできます。ただそれは、認知的負債を生み出します。自分の名前で出す仕事である以上、その品質と正しさは自分で担保するしかないし、何より、確認もせずにAI仕事をそのまま通すようなことを自分自身が許せませんでした。だから、作業そのものは速くなったのに、AIの出力を読んで、裏を取って、誤っていたら直させて、知らないことは学習して……と、考える時間が圧倒的に増えました。

便利さを自分から消した

休みが侵食されて、止めどきが消えて、生活がAIに引っ張られ、それによる脳の疲労が蓄積し、と重なったところで、私はスマホからAIに命令できる仕組みを消しました。アプリから機能を消すときには当然、ためらいがありました。せっかく作ったのに惜しいという気持ちは当然ありますし、こんなに便利なものを自分から手放すことに対するもったいないと思う気持ちがブレーキになっていました。

便利さを取りこぼしたくない、時間を無駄にしたくない、そういう「もったいない」が、入口ではAIをもっと使うように仕向け、出口ではAIを手放すのを引き止めにきたわけです。このとき、私が向き合って管理しないといけない相手は、この「もったいない」という感情であり、すなわち人間でもあると気づきました。

そして私は、スマホとAIを繋ぐ機能を削除しました。

「介入」を設計する

自分の心が素朴に感じた「もったいない」に身を任せていると、人間のほうが続かなくなります。短期的には回っても、いつか限界が来ることでしょう。だから意図的に制約を入れるしかない、というのが消してみての結論でした。今でも脳の疲労はとても強いですが、まだ制御できているなという実感があります。

誤解のないように書いておくと、AIを中心に据えたワークロードを組むこと自体は、これからむしろ大事になると思っています。車で言えば、AIはめちゃくちゃイケているエンジンです。使わない道理はありませんし、主役にだってなれます。ただ、強いエンジンを積むほど、それに見合うブレーキやサスペンション、座り心地のいい運転席を設計しないと、車も人ももちません。中心にエンジンを置くのは正しくても、周りを設計しなければ、先に壊れるのは乗り手かエンジン以外の部品のほうです。

AIを速くする工夫はおもしろいし、いくらでもできてしまいます。でもその速さは、放っておくと人の余裕を、回復するための時間を、全て奪いに来ます。だから、速くする側と同じだけ、あえて触らない部分も設計する。どのように人がAIを触るかのルールを明確にする。これを私は「介入を設計する」と言っています。介入というとかっこいいですが、結局のところ、人という存在もAIワークロードの一部としてきちんと設計する。そういう話です。

私の場合は「スマホから命令できる仕組みを消す」が、介入設計の第一歩でした。その後、人の介入タイミングを特定の時間に絞る、人がレビューする粒度を状況に応じてコントロールするなどいろいろなことをしましたが、介入点を増やすのは簡単でも絞る方にコントロールするのは難しかったです。でもそこにこそ、AI活用の妙が詰まっているように思っています。

人という存在を、AIに介入”させられる”受動的な存在ではなく、介入する存在として能動的に定義することが、今後AI時代において人が生き残っていくコツなのではないでしょうか。

今はハーネスやツールが整ってきたことで、わざわざ自前で仕組みを作らずとも、ここに書いたようなことはできてしまいます。それこそClaudeCode一つあれば十分でしょう。そして、これからはもっとAIが手軽に使えるようになっていきます。だからこそ、AIから離れる時間もぜひ大切にしてみてください。

お風呂の間、AIくんは今も自室とデータセンターの間で動いています。けれども彼はもう、私のお風呂読書を邪魔しなくなりました。

関連リンク

Discussion