技術観光ガイド お台場編
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あなたの知らないお台場巡り
お台場が東京有数の観光スポットであることに疑問の余地はないだろう。近年には豊洲などの新興エリアに衆目が移りつつはあるものの、お台場には1996年開業のデックス東京ビーチ、2000年開業のアクアシティお台場、2012年開業のダイバーシティ東京プラザといった大型商業施設が立ち並ぶ。さらに、フジテレビ本社ビルをはじめとする未来的な建築群や、「肉フェス」などの大型野外イベントが開催される広場もあり、週末ともなれば多くの人でにぎわっている。加えて、技術や科学に関心のある人々にとっても見逃せない地域でもある。日本科学未来館や船の科学館といった技術博物館が立地するほか、屋内型テーマパークの東京ジョイポリスやうんこミュージアム TOKYOでは、VR技術などを活用した体験型アトラクションも楽しめる。
しかし本稿では、このような定番スポットとは違った視点でお台場に目を向けてみたい。そもそも「お台場」の歴史は、江戸時代末期の嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍艦隊が浦賀に来航したことに遡る。これを受けて江戸幕府が江戸湾防備のために築いた砲台群が「品川台場」であった。品川台場は第六台場までが完成し、未完成のものを含めて計画上は第七台場までが存在したが、現在一般に「お台場」と呼ばれるのは、第三台場とその周辺の埋立地を中心とするエリアを指すことが多い。そこで本稿では現在のお台場から歩を進め、これらの台場群の痕跡も含めた「すべてのお台場」をたどっていく。
実物大ユニコーンガンダム立像

実物大ユニコーンガンダム立像
ダイバーシティ東京プラザの手前に聳え立つのは、設定全高21.7メートルのユニコーンガンダム実物大立像である。その体高は地上9階建てのダイバーシティの半分近くに及び、お台場エリアを周回するモノレール「ゆりかもめ」からも、その威容をはっきりと確認することができる。ユニコーンガンダムは、1979年放映開始のテレビアニメ『機動戦士ガンダム』に端を発するガンダムシリーズの一作『機動戦士ガンダムUC』に登場する人型巨大ロボットである。2007年より福井晴敏の執筆によって小説が展開され、完結後にアニメ化もされた同作において、主人公バナージ・リンクスが搭乗した。額の一本角とマスク状の顔を特徴とする定常形態「ユニコーンモード」と、いわゆるガンダム顔へと変化する戦闘形態「デストロイモード」という二つの姿を持つのが大きな特徴であり、お台場の実物大立像でも両形態への変形が再現されているが、近年は不具合からか、デストロイモードの状態で固定されていることが多いようだ。現在では、ららぽーと上海金橋の実物大フリーダムガンダム立像(2021年設置)や、ららぽーと福岡の実物大νガンダム立像(2022年設置)など、各地に実物大ガンダム立像が設置されるようになった。しかし、その嚆矢はお台場にある。2009年、お台場・潮風公園に『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイ少年の乗機であるRX-78-2ガンダムを再現した「実物大ガンダム立像」が設置され、のちに静岡を経て現在のダイバーシティ前へと移設された。これが2016年に撤去され、その後2017年に公開されたのが、現在見ることのできる実物大ユニコーンガンダム立像なのである。
さて、このお台場観光の冒頭でガンダム像を取り上げたのには理由がある。この巨大な創作物の模型こそが、お台場という土地の性格を端的に象徴しているからだ。というのも、お台場は新興の埋立地という成り立ちと、港湾に面した特異な景観とをあわせ持ち、これまで数多くの創作の舞台となってきた。たとえば1995年公開の『ゴジラvsデストロイア』では、1984年に始まる〈ゴジラ平成VSシリーズ〉の最終決戦がお台場・有明エリアで繰り広げられた。続く2000年の『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』では、怪獣の襲撃を受けて大阪へ遷都したという架空の戦後史が描かれ、古代から時を超えて現れたトンボ型怪獣メガギラスとの戦いの舞台として、現実とは異なる発展を遂げたお台場の景観が提示されている。また、『ウルトラマン』シリーズにおいてもお台場は幾度となく登場する。たとえば1997年の『ウルトラマンゼアス2 超人大戦・光と影』、2003年の『ウルトラマンコスモスVSウルトラマンジャスティス THE FINAL BATTLE』、さらに2024年の『ウルトラマンブレーザー THE MOVIE 大怪獣首都激突』といった作品のなかで、お台場を闊歩する巨人の姿が繰り返し描かれてきたのである。

トミンタワー台場三番街
さらにアニメ作品に目を向ければ、1999年放送の『デジモンアドベンチャー』は、お台場の団地に住む少年少女を主人公とする物語であり、フジテレビ本社ビルやトミンタワー台場三番街といった実在の景観のなかに出現した怪物との戦いが描かれている。このように、お台場は数々の創作のなかで、巨大な怪獣や異星人、ロボットが出現する場所として位置づけられてきた。だからこそ、そこに実物大ユニコーンガンダム立像が立っていることも、ある種の必然といえるのかもしれない。思い出してみよう。かつて、この地はペリー提督の黒船に備えて築かれた砲台であった。それが現在では、空想の侵略者を迎え撃つための空想の兵器が備えられているのである。
台場公園

第三台場
ではあらためて、当初築造された八つの品川台場を順に巡っていきたい。まず取り上げるのは、築造当時の姿を今にとどめ、現在一般に立ち入ることのできる唯一の台場、第三台場である。
第三台場とは、現在のお台場エリア北側、お台場海浜公園の北端に位置する台場公園のことだ。繰り返しになるが、品川台場の築造は、嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー提督率いるアメリカ海軍、いわゆる「黒船」の来航を契機として始まった。翌年の再来に備え、わずか一年足らずの間に、七か所の海上砲台と一か所の地上砲台が築かれたのである。まず驚かされるのは、現在立ち入ることのできる第三台場だけを見ても、土木重機など存在しなかった170年以上前の時代に、これほど巨大な人工島が一年に満たない期間で造り上げられたという事実だ。しかも、同様の台場が七つも築かれたのである。この未曾有の巨大土木事業は、いかにして成し遂げられたのだろうか。

江川英龍像(静岡県伊豆市)
さて、台場築造のあらましについてはこれから少しずつ紹介していくのだが、その前に、まずはこれに関連する一人の人物を取り上げておこう。それが江川英龍、号して江川坦庵である。坦庵は江戸後期の幕臣で、伊豆韮山の代官を務めた人物だ。彼こそ品川台場築造を実質的に指揮した中心人物であり、さらにいえば、幕末日本の技術史を語るうえでも見過ごすことのできない人なのである。
レインボーブリッジ遊歩道

レインボーブリッジ
台場公園へと至る道を戻ると、首都高速道路台場線と「ゆりかもめ」が通るレインボーブリッジに行き着く。1993年に竣工し、2003年公開の映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』の舞台となったことで、全国的にその名が知られるようになった橋である。この橋は、お台場海浜公園から芝浦埠頭へと続く交通の要所だが、実は歩いて渡ることのできる遊歩道が設けられていることをご存じだろうか。そして、海浜公園側からレインボーブリッジ遊歩道へと入る、レインボープロムナード台場口付近の海域こそが、第七台場の置かれていた場所なのである。かつて築造され、未完のまま放棄された最後の台場──それが沈む海域を見下ろしながら、遊歩道を歩いていこう。

第六台場。右奥には品川埠頭が見えるが、その北端と第六台場の中間にはかつて第二台場が存在した
遊歩道を中ほどまで進むと、眼下に整然とした正方形の人工島が姿を現す。これが、現存するもう一つの台場、第六台場である。その背後には、現在は海上交通の支障となるため撤去された第二台場が沈む海域が広がっている。こうして、すでに半数の台場を見てきたことになるのだが、ここで各台場の位置関係をあらためて確認しておこう。七つの海上台場は、おおよそ次のように二列に配置されていた。
◆四 ◆五 ◆六 ◆七
◆一 ◆二 ◆三
すなわち、品川沖に七つの方形の人工島を築き、それぞれに大砲を備えることで、品川方面から江戸城へと至る海上ルートを防備する――それが、築造当時の品川台場の基本構想だったのである。さて江川坦庵は、この大事業をいかにして進めていったのか。
その発端は、幕府が若年寄の本多忠徳、勘定奉行の松平近直、同じく勘定奉行の川路聖謨、そして勘定吟味役格の江川坦庵に対し、ペリー再来航に備えて江戸近海の海岸を見分するよう命じたことにある。これを受けて坦庵は、浦賀水道から川崎を経て大森・品川に至るまで、約二か月をかけて海岸の見分と測量を行い、その調査結果を報告書としてまとめた。なお、この見分に坦庵の従者として随行していたのが、のちに「維新の三傑」の一人・木戸孝允として知られることとなる桂小五郎であった。
この報告書において、坦庵は軍船の建造と航海技術の習熟を中核とする、きわめて先進的な防備策を提案した。しかし、その内容の多くは採用されず、最終的には品川沖への台場建設という方針に落ち着くこととなる。かくして坦庵は、自らの構想とは大きく異なる形ではあったものの、引き続き台場の企画・設計、さらには大砲の製作を担うことになった[1]。
品川コンテナ埠頭

第五台場跡
レインボーブリッジ遊歩道を渡り切り、芝浦埠頭を南進していこう。港南四丁目の交差点を左折して京浜運河を渡ると、やがて品川コンテナ埠頭に至る。ふつう品川埠頭と呼ばれるこの長方形の人工島は、1967年に完成した日本初のコンテナ埠頭であり、現在では東京出入国在留管理局や、ホクレン運輸、栗林運輸、王子物流、ヤマト運輸、日本通運といった国内有数の運送会社の営業所が立ち並んでいる。そしてここは、かつて第五台場と第一台場が築かれていた場所でもある。

第一台場跡付近
さて、江川坦庵を中心とする品川台場築造計画では、埋立面積十二万七千坪、坑木四万一千本、縄六千房を必要とし、埋立だけでも七万両の費用を見積もっていた。幕府はこの計画に基づき、大工棟梁の平内大隅を招き、第一台場から第三台場までの築造を命じる。これは嘉永六年八月二十一日に起工し、八か月後の安政元年四月に竣工した。
これと並行して他の台場の工事も進められ、第四台場と第七台場は未完に終わったものの、安政元年十一月には一連の工事が完了している。工事に従事した土方や石工は全国から集められ、その数は五千人に及んだ。総工費は七十五万両に達したという。
天王洲アイル第一公園

第四台場跡
品川埠頭をさらに南へ進み、品川埠頭橋を渡ると天王洲アイルに至る。この天王洲アイルこそ、今回最後に取り上げる海上台場、第四台場の跡地にあたる場所である。そこから港南方面へ少し北上し、天王洲大橋を途中まで渡って振り返ってみてほしい。目に入る天王洲の護岸には、これまで見てきた第三台場や第六台場にも確認できたものと同じ、往時をしのばせる石垣が残されている。

台場模型(江川邸 所蔵)
さて、伊豆韮山に残る江川坦庵の旧邸には、台場建設当時に制作された模型が今日まで伝えられている。資料によれば、築造にあたってはオランダ人兵学者エンゲルベルツの著書が参照されたという。筆者はその書籍を実見してはいないが、現存する台場模型を一見して理解できるのは、坦庵の台場が近代的な砲戦を想定した「ヴォーバン様式」の特徴を備えているという点である。ヴォーバン様式とは、フランスの軍人で「17世紀最大のエンジニア」とも称されるセバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンが体系化した要塞設計で、従来の単純な四角形や長方形ではなく、正五角形や正六角形、あるいは星形を基調とする幾何学的構造を特徴とする。そして、この幾何学的な構造こそが、来攻する砲兵に対して死角をつくらず、相互に援護射撃を可能にするのである。代表例としては、フランス・リールにある「要塞の女王」リール城塞や、オー=ラン県のヌフ=ブリザックが挙げられるだろう[2]。日本で広く知られている例としては、函館の五稜郭がある。このようなヴォーバン様式の要塞はヨーロッパでは広く普及していたが、日本においてはきわめて先駆的な設計思想であったはずである。
ところで、品川台場建設という巨大事業を取りまとめる手腕を持つだけでなく、鎖国下の日本にあってヴォーバン様式のような西洋軍事技術に通じ、さらには「維新の三傑」の一人となる桂小五郎を従者として伴っていた江川坦庵とは、いったい何者であったのだろうか。
品川区立台場小学校

御殿山下台場跡
天王洲アイルから西へ進み、天王洲運河を渡ってさらに西側に広がる土地を地図で確認してみよう。その中に、ひときわ目を引く五角形の形をした区画が見つかるはずだ。そこが今回の旅の終着地、台場小学校である。そして台場小学校は、八つの台場のうち唯一の陸上台場、御殿山下台場の跡地に建てられている。
ここまでお台場の商業地域から歩みを進めてきて実感するのは、第三台場と第六台場を除けば、品川の海岸線は大きく拡張され、第一・第四・第五台場は埋め立てられ、この170年余りで江戸湾の景観は大きく変わってきたことだ。御殿山下台場付近には浦船溜りなどの古風な地域も残されているが、埋め立てによる地形変化のダイナミズムこそ、お台場の歴史そのものなのである。

品川浦船溜り
さて、旅の終わりに江川坦庵の品川台場建設以外の功績について簡単にまとめてみたい。前述の通り、坦庵は品川台場の大砲製造を任されたのだが、実際、彼は西洋の近代的な大砲の国産化を先駆的に試みた人物であった。彼が建造を指揮した伊豆韮山の反射炉では、18ポンドから80ポンドにおよぶカノン砲が製造されており、この反射炉は現在ユネスコ世界遺産にも登録されている。さらに西洋砲術の浸透にあたっては、オランダ軍の号令を翻訳し、日本人に理解しやすい号令を考案した。この号令こそ、現在の小中学校の体育などで用いられる「気をつけ、前ならえ」である。また、兵食としてのパンを導入し、日本にパン文化を広めたのも坦庵の手によるものであった。攘夷が喫緊の課題であった幕府にあって、こうした見識と実現力を持ち、名代官との呼び声も高かった坦庵が品川台場建設に抜擢されたことは、決して不思議ではなかったのだ[3]。
お台場における技術の様相
最後に、お台場における技術のあり方を考えてみよう。ここまで江川坦庵を中心に品川台場建設のいきさつを振り返ってきたが、重要なのは、170年前に坦庵が築いた品川台場と、ガンダムが立つ現代のお台場との間に、どのようなつながりを見出せるかという点である。
その橋渡しとしてとらえてみたいのが、戦後を代表する建築家・丹下健三が発表した東京の都市改革構想「東京計画1960」である。戦後の東京では、江戸以来の都市過密がさらに進み、その反省から郊外に人口を分散させる計画が立てられた。その過程で田園調布や多摩ニュータウンのようなニュータウンが整備され、郊外の自然豊かな「田園都市」と都心のビジネス地域という対照的な都市構造こそが、「目指すべき東京の姿」と考えられていた。これに疑問を呈したのが丹下で、彼は都心の超過密化をむしろ肯定し、海上にオフィスビルや住宅棟を建設し、海上高速道路で結ぶという大胆な構想を提案した[4]。もちろん、このSF的な構想の多くは現在も実現していない。しかし、レインボーブリッジをはじめとする大橋や点在する人工島群によって形作られたお台場は、丹下の思想が部分的に結実した都市空間と見ることができる。
ここで注目すべきは、江川坦庵の発想との類似である。坦庵は当初、単なる土地の埋め立てではなく海上交通を重視し、西洋軍艦を建造して江戸湾の要塞化を試みようとした。この構想も、現代の丹下のアイデアと通底しており、坦庵の時代からすれば、その先進性はまさにSFのようなものであった。だからこそ、1978年に登場したガンダムが30年の時を経てお台場に立ったことも、ある意味では必然と言えるだろう。言い換えれば、お台場とはSF的空想と現代技術が交差する、境界面の地なのである。
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仲田正之『江川坦庵』1985, 吉川弘文館 ↩︎
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ケネス・パウエル 著, 井上廣美 訳『世界の建築家図鑑』2012, 原書房 ↩︎
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本文では触れられなかったが、江川坦庵と桂小五郎との関わりについて補足したい。坦庵は幕臣として海防に尽力する一方、武芸にも励んだ。その剣術の兄弟子にあたるのが、神道無念流の剣客として知られる斎藤弥九郎である。斎藤は坦庵の良き理解者として生涯にわたって協力関係を保ち、坦庵の支援のもとで開いた道場「練兵館」は江戸三大道場に数えられるほどの隆盛を誇った。そして練兵館からは幕末維新期に活躍する多くの志士が出ており、桂小五郎、高杉晋作、井上馨、伊藤博文らが門人として名を連ねていた。そこで桂は斎藤の紹介で坦庵と関わることとなり、坦庵に随伴して補佐しながら、坦庵の兵学を学んでいったとみられる。また坦庵は、武士階層に限らず広く武備の必要性を説いたが、彼の門下には、武州多摩の名主であり天然理心流の後援者でもあった佐藤彦五郎がいた。彦五郎は、のちに新選組副長となる土方歳三の義兄にあたり、隊の結成そのものに加わってはいないものの、その活動当初から新選組を支援した人物として知られている。このように見ると、坦庵の兵学と人脈は、結果として倒幕派・佐幕派の双方に影響を及ぼしたといえる。 ↩︎
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黒塚信一郎『東京改造計画論の系譜』(荒俣宏 編『帝都物語異録』2001, 原書房 所収) ↩︎
Discussion
たいへん読み応えがあって面白い記事でした。随所に地図のスクショがあると移動の過程を追いやすい記事になる気がします。また、ZennのUIだと段落の区切りを増やしたほうが読みやすいかもしれません。
ありがとうございます。たしかに、地図のスクリーンショットを載せるとわかりやすくなりそうですね。次回以降、参考にさせていただきます。