日本書紀にみる技術の伝来
技術を伝えるという営み
現代の技術者は海外の技術動向をほぼリアルタイムで知ることができる。もちろんそのようなことはほんの十数年前までは困難なことであった。たとえば明治政府の勧業政策においては、のべ3000人近くの「お雇い外国人」が来日して雇用されたという。彼らは数年ないし十数年を日本で過ごすなかで、みずからの技術を日本の技術者たちに伝えているが、近代における技術導入とはこのように時間のかかる営みであった。また現代に立ちかえってみても、技術が「知識」の面では海外の情報をリアルタイムで知られるとしても、実際の現場ではそう簡単にはいかない。技術の「手業」や「肌感覚」は文面では伝えがたく、実際、現代の企業においても先進的な技術導入や開発プロセスの刷新は、経験者の入社に伴って行われることが少なくない。
ここで筆者が興味を覚えるのは、現在のわたしたちの生活をささえる多種多様な技術が、どのように海外から流入し、国内に普及し、旧来の技術との交わりのなかで改良されていったのかということである。実際、「新たな技術を学ぶ」ことは現代の技術者たちにとってもたいへん重要なことだが、その方法論は業界内に閉ざされる傾向があるし、そのうえ業界内の流行というものは移りかわりが激しい。とりわけソフトウェア開発においては、技術を学ぶ方法はきわめて多様化しており、工科大学の学位すらも数ある学び方の単なる一例として軽視されている。また、ネットビジネスの黎明期には学歴がなくとも天才肌のプログラマーがもてはやされたが、業界が成熟してくると次第に風向きが変わり、いまではある程度の学歴をもつ常識的な技術者が支持を得るようになった。このように、「どのように技術を学ぶべきか」に対する答えは技術領域の実情によって大きく変わってくる。とはいえ視野を広げて、分野を問わず時代を超えた「技術における学びのあり方」を考えることは意義があるのではないだろうか。そこでやや唐突かもしれないが、720年に成立した本邦最初の正史である『日本書紀』を開き、そこで示された古代日本における技術流入の実相を俯瞰してみたい。
技術に関わる渡来人の一覧
ここから『日本書紀』をもとに技術の伝来を考察する。もちろん『日本書紀』は時の王権の意向に基づいて編纂されたものであるから、内容をそのまま史実として受け入れることはできないし、むかしのことであるから、意図的ではなくても事実誤認が少なくないはずだ。とはいえ崇神天皇以降の記載については、他の文献や海外の史書、現在まで残る遺跡や考古資料から立証されている事柄も多く、大筋としては事実に基づくものと考えられる。そのような前提から、以下では『日本書紀』に登場する、技術の伝承に関連すると思われる渡来人を列挙した。なお、遣隋使・遣唐使がはじまると技術交換の実像が追いきれなくなるため、遣隋使のはじまる推古朝までを対象とした。
渡来年度 | 名前 | 出身 | 後裔氏族 |
---|---|---|---|
垂仁3年 | 天日槍 | 新羅 | 三宅連、糸井造 |
神功5年 | 高宮・忍海・佐廉・桑原の漢人 | 新羅 | 東漢 |
応神7年 | 韓人池を築造した韓人 | 高麗ほか | 未詳 |
応神14年 | 真毛津 | 百済 | 来目衣縫 |
応神14年 | 弓月君 | 百済 | 秦 |
応神15年 | 阿直岐 | 百済 | 阿直岐史 |
応神16年 | 王仁 | 百済 | 書首(西文) |
応神20年 | 阿知使主 | 百済 | 倭漢直(東漢) |
応神31年 | 武庫港の火災で送られた工匠 | 新羅 | 猪名部 |
仁徳11年 | 茨田堤の築造に従事した新羅人 | 新羅 | 未詳 |
雄略7年 | 高貴 | 百済 | 陶部 |
雄略7年 | 堅貴 | 百済 | 鞍部 |
雄略7年 | 因斯羅我 | 百済 | 画部 |
雄略7年 | 定安那錦 | 百済 | 錦部 |
雄略14年 | 漢織、呉織、兄媛、弟媛 | 呉 | 飛鳥衣縫部、伊勢衣縫 |
仁賢6年 | 須流枳、奴流枳 | 高麗 | 皮工高麗(狛部) |
武烈6年 | 麻那王 | 百済 | 未詳 |
武烈7年 | 斯我君 | 百済 | 倭君 |
欽明元年 | 己知部 | 百済 | 己知部 |
欽明元年 | 秦人・漢人 | 不詳 | 秦 |
欽明23年 | 新羅の使者 | 新羅 | 鸕鷀野の新羅人 |
欽明23年 | 新羅の使者 | 新羅 | 埴廬の新羅人 |
欽明26年 | 頭霧唎耶陛 | 高麗 | 畝原・奈羅・山村の高麗人 |
敏達6年 | 造仏工、造寺工 | 百済 | 未詳 |
崇峻元年 | 太良未太、文賈古子、白昧淳、麻奈文奴ほか | 百済 | 未詳 |
推古20年 | 路子工 | 百済 | 未詳 |
分野ごとの技術伝搬
以上の表をもとに、おおまかな技術伝来の流れを見ていこう。
製鉄・鍛冶
住吉大社宮司であった真弓常忠の研究によれば、日本の製鉄は河畔で採集される鉄の化合物である「褐鉄鉱」の鍛造にはじまったという[1]。それが弥生期にいたると渡来技術により「たたら」による製鉄法が確立され、より柔軟な鉄製品の製造が可能となってくる。日本で産出される鉄の品質と製鉄技術の高さは古代から広く知られており、中国北宋の詩人である欧陽脩は日本刀の精巧さを称えた詩を残している。
さて、『日本書紀』にある垂仁天皇2年の天日槍の渡来は、韓鍛冶の伝来を象徴するものであると広く解釈されているようだ[2]。また神功5年に渡来した新羅人の後裔である忍海漢人は、鍛冶で知られる集団であった。以上が『日本書紀』にある主要な渡来鍛冶の記載であるが、『古事記』には応神16年の王仁の来朝に際して卓素という韓鍛冶が随伴していたことが記されている。そのほか工学者の千々岩健児は天命日置明神なる古代の鋳物師を紹介しているが、日置は新羅の転訛とみられ、これも渡来人と解釈するのが妥当だろう。奈良の山中には日置の姓をもつ人が多く、真弓常忠はこれを製鉄集団の後裔だという説を提唱しているが、この日置氏こそが天命日置明神に連ねる一族であるとも推測できる。
たたら(埼玉県立歴史と民俗の博物館 所蔵)
土木・建築
古代日本の大規模な土木事業としては古墳が挙げられる。とりわけ大阪府にある誉田御廟山古墳と大仙陵古墳は世界最大級の墳墓として知られるが、その築造には測量をはじめとした高度な土木技術が必要となるはずだ。通説に従うなら、古墳の造営は土師氏が担っており、彼らは垂仁天皇の条に登場する野見宿禰の後裔であるという。さて、土師氏のもつ技術はどこからやってきたのだろうか。その手がかりは『日本書紀』に見ることができ、応神天皇の条には土木技術をもった多数の渡来人の来朝が記されている。
七年秋九月、高麗人・百済人・任那人・新羅人等が来朝した。武内宿禰に命ぜられ、諸々の韓人らを率いて池を造らせられた。そこでその池を韓人池という。[3]
この韓人池がどのような池であったのかは判然としないが、応神・仁徳両帝の時代に古墳の大規模化がきわまっていることから、土師氏の古墳造営技術は彼ら韓人たちから伝わったものだと推察できる。また応神天皇31年には新羅から造船技師と思われる工匠の一団が来朝しており、その後裔は猪名部氏を名乗り木工をもって王権に仕えている。続く仁徳天皇の御代では、11年に日本最古の築堤ともいわれる茨田の堤が築造されており、同年に来朝した新羅人が工人として携わったという。
それ以降の記載の多くは仏教伝来に伴うもので、敏達天皇6年に来朝した名称不明の造寺工や、崇峻元年の太良未太らに代表される寺院建築工が主要となってくる。また、推古天皇20年に来朝した芝耆摩呂はペルシア系の土木技師とみられ、彼に「須弥山の形と、呉風の橋を御所の庭に築くことを命じた[4]」とある。芝耆摩呂は路子工とも呼ばれ称えられたことから、橋梁技術者として高い技能を持っていたようだ。
伝 茨田堤(大阪府)
繊維・皮革
現代の日常的な感覚では気がつきにくいことだが、技術史を見渡すと繊維工業が技術進歩の尺度としてたびたび現れてくる。たとえば明治期の官営工場として富岡製糸場は著名であるし、トヨタを創業した豊田佐吉は織機の製造から出発している。東芝の創業者のひとりに数えられる田中久重も、若いころに久留米絣の織機を発明して名を上げたという。そして『日本書紀』にも織物の伝来に関わる技能者が数多く登場し、応神14年に来朝した真毛津にはじまり、雄略7年の定安那錦、雄略14年の漢織、呉織、兄媛、弟媛といった名が見える。とりわけ大きな影響をもたらしたとみられるのが応神14年に百済から来朝した弓月君で、一族を伴って渡来し、巨大な渡来氏族集団である秦(はた)氏を形成していった。機織りという言葉自体、秦氏が代々担った技術であるからハタオリと呼ぶそうである[5]。また、先立つ天日槍の渡来においても、天日槍の後裔が糸井造を名乗っていることから、彼らが紡績技術を伝えたとも考えられるだろう。
また、織物に劣らず重要なのが革製品である。現代では保管が面倒な革製品は疎まれる傾向にあるが、糸が貴重な古代においては織物以上に広く使われていたはずだ。『日本書紀』にも雄略7年の鞍部堅貴、仁賢6年の須流枳、奴流枳といった渡来人皮工の名がある。彼らは鞍や鎧をはじめとする革製の武具の製法を伝えたとみられるが、鞍部堅貴の同族には坂田寺を建立したと伝わる鞍部多須奈や、飛鳥大仏を造立した仏師として高名な鞍作止利らがおり、皮工にとどまらない技能を抱える集団であったことが察せされる。
飛鳥大仏(奈良県 飛鳥寺)
土器・陶器
日本の土器の歴史は古く、周知のように縄文土器は現在知られている世界最古の土器である。それが時代が進むと弥生土器があらわれ、そして古墳時代には土師器や須恵器といった陶器が登場するのだが、とりわけ須恵器は渡来技術により製造されたものと考えられている。『日本書紀』の垂仁天皇の条には、天日槍の来朝に関して「近江国の鏡邑の陶人は、天日槍に従っていた者である[6]」と付記されているほか、雄略7年の陶部高貴らが渡来した陶工として特記されている。このような人々が須恵器の誕生に関わったと推察されるが、日常的な食器や雑器の改良にいたっては歴史書に書かれることでもないであろうから、このほかにも数多の陶工の渡来が背後にあるのは違いないだろう。
須恵器(堺市博物館 所蔵)
帰化渡来人のゆくえ
ここまで『日本書紀』に名のある渡来人技師たちの歩みをおおまかに見てきた。もちろん『日本書紀』の読解としてはたいへん初歩的であるし、筆者には個々の技術領域への理解が不足しており表面的な解釈にとどまっているから、誤りがあれば読者の指導を仰ぎたいところである。そのうえで、ここまでの話を総括し、いち技術者としての所見を述べてみたい。
渡来技師には天日槍や弓月君のように、もともと大陸の王族に連なり大きな勢力を持っていた集団がある。彼らは秦氏や漢氏をはじめとした渡来人氏族として、秦河勝のように王権のなかで重きをなした例も多い。また、猪名部や衣縫部のように部民制のなかで職能集団を形成し、技術の伝承を代々行った一族もある。一方で、韓人池や茨田堤を築造した無名の韓人たちのように、土着の豪族であった土師氏などに早くから技術的に糾合され、名を残さなかった例もある。筆者の興が深いのはそのような無名の技術者たちで、とりわけ茨田堤の新羅人は奴婢の集団とみられるから、技術の伝承は収奪的に行われたと考えるほかない。より近年の例を上げるなら、豊臣秀吉による朝鮮出兵のおり、鍋島直茂の帰国に同行して李参平をはじめとした陶工の集団が渡来しているが、これは半ば拉致のような行為だったのではないだろうか。もちろん歴史上の出来事に対し、不確かな想像を膨らませて断罪するのは得策ではない。とはいえ、技術の伝承にはこのような仄暗い面があることにも目を向けておきたいと思う。
李参平像(佐賀県 石場神社)
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